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歴史のねむる里へ
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鎌倉(三) 駈込寺の女人たち

『歴史のねむる里へ』
[著]永井路子 [発行]PHP研究所


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二つあった縁切寺



 江戸時代に、仏教は一度死んだ──と私は思っている。わずかな例外を除けば、宗教活動は皆無に近い。日本人は宗教心が薄いといわれるが、そうなってしまったのは、現代人だけの責任ではなく、江戸時代のお寺の怠慢のせいでもある。


 そのころ、寺は役所の戸籍係の代役をつとめるだけの所になり下がっていた。はじめは、例のキリシタン禁制を徹底させるために、幕府によって寺請制度が作られたわけだが、キリスト教伝播の危険がなくなった後も、この制度は持続され、嫁に行くにも、引越しするにも、寺から寺へ戸籍が送られ、常に寺がかかわりを持つようになった。


 つまり寺は、人間の移動の自由を極端に制限した徳川幕府の権力の末端機構として、片棒をかつぐようになったのだ。そのかわり、ちゃんとした寺領も認められたから、どの時代にもまして生活は安定したであろうが、その上にあぐらをかいて、魂の問題はお留守になった。宗教が政治の前にひざまずくとどういうことになるか、これはその見本のようなものである。


 だから私はそれ以前の仏教には関心を持つが、江戸時代の寺を、それと同じような意味で考えることはできない。ただ、中で非常に特殊な社会活動をしたという意味で、縁切寺の存在は、この時期の寺の中の異例なあり方として目をとめてよいと思う。


 ふつう縁切寺、あるいは駈込寺、駈入寺などと呼ばれているのは、鎌倉の東慶寺である。が、じつは駈込寺はほかにもある。今は廃寺になっている群馬県新田郡尾島町徳川の満徳寺がそれである。


 江戸時代には、ふつう女性側から離婚の申し立てはできないことになっていたが、ここの二つの寺にかぎって、女性が駈込み訴えをすれば、離婚が成立する。これが二つの寺が駈込寺または縁切寺と呼ばれる理由である。


よくある二つの誤解



 ところでこの縁切寺は有名だが、ここに駈込んだ女性については、誤解されている点が、かなり多い。そしてその誤解に基づいて、やたらに面白おかしく語り伝えられるあまり、一方では、当時の女性一般の生き方に対する誤解まで生みだしている部分がある。ここでは、東慶寺を例に、有名なこの縁切寺の知られざる部分を書いてみようと思う。なお、東慶寺については先住職、井上禅定師の『駆込寺』ほかの諸著作、鎌倉在住の歴史家小丸俊雄氏の労作があり、満徳寺については、伊勢崎市の五十嵐富夫氏の諸作がある。これらの著作を参考にさせていただいたことをお断りしておく。


 さて、縁切寺の誤解の第一は、ここに駈込んだ女性は皆尼になってしまうと思われていることだ。かく言う私も、縁切寺の実態を知るまでは漠然とそう考えていた。が、これは大ちがいだ。駈込んだ女たちは、別に尼になりたくてくるのではないし、また尼にならねばならぬ義務もない。中にはどうしても尼になりたいという人もいたらしいが、これは例外で、彼女たちの目的は、嫌な男と別れること、さらにいえば、別れてほかの男と結婚できる保証をとりつけることにある。


 そのことは現在残る縁切状を見ればよくわかる。縁切状は、ふつう二つのことが書かれている。たとえばこんなふうである。


其の方儀、望みにまかせ離縁致し候

然る上は、(いず)(かた)に縁付候とも

此方一切(さし)(かまえ)ござなく候。後日の

(ため)離縁一札(よつ)如件(くだんのごとし)



 だいたい三行半に書いてあるので、これを「三(くだ)り半」という。

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