『大橋鎭子と花森安治 美しき日本人』
[著]長尾剛
[発行]PHP研究所
食っていかなければ
戦争に負けると、都市部の食糧難は、むしろ戦時中よりひどくなっていった。
平成時代に生きる私たちにはにわかに信じがたいことだが、日本の食糧不足は戦後十年間、昭和三十年頃までは続いている。
理由は、いろいろある。
アメリカによる日本本土空爆と艦船のおびただしい撃沈により、食糧の輸入と国内流通のインフラが壊滅状態になっていたこと。
戦時中の徴兵によって農作業従事者が圧倒的に減っていたこと。
その一方で、大陸などからの引き上げ民によって、国内人口が戦時中より増えたこと。
さらには多くの農家が、国家統制のなくなったのをいいことに、収穫物を正規のルートではなく、より高く売れる闇ルートに流すようになったこと。
……などなど、である。
結果、戦時中より続いていた食糧の配給は、戦争が終わるやかえって激減した。都市部の庶民の飢えはいっそう過酷なものになっていった。
その象徴的な出来事として、昭和二十二年(一九四七)の十月に、ショッキングな事件が起きている。
東京区裁判所で「食糧管理法」違反者の裁判を担当していた裁判官が、
「闇米を取り締まる自分が闇米を食べるわけにはいかない」
という職業倫理をかたくなに守り、配給食糧だけで生活し続けた結果、餓死したのである。山口良忠(一九一三~一九四七)という人物で、わずかに三十三歳の若さであった。
この事件について、鎭子が次のような思い出を自叙伝に書き残している。
当時「人を裁く裁判官がヤミをしてはならない」と、配給生活を守り抜き、栄養失調で死んだ東京地裁の山口良忠判事のニュースが騒がれていました。私は、裁判所の受付に「山口判事のような裁判官に差し上げてください」と、玉子を預けようとしたのですが、受け取ってくれません。
上司にでも相談したのでしょうか、結局、最高裁判所長官室に案内されました。もう一度、
「これは買ったものではございません。私のうちのニワトリが生んだ玉子です。山口判事のような方がいらしたら、差し上げてください」
と、三淵忠彦長官の机の上に玉子を取り出しました。玉子は二十四個ありました。
長官は何度もうなずき、その玉子を、過労と栄養不足のために倒れ、休職している青年判事の家に届けてくださったのです。
(『「暮しの手帖」とわたし』「『暮しの手帖』の誕生」)
言うまでもなく鎭子と死んだ山口良忠のあいだには、何の縁もゆかりもない。鎭子はただ新聞報道で山口の悲劇に接し、居ても立ってもいられなくなって、何のツテもなしにいきなり玉子を抱えて裁判所へ駆け込んだのである。いかにも鎭子らしいエピソードであろう(ちなみに、三淵忠彦〈一八八〇~一九五〇〉は、戦後新憲法下での初の最高裁判所長官である)。
さて、そうしたわけで昭和二十年代は、日本の庶民の誰もが「食っていかなければ」といった切実な思いで日々を過ごしていた。
鎭子の大橋家も、安治の花森家も、もちろん双方とも、こうした飢えの事情はさして変わらなかった。ただ、成人した女ばかり四人の大橋家と、幼い子どもを抱えている花森家では、その切実さには微妙な温度差があったであろう。餓死した判事の山口良忠も、配給食糧のほとんどを二人の子どもに与えて、当人と妻は水のような粥だけで飢えをしのいでいたという。
新しい仕事
敗戦の日を迎えた鎭子は、考えていた。
「これからは私がウンとがんばって、お母さんと晴子と芳子にラクをさせてあげなければいけないわ。お父さんとの約束だもの。そのためには、しっかりと稼がなくちゃ。
でも、私みたいなただの女、どこかの会社にお勤めしたところで、たいしたお給料はいただけない。何か、たんと儲かる仕事はないかしら」
この頃、鎭子のアタマは「稼ぐこと」が第一で、編集の仕事にはこだわっていなかった。それで、まず思いついたのが「材木商」だったという。
第一章で述べたように、父の家は深川で材木商を営んで成功している。それにあやかろうというわけだ。
空襲で焼け野原となった都市部では、新しく住宅が次々と建てられる。となれば、材木はきっと、幾らでも売れる。大儲けできる。
──といった発想である。
なんとも「したたか」と言うべきか「向こう見ず」と言うべきか……。「行動力のカタマリの大橋鎭子ここにあり!」といった感がある。
しかしこのアイディアは、母の久子に相談したところアッサリ却下された。久子の説明では、
「材木商は、馬にまたがり山林に分け行って、しかも木の良し悪しを見分けられる目利きでなければ勤まりません。素人の女がいきなり出来る商売ではないわよ」
とのことである。納得である。
で、次に考えたのが、洋裁店。
「家に古いミシンがあるわ。あれを使って、家族四人総出で洋服を作って売ったら、どうかしら」
これは、なかなか良いアイディアである。もともと鎭子にはファッションセンスがある。が、今度は鎭子当人がハタと思い止まった。
「でも、所詮は一店舗の細々とした商いにしかならないわね。大儲けは出来ないわ」
コツコツと堅実な商売をする気など、鎭子にはサラサラなかったようである。
しかし、歴史に「if」は禁物ながらあえて考えをめぐらせてみると、はじめは小さな商売でもうまく軌道に乗れば、そのうち二人の妹それぞれに支店を任せて販路を広げ、行く行くは大きなチェーン店展開に……といった可能性も、ゼロではなかっただろう。だが、そうした「気の長いビジネス」は、鎭子には不向きだったようだ。
結局、鎭子は、戦前から戦中にかけてやっていた仕事、すなわち編集。雑誌や新聞といった「紙面作り」が、もっとも自分に向いているだろう。──との結論に至った。
「そうよ。雑誌を作ろう。私の手で。きっと儲かるわ」
さて、となれば、古巣の日本読書新聞に出向いて相談するのが、手っ取り早い。
「田所さんに話を聞いてもらいましょう」
あの田所太郎である。彼は戦中の日本読書新聞の編集長で、つまりは鎭子の上司だったのだ。
田所は、昭和二十年(一九四五)の春に徴兵されていた。が、八月二十日に無事、復員。早速、昔の仲間を集めて日本読書新聞復刊の準備をしていたのである。
「田所さん。私にもまた紙面作りの仕事をやらせてください」
「おお。大橋君。君なら大歓迎だ」
かくして鎭子は、まずは日本読書新聞再スタートの一メンバーとして、戦後の第一歩を踏んだ。
一方、安治のほうはどうであったか。
大政翼賛会は、敗戦の約二カ月前、昭和二十年六月十三日に、解散していた。安治は、敗戦の日にはすでに無職であった。
だが彼は、それでもなんとか生きていた。家族を食べさせていた。
こんにちではだいぶ怪しくなったけれど、日本人は本当に「活字」好きである。人々の活字を求める声に応えて、物資が払底していた敗戦直後から、粗末な紙で出来た大衆娯楽雑誌が、幾つも創刊された。これらは、驚くべきことに千種はあったと、伝えられている。
もっとも、その多くは性風俗や猟奇的事件のルポ、ポルノ小説の連載などを扱った「覗き見趣味・興味本位」の雑誌であった。こうした雑誌を総合して「カストリ雑誌」と呼ぶ。
奇妙なネーミングである。じつは、これはちょっとした洒落言葉だ。
「カストリ」とは、当時流布していた粗悪焼酎の俗称だ。「良い酒は幾らでもめる。けれどカストリは、三合
めば酔い潰れる」と言われ、そこから、「粗悪な雑誌は三号で潰れる」という意味で「カストリ雑誌」という呼び名がついたのである。
だが、カストリ雑誌は、戦時中の軍部に「国に尽くすのが正しい日本人の姿だ」といった「建て前」を押しつけられ、欝積していた庶民が、ようやく「本音」を堂々とさらけ出せたジャンルである。まさしく序章で述べた坂口安吾言うところの「堕落」のシンボルである。伸び伸びと自由を謳歌する庶民の心の反映である。
「俗悪な書物は駆逐されるべきだ」といった掛け声は、いつの時代にも聞かれるものだ。