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よみがえる松岡洋右 昭和史に葬られた男の真実
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ルポ・エッセイ
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第五章 外相就任、松岡洋右の大構想と大戦略

『よみがえる松岡洋右 昭和史に葬られた男の真実』
[著]福井雄三 [発行]PHP研究所


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第二次近衛内閣の外相に



 一九四〇年七月、わずか半年間の短命に終わった米内光政内閣に代わって、近衛文麿が再び首相として登場した。第二次近衛内閣の成立である。かねてよりの近衛との打ち合わせ通り、松岡は第二次近衛内閣の外相兼拓務相に就任した。


 遅きに失した感がある、と松岡は思っていた。五年前満鉄総裁になったときも、彼の本命の希望はアメリカ大使になることだった。これは実現の可能性もあったのだが、色々の事情で流れた。三年前、第一次近衛内閣成立直後にシナ事変が起きたとき、松岡は確信した。この難局を乗りきるには自分が外相になるしかない、と。なれるものなら、いますぐにでもなりたかった。だが彼のこの焦燥感をよそに、内政・外交が混乱を極める中で時間だけはいたずらに流れ、いつのまにか三年もたってしまっていたのである。しかもこの三年の間に、シナ事変は解決するどころかますます混迷の深みにはまり、今後の見通しすら立っていない。


 松岡が外相として登場したとき、アメリカの対日経済締めつけはすでに始まっていて、日本の政治外交は八方ふさがりですでに手遅れの段階にのめりこみつつあった。松岡外交が日本を戦争へ導いた、などという後世の批判はまったくのまちがいである。戦争がそろそろ不可避となり始めていた日本の絶望的状況の中で、それを救うための最後の頼みの綱として松岡が登場したのだ。


 外相就任があと三年早かったら、と松岡は歯ぎしりする思いだった。もはや手遅れかもしれない。だがだめでもともとだから、あとは人事を尽くして天命を待つ、で自分のできるところまでやってみよう。この三年間の世界政局の大変動を手に汗握る思いで眺めながら、秘かに練り上げた自分なりの構想と戦略を、いまこそ思う存分展開してやろう。彼はいまや満を持し、並々ならぬ決意で外相に就任した。


 このとき松岡の全身にみなぎる気迫がいかにすさまじいものだったか、『改造』一九四〇年十一月号に杉山平助が執筆した「松岡外相論」の一節を紹介しよう。


「およそ近年の外務大臣のうち、松岡ほど十分の用意と成熟をもって舞台に上がってきた人物はいない。彼は、今度こそ自分が出なければならぬ、という確信を持って登場したのである。就任当時の松岡を一目でも見たことのある人なら、これほど張り切った人物は日本中どこにもいない、と納得したはずだ。彼は外相になってから自分が何をすべきか考え始めたのではない。自分が何をすべきか、考えぬいた末に外相になったのである。それゆえ彼は、就任の翌日に自分が何を着手すべきかを知りぬいていた。彼が最初にとり組んだ仕事の出足の早さはすさまじいばかりだった」



 松岡が外相に就任した一九四〇年当時、世界情勢がいかに激動と動乱のただ中にあり、一寸先の予想すら難しい混迷した状況だったか、簡単にながめてみよう。


 シナ事変は三年になりながら、一向に解決のめどが立たず、日本は中国大陸の泥沼に引きずりこまれていた。ルーズベルト大統領は日独伊の侵略政策を非難する「防疫演説」を行い、この三国をあたかも病原菌のように敵視し始めている。アメリカは三九年七月、日米通商航海条約廃棄を日本に通告し、半年後の四〇年一月をもってこの条約は失効した。貿易制限で日本をじわじわと締めつけてきたのである。対日経済制裁の始まりである。満州事変とそれに続くシナ事変で、アメリカが日本に対して不快感を抱き始めたのは明らかだった。


 日独防共協定をさらに軍事同盟にまで高め、日独の絆を強化しようとする交渉がなされている最中、三九年八月、ドイツは突如として独ソ不可侵条約を結び世界を驚かせた。不倶戴天の敵、共産ソ連と手を握ったのである。これでは日独防共協定の意義は根底から覆されてしまう。その直後ヨーロッパで勃発した第二次世界大戦を、日本の新聞は「欧州大動乱の火蓋切らる!」の見出しで報じた。ドイツの裏切りを目の当たりにして日本外交は混乱し、今後どの方向に舵を切ればよいのかわからなくなり、もはや完全に進路と指針を見失っていた。平沼騏一郎首相は「欧州の情勢は複雑怪奇」という迷言をつぶやいて内閣を投げ出してしまったが、日本のパニックと立ち往生ぶりが目に浮かぶようである。


 ドイツとの提携を推し進めていた陸軍は、このときドイツから離れフリーハンドを持てる状態にあった。だがそこにまた降ってわいたように展開したのが、欧州戦線でのドイツ軍の空前の快進撃である。西部戦線で半年間沈黙が続いた後、年が明けて四〇年四月、ドイツ軍は突如として攻勢をしかけ、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクを征服し、これを迎え撃った英仏連合軍を撃破し、敗走した三〇万の兵士はダンケルクから海に追い落とされた。フランスはわずか一カ月の戦闘でドイツに降伏し、西ヨーロッパの大半はドイツが制覇して、残るはイギリス一国となった。そのイギリスも空の戦いでドイツ空軍に連日爆撃され、いまや風前の灯である。


快進撃を続けるドイツと提携すべきか



 ドイツのこのすさまじい快進撃に日本は沸きかえった。昨年の独ソ不可侵条約の裏切りでドイツに抱いた不信感はあっというまに消え去り、陸軍内部にはドイツとの提携論が再び高まった。フランスとオランダが降伏したので、主人を失った東南アジアの植民地は日本の目の前にぶら下がっている。とりわけオランダ領インドネシアの石油資源は、日本の垂涎の的だった。日本に最も必要なのは石油だ。石油さえ確保できれば日本は生存できる。ドイツと組めばそれは日本のものになるのだ。だが日本が南方に進出すればイギリスとアメリカが黙っていない。英米との衝突を覚悟してでも、日本は石油資源のためにドイツと組んで南進すべきか。


 松岡が外相に就任した一九四〇年七月は、まさにこのドイツと提携すべきか否か、の議論が空前の高まりを見せていた時期だった。とりわけ陸軍の対ドイツ同盟論は、もはや押しとどめることのできぬ奔流となって、日本をおおいつくそうとしていた。松岡のもとには陸軍の使いが連日押しよせ、ドイツとの即時同盟を迫った。拒否すれば暗殺でもされかねない剣幕だった。いや、実際暗殺されていただろう。当時は軍部からピストルを持たされた右翼や浪人の壮士たちが巷を徘徊し、必要に応じていつでもテロを行える状態だったのだから。五・一五事件、二・二六事件と続いた一連のテロで政党政治は終焉し、もはや軍の意向に逆らえる者は誰もいなくなっていた時代だった。軍が国の支配者になっていたのである。


 このドイツ熱は陸軍だけでない。海軍も同様だった。戦後の日本の歴史認識は「三国同盟に賛成した陸軍、反対した海軍」という解釈が一般的だが、実際はそのように単純に割り切れるものではない。海軍内にも強力なドイツ寄りの一大勢力が、厳然と存在していたのである。とりわけドイツが電撃作戦で西ヨーロッパの大半を瞬時に征服した当初、このグループは三国同盟を対米軍事的牽制として使えるよう、松岡に圧力をかけてきている。冷静に考えればすぐわかることなのだが、海軍の仮想敵国はアメリカなのである。海軍が自分たちの存在価値を示せるのは、アメリカとの戦争しかないのである。太平洋戦争は海軍の戦争だった。その海軍がアメリカと対峙する中で、ドイツの力をあてにしないはずがない。


本音ではドイツと関わりたくなかった松岡



 外相に就任したとき、松岡はこのような世相をよく理解していた。外交政策をめぐって軍が自分に圧力をかけてくるであろうことも、百も承知であった。それらをすべて踏まえた上で、自分独自の外交秘策を練り上げてから外相に就任したのである。彼はいかなる行動に打って出たのか。


 表向きは軍の意向に逆らわず、三国同盟に踏み切ったのである。ただし彼はドイツを心の底で信用していたわけではない。松岡のドイツ嫌いは有名だった。ドイツほど信用できない国はない。自国の利益のためなら平気で他国を犠牲にして裏切り、迷惑をかけることなど屁とも思っていない。その外交姿勢は徹頭徹尾自己中心的で打算的であり、ドイツと関わった国の外交は例外なく混乱を余儀なくされる。これが松岡の持論だった。それならば、これほどドイツに対して不信を抱いていたその松岡が、なぜ三国同盟でドイツとの提携に踏み切ったのか?


 松岡の意図したのは、表向き軍の意向を容れてドイツに接近しながら、外交一元化によって軍部の干渉を排除しつつ、日本の軍事的負担を極力軽減することだった。同盟の条文を柔軟にすることによって、自由な解釈の余地を残し、いざとなればドイツの束縛から日本が離れて行動できるよう、フリーハンドを持たせようとしたのである。松岡のしぶとい、そしてねばり強い交渉によって、これはかなりの成功を収めた。オットー駐日大使や当時来日したスターマー特使なども、松岡のこのしたたかな外交手腕と交渉能力に舌を巻いている。


「アメリカとの戦争回避」が松岡外交の第一事項



 松岡の最終目標は、アメリカとの戦争を回避することだった。「アメリカとだけは戦ってはならない。アメリカと戦えば日本は一〇〇パーセント負ける」。これが松岡の持論だった。三国同盟も、その翌年の日ソ中立条約も、アメリカとの戦争を回避するために松岡の打った布石だった。それによってさらには、シナ事変をも解決しようとしたのである。この最終目標を実現するためなら、ドイツやソ連など状況次第でいつでも切り捨ててかまわない。これが松岡洋右の大構想と大戦略だった。


 松岡は入閣に際し条件を一つつけた。日本外交の一元化である。自分が外相になる以上は全責任を負うから、一切の外交権限を自分にまかせてほしい。閣内の対外政策が分裂して自分の足を引っ張るようなことはしないでほしい。現在日本のおかれた国難を乗り越えるべく、今後の外交ガイドラインの骨子を、自分は苦心惨憺の上練り上げた。

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