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読み聞かせ 世界を変えた人が、子どもだったころのお話
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ルポ・エッセイ
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2章 夢に向かってコツコツ努力すること

『読み聞かせ 世界を変えた人が、子どもだったころのお話』
[編]PHP研究所 [発行]PHP研究所


読了目安時間:52分
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夢に向けて努力する

いじめっ子たちを見返すために猛勉強した

野口英世(のぐち・ひでよ)

逆境を力にかえてほしいとき



 野口英世は、福島県の大変まずしい農家に生まれ、子どものころの名前を(せい)(さく)といいました。


 お父さんは酒が好きで仕事をしなかったため、代わりにお母さんがはたらきに出て、何とか一家をささえていました。


 清作は一歳半のとき、お母さんが目を離したすきに、いろりにころげ落ち、左手に大やけどをしてしまいます。にぎったまま開くことができない手を、小学校の友だちはさんざんからかいました。

「じゃんけんは左手でやろうぜ」

「おい。左手で石を投げてみろよ」


 あまりにいじわるが続くので、小学校に行くのもいやになりました。部屋でうずくまっている清作を見て、お母さんもつらくてたまりません。

「それなら勉強で見返しておやり。あなたなら、きっとりっぱな人間になれるわよ」

「うん、あんなやつらに負けるもんか」


 清作はそれから、一生懸命勉強にはげみました。


 やがて学校中の評判になり、成績もいじめっ子よりずっと上になりました。四年生のときには、学校の代表にえらばれ、先生の代わりに()(きゅう)(せい)の勉強を見てあげるほどでした。


 ばつぐんの成績で小学校を卒業したものの、ひとつ上の学校へ進むには、お金がかかります。そのため、まずしい清作は進学をあきらめようと思いましたが、勉強熱心な清作のことを知った上の学校の先生が、学費を出してくれました。

「ありがとうございます、先生」


 毎日おそくまで勉強している清作を見て、あたらしくできた友だちもびっくりです。

「君はすごいなあ。ねむくならないのかい?」

「うん。ほら、左手にねむくならないおきゅうをしたようなもんだからね」


 そう言って笑う清作でしたが、左手のつらい思いが消えることはありません。


 小さいときはずいぶんいじめられたこと。ナイフで指を切り離そうとしたこと……。あるとき、学校の課題でそのことを作文に書くと、先生や友だちがお金を出しあって、清作に手術を受けさせてくれました。


 願いはかなって手術は成功し、指も動くようになりました。感謝の気持ちを胸に、清作は思いました。

「人のくるしみを救う医者って、何とすばらしい仕事だろう。ぼくも、りっぱな医者になりたい」


 そう心に決めると、またつくえに向かうのでした。


〓いじめっ子もいるけど、助けてくれる友だちもいるんだよ。


(おう)(ねつ)(びょう)研究の世界的な(さい)(きん)(がく)(しゃ)


 野口英世は、日本が誇る世界的な(さい)(きん)(がく)(しゃ)です。一生懸命医者になる勉強をして、細菌学者となり、アメリカに留学。研究に没頭しました。1904年に世界(さい)(こう)(ほう)の研究施設、ロックフェラー医学研究所に入ってからは、多くの研究成果をあげ、世界でも名高い医学者となりました。それから、世界中で大流行していた(おう)(ねつ)(びょう)の研究に取りかかり、南米やアフリカ大陸へ渡りました。ガーナの研究所にいたころ、自らも黄熱病に感染し、亡くなりました。彼は、日本だけではなく世界中で知られる人物です。


夢に向けて努力する

子守りをしながら勉強をした

本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)

あきらめない強さをもってほしいとき



 宗一郎が、はじめて自動車を見たのは、(じん)(じょう)小学校の二年生のときでした。機械の好きな宗一郎は、目を輝かせました。うれしくなって、走っていく自動車をおいかけてしまいました。


 このときから自動車が大好きになった宗一郎は、高等小学校を卒業すると、自動車の修理工場ではたらくことにしました。修理工場なら、毎日大好きな自動車にさわれると思ったのです。


 ところが、会社に入ると、社長はこう言いました。

「工場のほうはいい。お前は子守りだ」

「えっ、そんなあ……」


 宗一郎はがっかりです。


 その日から、朝から晩まで社長の家の赤ちゃんをおんぶして子守りです。家のそうじも宗一郎の仕事です。自動車にさわるどころか、修理工場をのぞくこともできません。

(こんなはずじゃなかったのに……。なんで、おれは子守りなんかしているんだろう。自動車のために、ここに入ったのに)


 会社をやめようかと思いました。


 でも、思い直しました。

(今にきっと、おれの出番がくる。そのときがくるまで、準備をしていればいいんだ。もうちょっと、がまんしてみよう)


 宗一郎は、子守りをしながら、本を読んで自動車の勉強をしました。外へお使いに出たときには、通りを走る自動車に目をこらしました。


 その年の十二月のことです。その日は大雪になりました。


 調子の悪くなった自動車が、つぎつぎに工場へやってきます。工場は大いそがしです。

(今日の仕事は、大変だぞ。いつになったら終わることやら)


 宗一郎が、そんなことを考えていたとき、社長に呼ばれました。

「おい、作業服を着てこい」

「作業服ですか?」


 何のことかわからずに、宗一郎がぽかんとしていると、

「工場を手伝え。早くしろ」

「は、はい!」


 ついに、宗一郎の出番がきたのです。


 はじめて着た作業服は、古くて、オイルのしみだらけです。でも、それは宗一郎の大好きなにおいでした。


〓ほらっ、待ちに待った出番がきたよ。これから大活躍だ。


日本の技術を世界に認めさせた


 本田宗一郎は、1906年、静岡県に生まれました。子どものころから機械いじりが好きだった宗一郎は、自分の手で自動車をつくるという夢をもち続け、42歳のときに本田技研工業をつくりました。オートバイの生産から始め、ついに自動車もつくりました。ホンダのスポーツカーが数々の自動車レースで優勝するようになると、その技術は世界中で認められるようになりました。宗一郎とともに二人三脚でホンダを発展させた、副社長の(ふじ)(さわ)(たけ)()の功績も高く評価されています。


夢に向けて努力する

希望を失わずに勉強に打ちこんだ

マリー・キュリー

くやしい気持ちをばねにしてほしいとき



 マリーは、子どものころはマーニャと呼ばれていました。生まれたのは、ポーランドです。


 マーニャは、頭のよい子どもでした。


 三つ年上のお姉さんと学校ごっこをして遊んでいるうちに文字を覚えてしまったのは、四歳のときでした。本も、すらすらと読むことができました。

「小さいうちから勉強ばかりするのは、よくない。もう少し大きくなるまで、本を読んではだめだよ」


 両親が心配して、そう注意したくらいです。


 小学校に入ってようやく本を読むことをゆるされたマーニャは、すぐにクラスで一番になりました。

「一度読んだだけで、全部覚えちゃうなんて」


 友だちは、感心したり、うらやましがったり。


 学校も勉強も楽しいけれど、マーニャはどうしてもいやなことがありました。それは、授業をロシア語で受けなければならないこと。教科書もロシア語で、ロシアのことばかり書いてありました。

「なぜ、ポーランド語で勉強してはいけないの?」


 このころのポーランドは、三つの国に占領されていました。マーニャの町はロシアに支配されていて、ロシア語を使うように命令されていたのです。


 先生は、こっそりポーランド語でポーランドの国のことを教えてくれました。でも、それがばれたら、おそろしい罰が待っています。

「ジリリリリリ……!」


 とつぜんなり出したベルは、ロシアの役人が見回りにきたという合図です。マーニャたちは大急ぎでポーランド語の教科書をかくしました。


 教室にロシアの役人が入ってきて、言いました。

「これからロシア語のテストをする。先生、誰かひとりを立たせなさい」

(どうか、さされませんように!)


 マーニャは心のなかでいのりました。でも先生は、すまないと思いながらも、クラスで一番のマーニャをさすのです。マーニャは立ち上がり、ロシアの役人の質問に、かんぺきなロシア語で答えます。

「よろしい。これからも、もっとがんばるように」


 役人が出て行ってしまうと、マーニャはがまんできずに泣き出しました。くやしかったからです。

「ポーランド人なのに。ロシア語なんて大きらい」

「マーニャ、えらいわ。よくやってくれました」


 先生や友だちは、マーニャの気持ちをわかってくれて、いっしょに泣いてくれるのでした。


〓マーニャは自分の国をほんとうに愛していたんだね。


二度のノーベル賞に輝く科学者


 マリー・キュリーは、日本でいうと明治から昭和初期に生きた人です。ポーランドの女学校を(しゅ)(せき)で卒業した後、家庭教師をしてお金をため、パリの大学へ入学。やがてピエール・キュリーと結婚して、ふたりで放射性物質の研究に打ちこみます。苦心の末にラジウムを発見し、その後の研究の成果が認められて1903年に夫婦でノーベル物理学賞を受賞しました。女性初のノーベル賞受賞者です。その後も地位やお金を求めずに研究を続け、1911年には単独でノーベル化学賞を受賞。生涯を研究にささげたのです。


夢に向けて努力する

体の弱さに負けない優等生

ノーベル

命の大切さを伝えたいとき


「お母さん、頭が痛い……」


 アルフレッドが、ふたりのお兄さんにかかえられるようにして小学校から帰ってきました。

「早く横になって、休みなさい」


 お母さんが、ベッドに寝かせながら言いました。

「明日は、学校をお休みしましょう」

「やだ。ぼく、学校に行きたいんだ」

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