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「関ヶ原合戦」の不都合な真実
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歴史
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第二章 独裁化を強める徳川家康

『「関ヶ原合戦」の不都合な真実』
[著]安藤優一郎 [発行]PHP研究所


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(一)豊臣家譜代大名の思惑──“風雲急”を告げる大坂と伏見間



〓五奉行が抱いた懸念──「秀吉死去」「朝鮮撤兵」で五大老がどう動くか?



 秀吉の死から約半月後の(けい)(ちよう)三年(一五九八)九月三日、五()(ぎよう)は五大老と()(しよう)(もん)を取り()わした。(ひで)(より)への(ほう)(こう)を誓い合うとともに、互いに勝手な起請文を取り交わすことを自ら禁じる内容だったが、そこには五大老の動きを〓制したい五奉行の意図が秘められていた。


 起請文を交わすとは、(めい)(やく)を交わすことに他ならない。大老どうしが連合して、秀頼の地位を(おびや)かすのを防ごうとしたわけだ。一言でいえば、家康の動きを(せい)(ちゆう)しようとしたのである。


 秀吉亡き後、豊臣政権が当面する緊急の課題は渡海部隊の撤兵問題だった。石田(みつ)(なり)たちは撤収事務を執るため、九州に向かわなければならない。


 だが、長期にわたって大坂を不在にしている間、五大老わけても家康がどんな政治的行動に出てくるか分からない。そうした()(ねん)から、五大老と前記のような起請文を取り交わしたのである。


〓秀吉遺命を破りはじめた家康──福島正則との「縁組」が豊臣政権に衝撃



 果たせるかな、三成たちが大坂を留守にした(かん)〓(げき)を突く形で、家康は豊臣(おん)()()(だい)大名衆の間に(くさび)を打ち込む。大老・奉行の総意を得ず、独断で次々と婚姻関係を取り結んでいった。


 まさしく、同盟関係の構築に直結する政略結婚だ。家康は秀吉の遺命に(そむ)き、天下取りの野心を()(こつ)に見せはじめる。


 第一章で指摘したように、(ひで)(つぐ)事件後に定められた文禄四年(一五九五)八月三日付「(おん)(おきて)」の第一条目で、諸大名どうしの婚姻は秀吉の許可が(よう)(けん)となった。


 諸大名間の婚姻については、後の江戸幕府も非常に神経を(とが)らせている。将軍の(だい)(がわ)りごと諸大名に向けて(はつ)()される武家諸法度でも、婚姻には幕府の許可が要件と繰り返し表明したほどだ。


 秀吉の死後は秀頼が幼少であるため、補佐する立場の五大老・五奉行の総意を得ることになっていたが、家康は公然と無視しはじめる。尾張(きよ)()城主の福島(まさ)(のり)、徳島城主・(はち)()()(いえ)(まさ)、仙台城主・()()(まさ)(むね)の三家と婚姻関係を独断で取り結んだのだ。


 まず福島家だが、家康は異母弟の(まつ)(だいら)(やす)(もと)の娘・()()(ひめ)を自分の養女として、正則の養子・(まさ)(ゆき)と婚約させている。蜂須賀家については、家臣()(がさ)(わら)(ひで)(まさ)の娘・(まん)(ひめ)を同じく養女として家政の嫡男・(よし)(しげ)と婚約させた。伊達家の場合は、自分の六男・(ただ)(てる)の正室に政宗の娘・()()()(ひめ)を迎える約束を交わした。


 とりわけ豊臣政権に衝撃を与えたのは、加藤(きよ)(まさ)とともに秀吉()()い大名の筆頭と(もく)されていた福島正則との(えん)(ぐみ)だ。こうして、家康は豊臣恩顧の譜代大名衆の間に楔を打ち込み、自派に取り込んでいく。関ヶ原の(ぜん)〓(しよう)戦は既にはじまっていた。


 家康の動きはそれにとどまらない。(ふし)()居住が義務付けられたことを(さか)()に取る形で、諸大名の伏見屋敷への訪問を繰り返した。十一月二十五日に奉行の一人である(まし)()(なが)(もり)、翌二十六日に(ちよう)()()()(もり)(ちか)、十二月六日に(しま)()(よし)(ひさ)、翌七日には(ほそ)(かわ)(ゆう)(さい)の屋敷を訪問している。


 文禄四年八月三日付「御掟」の第二条目では、相互に盟約を結ぶことの禁止がうたわれていた。この条項に直接(てい)(しよく)するわけではなかったが、三成たちから見れば、相互盟約を見据えた家康による多数派工作と(うつ)ったに違いない。


 当然のごとく、三成たち奉行衆、そして家康を除く大老衆は黙っていなかった。大坂と伏見の間が(ふう)(うん)(きゆう)を告げてきた。


〓「伏見と大坂」での開戦危機──“秀頼と家康”を完全に切り離したが……



 慶長四年(一五九九)一月十日、伏見城にいた秀頼は大坂城に移った。家康や前田利家は大坂まで()(とも)したが、家康は大坂の(かた)(ぎり)(かつ)(もと)邸で宿泊した後、秀吉の遺命に従い伏見に戻った。利家もまた秀吉の遺命に従って大坂城に入り、以後、秀頼の補佐にあたった。


 利家や三成たち五奉行が家康に使者を送って縁組の件を(きつ)(もん)したのは、その直後の一月十九日のことである。秀頼が大坂城に入り、家康と完全に切り離せたことを(けい)()に、詰問に及んだのだろう。


 三成たちは戦備を整え、家康を屈服させようとはかる。家康も伏見屋敷の守りを(かた)めて対抗した。そのため、伏見と大坂の間が(いつ)(しよく)(そく)(はつ)の状況となる。


 ところが、利家や三成たちにとり想定外の出来事が二つ起きる。


 一つは家康の伏見屋敷に清正、正則たち秀吉子飼いの武将たちが駆け付け、警備にあたったことである。家康警護を買って出たのは清正、正則、黒田(なが)(まさ)、細川(ただ)(おき)、浅野(よし)(なが)(いけ)()(てる)(まさ)、加藤(よし)(あき)など武功派の面々だ。


 もう一つは、同二十九日に家康の重臣・〓(さかき)(ばら)(やす)(まさ)が大兵を率いて江戸から伏見に駆け付けたことである。これにより家康の軍事力は増強され、大坂と伏見の軍事バランスが崩れた。


 この二つの想定外の出来事により、家康を(きゆう)(もん)していた利家や三成たちの姿勢も(なん)()せざるを得なくなる。


 二月五日、家康は四大老と五奉行に対し、「御掟」違反を認め今後は遵守するという(むね)の起請文を入れた。だが、問題となった縁組が破棄されることはなかった。利家・三成たちの政治的敗北に終わったことは(いな)めない。


 家康としては、名を捨てて(じつ)を取った形である。四大老と五奉行側としては、家康に()びを入れさせ、かろうじて体面を保った格好だ。


 この一連の出来事は、豊臣政権を支えるはずの五大老・五奉行が一枚(いわ)ではなかったこと、家康・利家の連立政権がもはや「砂上の(ろう)(かく)」に過ぎなかったこと、そして家康の伏見屋敷に清正たちが続々と駆け付けたことで、豊臣恩顧の譜代大名たちも一枚岩ではなくなっていたことを(はく)(じつ)の元に(さら)したのである。

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