『陽明学 生き方の極意』
[著]守屋洋
[発行]PHP研究所
「知」と「行」は一体のものであるべきだ
「知行合一」こそ陽明学の魅力
さて、いよいよ陽明学に入っていきたいと思いますが、すでに述べましたように、陽明学を陽明学たらしめている最大の特徴は、実践重視ということであります。それをずばり語っているのが、「知行合一」ということばにほかなりません。
たぶん、いささかなりとも陽明学に関心をもっている人なら、このことばを知らない人はいないはずです。陽明学というと「知行合一」、「知行合一」というと、すぐに陽明学が思い出されるといった具合に、この二つは密接に結びついています。
なかには「知行合一」というこのことばの魅力にひかれて、陽明学に関心をもたれるようになった方もたくさんおられるかもしれません。
では、「知行合一」とは、何を言わんとしているのでしょうか。さっそく『伝習録』のなかから、王陽明の説明に耳を傾けてみましょう。
行なうことは知ることの完成
知ることは行なうことの始めであり、行なうことは知ることの完成である。聖人の学問にあっては、修養はただ一つ、知ることと行なうことを別個のものとはみなさない。
〈書き下し〉
知は行の始め、行は知の成るなり。聖学はただ一箇の功夫。知行は分かちて両事と作すべからず。
「知は行の始め、行は知の成るなり」――知は行を予定し、行は知を前提として成り立っているというのです。
「聖学はただ一箇の功夫」――「聖学」は聖人の学問と訳しましたが、具体的には儒教のことをさしています。その儒教にあっては「ただ一箇の功夫」――功夫は、修養とか鍛練という意味で使われています。「知行は分かちて両事と作すべからず」――知と行、知ることと行なうことを別々のものとみなしてはならない。それがただ一つの修養の方法なのだというのです。
ここで注目していただきたいのは、「知行合一」ということばは、もともと修養、つまり自分を磨くための方法として唱えられたものだということです。
これもすでに述べましたが、朱子学と陽明学の違いは、ここから出てくるのです。朱子学では、何をおいてもまず万物の理を窮めて知識を拡充することが、修養の方法だとされました。これに対して陽明学は、「心即理」、わが心こそ理であるとし、その心の理をもって万物のあり方を正していくことが、自分を磨く方法なのだと主張しました。
王陽明が「心即理」を発見して陽明学を唱えたのは、左遷されて竜場に流されたときですが、ほぼ同じころ、すでに「知行合一」を唱えています。それはそうでしょう、わが心にのみ理があり、その理をもって万物に働きかけていくのだとすれば、あらためて理を窮める必要はありません。ひたすらわが心を奮い立たせて万物に働きかけていけばよいのですから、もはや、知ることと行なうこととを分けてとらえることはできないわけです。「心即理」と言ったからには、ただちに「知行合一」とならざるをえません。
弟子たちにもよく理解できなかった
しかしどうでしょう、万物の理を窮めて知識を拡充するという朱子学の主張は、「なるほど、そういうものか」と、よく理解できます。その点、わが心の理をもって万物を正すうえで「知行合一」であるべきだという陽明学の主張は、わかったような、わからないような気がして、もうひとつピンとこないかもしれません。
これは、彼の弟子たちも同じだったようです。
なにしろ当時は、朱子学万能の時代でした。科挙の試験をめざすためにも、まず朱子学を窮めなければなりません。そんな雰囲気のなかで、「心即理」だ、「知行合一」だ、と言われたのです。なにかしらあやしげな魅力を感じた人はいたようですが、いったい何を言わんとしているのか、すぐには理解できなかった人が多かったのも当然でしょう。
王陽明の愛弟子に、徐愛という人物がいました。最初に『伝習録』を編纂した人物で、王陽明にずいぶん目をかけられていましたが、惜しいことに若くして亡くなっています。
その徐愛ですら、初めはこの「知行合一」ということばが、よく理解できなかったようです。そこであるとき、
「いったい、知行合一とはどういうことなのですか」
と、尋ねています。
これに対して王陽明は、噛んでふくめるように答えています。その問答が『伝習録』に載っていますので、いささか長くなりますが、紹介してみたいと思います。
知ることと行なうことは一体のもの
わたくし徐愛は、先生の「知行合一」の教えがよく理解できず、同門の黄宗賢、顧惟腎の二人となんども議論を重ねたが、それでも納得のいく結論に達することができなかった。そこで先生に尋ねてみたところ、先生が言われるには、
「どこが納得できないのか、まずそれをあげてみなさい」
「人間は誰でも、父には孝、兄には悌であるべきだとは知っておりますが、いざ実行となると、それができません。これは明らかに、知ることと行なうことが、別々のことだからではないでしょうか」