読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

12/21に全サービスをRenta!に統合します

(2021/12/6 追記)

犬耳書店は2021年12月21日に、姉妹店「Renta!(レンタ)」へ、全サービスを統合いたします。
詳しくはこちらでご確認ください。

0
-2
kiji
0
0
1212069
0
表の体育 裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間に生まれた身体観・鍛錬法
2
0
0
0
0
0
0
趣味
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第三章 表と裏を結んだものはなかったのか――その解答としての個人的作品

『表の体育 裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間に生まれた身体観・鍛錬法』
[著]甲野善紀 [発行]PHP研究所


読了目安時間:2時間31分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ



   肥田式強健術



 あくまでも表の学問の側に立ち、表の医学、体育の理論(用語)を用いて自己の身体を改造し、それによって、裏の体育の、どの健康法、どの霊術、新宗教の教祖なども及ばぬほどの健康さと能力を身につけた人物は、唯一人いる。


 正中心道(または聖中心道)肥田式強健術の創始者肥田春充である。


 肥田式強健術と、その創始者肥田春充の名は、現在でこそ一般にはまったくといっていいほど知られていないが、戦前、在野の健康法、鍛練法の世界では、非常によく知られており、その驚嘆すべき事実の記録は、十分に信頼ができる裏付があるだけにきわめて貴重なものである。


 肥田春充は、幼少から病弱であった体を改造しようと志し、まず、解剖学、生理学を基礎として研究を開始し、その上で古今東西のさまざまな体育、運動法、健康法の書籍を渉猟して実践比較研究を行い、その結果、武術鍛練の最重要点“丹田”に焦点を絞り、これを理論的に研究する。そして、独自の体感を解剖学的に解説して、これを正中心(後に聖中心とも称した)と命名、それにより想像を絶するほどの超人的諸能力を身につけた人物である。


 あくまでも“科学”にこだわり、それでいて、「体感したものにしかわからない」という裏の体育の象徴である“丹田”を、その強健術の中心に据えた肥田春充こそ、まさに、「表と裏を結んだ唯一の人物」といえるだろう。


 そのため、そのきわめて詳細な解説があるにもかかわらず、この強健術を学んだ者が、誰も春充にはるかに及ばなかったという事実は、この肥田式強健術は、春充一代の個人作品であり、絵画、彫刻などの芸術作品と同じく、理論的な“表の体育”の範疇外にあったことを示している。


 では、これからこの肥田春充一代の作品である肥田式強健術の成立過程と、その行きついた結果を、肥田春充の著書『聖中心道・肥田式強健術・天真療法』を中心に述べてゆこう。本章は、春充の著作を多量に引用するが、それは、春充の体感と心境は彼自身の言葉で語ることが、何よりも読者の参考になると判断したからである。昔からよく、「誰々について書かれたものを読むより、その本人自身が書いたものを読め」と言われているが、この肥田春充の場合は、特に本人の生の言葉、生の筆をそのまま伝えた方がより正確であろうし、また資料的にもこの方が意味があるように思われる。


 肥田春充、旧姓川合春充は、明治十六年十二月二十五日、山梨県において山口県(長州)出身の医師川合立玄の五男として出生する。春充自身、生来病弱で、その上母親をはじめ、兄弟姉妹の肉親が次々と何人も亡くなるという、健康にはおよそ恵まれない家庭であった。それでは、これから春充自身の筆を主に、以後の彼の一生をたどってみよう(以下の引用は特別に記さない限り、昭和十一年発行の『聖中心道・肥田式強健術・天真療法』による。なお、引用にあたっては、常用漢字、現代かな遣いに改めた)。



  小沼の村の中程に、松と桜と柳の木のある庭を囲んだ黒塗りの垣の門柱へ、「愛神堂医院」の大看板が、ぶら下がって居ったのが、私の生家であった。皆んな達者であったならば、九人の子供に両親とで、世にも稀なる賑かさであったろうのに――。


  この光薄き家に、私は八人目の子として生まれた。その時父は丁度五十歳であった。年寄の子、乳の足らない子として私は生れた。尚更以て、私の体が健康であり得よう筈がない。生れつき繊弱な私は、顔から体から様子までも、まるで女のようで、近所の娘達は、軽いからとて、争って背負ってくれたものである。来客はしばしば、この子は男であるか、女であるかと訊いた。骨は細くてゴツゴツと突き出で、肉らしい肉とては更になく、皮膚は蒼白く、脂肪分など少しもないので、ガサガサに荒れて居った。それがために、私はしばしばオレフ油を、全身に塗られた。


  そんな風であったから私もまた、他の兄弟と同じように、死の使に見舞われざるを得なかったのである。果して私が六歳の時、遂に重症の麻疹に罹り、それに肺炎と百日咳とを併発し、更に激烈な下痢を伴った。四十度内外の高熱の後へ、頻々たる下痢であるから、私はたちまちにして衰弱し、立会の医者も遂に、「もう助けようがない」と、匙を投げた。


  時あたかも旧暦うら盆に際し、命ほとんど旦夕に迫った。同じ年、既に一児を喪って、深き嘆きに傷ける父は、また死に行こうとする私の枕元にあって、「せめてはこの盆の過ぐるまで、タッタ三日間でよいから、活かしておきたい」と、呟かれたそうである。盆は過ぎて下痢は止まったが、絶食連日、食欲更に起こらず。真に骨と皮ばかりになって仕舞った。


  父の車曳きの清吉どんが、小さい泥鰌を裂いて、蒲焼にして持って来て、「お泥鰌の蒲焼」といって、口の前に突き出した処が、何の気なしに一口食べて、それから重湯を飲むようになったと、後で父が手付きまでして語られたことがある。


  かほどの難関を、危くも脱れて、私は幸にも生き残ることが出来た。しかしそれは、唯生き残ったというだけのことであって、生来の病身は益々脆弱となり、幾何もなくして、再び死にはずれの床についた。医師はいよいよ駄目だといい渡した。天運の摂理、何ぞ不可思議なる。この時もまた、生命ばかりは、漸くにして取り止めることが出来たのである。


  かくして幼年時代、少年時代を通じて、私は絶えず薬餌に親しんだ。内臓はイヤが上にも弱くなり、生長力は益々鈍くなって、外部に対する抵抗力など殆どない。年中風邪は引く。腸は痛める。頭痛はする。眩暈はする。引っ切りなしに病気に悩まされて居った。陰鬱な当時を回顧すると、上げる暇のない布団と、枕元に列んだ薬壜と、鼻に付く薬の香と、そうして痩せこけた見すぼらしい少年が、寒風に萎縮けながら、独りションボリと立った姿とが、眼の前に浮んで来る。


  やや長じてからも、痩せこけてヒヨロヒヨロして居ったので、友達からは、「茅棒」という、侮辱的の綽名をさえ付けられた。これは芒の穂がペロペロと立つにも似たからの事で、もっと適切にいうならば、小鳥の羽を毟ったようでもあった。多くの子供等から、「やア、茅棒が来た。茅棒。茅棒。」と囃し立てられても、これに返答する勇気もなければ資格も無かった私は、黙ってその悪口を甘受するか、もしくはコソコソとその場を外して仕舞うより外はなかったのである。


  当時、私が如何に繊弱な体を持って居ったかというに、上腕力の瘤の所が、痩せ細った手首の太さより大きくなかった。余りの不恰好さに、時々掴んで見ては、憮然として長嘆息を洩らしたものである。まるで危細い棒のようで、一寸無理でもすれば、自分ながら直ぐに、折れる気持ちがして居った。それはただに腕ばかりではなく、脚も体も、まるで棒見たいような痩せ方であった。――まこと「茅棒」の綽名こそは、私の体格に最もふさわしき形容の言葉であった。



 しかし、この弱さが、やがて憤然とした体質改造への大決心の引き金になっていくのである。



  ――オオ、こんなことをして居って、お前はこれから何処へ行くのか……私はフト、自分自身が将来の社会的運命について、考え出した。そして愕然として戦慄し、厳然として、自ら責めた。


 「オイ春充、こんなことをして居って、貴様は一体、どうするのだ。一寸寒ければ、風邪を引く。少し食べ過ぎれば、腹が痛む。下痢をする。散歩をすれば、息切れがする。寝れば悪夢にうなされ通し、こんなことで、生きて居った処が、何になる。落ち行く先は、惨目な生涯か、お寺の土となるばかりだぞツ」。


  この恐怖と自責とは、両刃の剣の如くに、私の心臓を突き徹した。萎縮し切った少年の胸にも、遂に自覚と、刺戟と発憤との、一大旋風が捲き起こったのだ。………


  私は今実に衷心から、渇者の水を求むるが如くに、体の剛健強壮を、熱求するに至った。しかも私は、ただ病まない様にという、そんな意気地ない、消極的な希望ではなくして、強くなりたい。強くなって勇敢に、世のため、人のために奮闘したいという、積極的欲求であったから、その意気は実に猛烈なものであって、遂に私をして、不屈不撓、専心体の改造に志すに至らしめたのである。


  時は実に明治三十三年陽春四月の中頃であって、私はまさに十八歳彼の有名な体育家ユージエンサンドウが運動を始めたのと偶然にも同じ齢であった事を後に知って奇異の感に撲たれたのである。


  ……強くなり度いなア……強くなり度い!。強くなりたい!!。ああー強くなり度い


  かの燃え立つ様な夏草も、秋風一度到れば、霜雪に閉ざされて、萎縮してしまうが、一陽来復と共に、再び生々として春を楽しむ。けれども、もしその霜や雪が、二年三年、四年五年の久しきに亘って、押え付け、閉じ籠めて居ったならば、それらの草は、ことごとく朽ち果て仕舞うのに、相違がない。


  私の身体の萎縮もまた、そのように、最早極点に達して居って、全然生長発育の力を欠いて居るのではあるまいか。それにも係わらず、種々のことをやって、却って体を、ブチ壊すようなことが、あったならば、何とする?。――ヨシ!。死んで仕舞え。


  痩せ衰えた病余の意気地なしに、どうしてこんな、猛烈な反発心が起こったのか。それは背水の残兵が、奮然として、むらがる敵の大軍に斬り込み、或は窮鼠、死を決して、却って猫を噛むが如きに、類するものである。このまま、病と死との囚れとなるよりも、寧ろ身を挺して、進んで斃れろというのが、当時の私の決心であったのだ。のみならず、「強健」に対する、熱心なる私の渇望は、最早私をし、いたずらに拱手嗟嘆するのは、いとまを与えなかったのである。


  勝つか、斃れるか。俺の取るべき道は、その外には無い。絶対に無い。志を抱いて斃れるのは、寧ろ男子の本望だと、私は深く、決心の臍を、固めたのであった。



 そして、彼独自の健康法創出への第一歩を踏み出すのである。



  一念発起した私は、敢然として強くなるの努力を励み出した。私はまず根本的に、基礎を固めて、出発しようと決心した。それには何よりも前向きに、人体内外の構造作用を、明かにせねばならぬと考えて、私は父が所蔵の解剖学、生理学の書物を引き出した。浩な書物の塵を払って、机に向うと共に、私の両眼は、焼き付くように、紙面に喰い込んで行った。ことにその方面においての最高権威と称せられたハイツマンの解剖学と、ランドアの生理学とは、マルでバイブルを読むような、敬虔な心持で読んで行った。


  人によっては、乾燥砂を噛むような、記事の羅列であるけれども、私にとっては、ことごとく起死回生の大文字で、ダークアフリカに突入した探検者のような、希望と熱心とを以て、生命を打ち込んで、私は貪り読んだ。


  薄暮、机の上が暗くなって来ると、ランプを点ける暇も惜しまれて、そのまま軒前に出で、書物を西方に向けてまで読み耽ったのである。それ善く書を見る者は、心融け、神ゆらぐの時に、観到らんことを要す。方にまた象に泥まず。又、善く書を読む者は、手の舞い、足の踏む処に、読み到らんことを要す。方に(せん)(てい)に落ちず。それ筌は、魚に在る所以、魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在る所以、兎を得て蹄を忘る。言に意に在る所以、意を得て言を忘る。


  かくして、私は、眼光紙背を貫くの熱誠を以て、読破し行き、人間の体を組織して居る、筋肉や、骨格や、もしくは、内臓の配置や、血液の循環や、又は神経の働きや、肺肝腸胃腎脾の作用の、大体の知識を領得した時、私は自然の造化に対して、無限の神秘を感じ、ひたすらその妙用を賛嘆せざるを得なかった。驚嘆すべき天地の妙機、神の御業の偉大な一端を窺い、ここに私は、宗教と科学と、相反馳すべきにあらざることを感じた。


  ことに私にとって、最も大なる希望と力と、慰藉と激励とを、与えてくれたのは、細胞の新陳交換ということであった。人間の体は、ゴム人形や、大理石の彫像と違って、絶えず活き働き、かつ変化しつつあるものであるから、この生長発育の力を、善く導いたならば、ドンナ醜悪な体格でも、必ずこれを、改造一変することが出来るという、確乎たる大信念を得たのである。


  私は奮然として、誓ってこの醜悪劣等な、体格体質を改造一変しようと決心した。丈夫な人の細胞が、七ケ年で入れ換るというならば、俺は十ケ年かかって、病弱な域を脱してやろう。十五ケ年鍛えて普通の体に造り上げよう。……だが二十ケ年かかって……だが二十ケ年間、倦まず、撓まず、続けて行って……そうだ。人並以上に突き抜けてやるぞ。よし、きっとだ。……命がけでやれッ――。自ら励まし、自ら鞭打ち、私は熱涙を振って起ち上った。


  厳冬風雪を凌ぐの梅花にして、始めてよく芳香を放つ。人間万事忍耐にあり。それで……それで突破するんだ。「寒に耐ゆるの梅は、花まさに香し」。この詩を読んだ時に、覚えず感激の涙が、こみ上げて来た。我が前途は遠くして険しい。大なる努力と忍耐とを要する。だが、氷雪を凌いで芳香を放つ、梅花の意気を以て、俺は進んだ。オオ――忍耐――忍耐――忍耐――しかして忍耐!!!。



 こうして読んでくると、「シラケ」というものとは縁遠かった「明治」という時代の初々しさと熱さに郷愁を感じるのは、一人筆者ばかりではないと思う。そして、実行にあたっては前述したようにきわめて学理的な面から入っているが、さらに次のような周到な計画と並外れた努力を惜しまなかったのである。



  処で私は、この目的を達するがために、如何にして研究を始めたか、私はひそかに自ら期する処があって、出来得る限り、運動に関する諸種の書冊を蒐集した。同時に又医学、衛生学、運動生理学などをも、集めて読破した。


  かくして私は、古今東西各国における有名なる体育法運動法を、研究した。そしてこれはと思うものは、即坐に実行して見た。「強健」に対する積極的要求のために、私はどんな運動でも、熱心に、本気に、一生懸命でやって見た。やって居る中に、色々と智識を得て、ああもしなくてはならぬ。こうもしなくてはいけないと、彼を捨てこれを取りここに図らずも、新たなる方法が産まれ出たのである。


  とはいえ、これは始めから、私が企図し、計画した訳ではなくして、こうして熱心にやっている中に、偶然と形づくられた、実地的経験の結晶に外ならぬのである。


  私は心を潜め、精神を注いで数十百種の書類を渉猟した。それらが説いたり、主張したりしている処は、千種万態ではあるけれども、目的とした処は、強健である。よし、強健が直接ではなくとも、私共はなおそれによって、人が健康を獲得する道を、見出すことが出来るのである。



  併し重ねていって置くが、私は自分独特の練修法を組立てるがために、あれもかじり、これもつついたのではなく、私はただ病弱な自分自身の体を、強健にしようという、ただこの一つの要求に駆られて、研究したまでであって、私の所謂研究とは、即ちことごとく実行を経たものである。



  私の鍛練の目的は、完全無欠なる人体の形成というのにある。筋肉、内臓、体格、膂力、何れも優秀円満なものに造り上げようというのである。つまり、最劣等な体格の所有者が、最上完全最優秀の体格体力を、得ようとするのだ。潜越至極な話であるけれども、私の陰惨なる境遇と、それに反発した決死的発憤とは、私を駆って、遂にこの如き、自ら図らざる大野望を起さしむるに至ったのである。


  しかり。私の体育に対する全要求は、最も完全なる発達ということであった。この全要求を以て向って見ると、これに長あるものもあれにおいては短であって、安んじてその一つにのみ、依ることは出来なかったのである。


  私の全要求は、かくの如く極めて、積極的なものであった。そうだ。あくまでも積極的のものであった。猪突猛進、身を粉にしても目的を貫徹せねば止まぬという、固い決心であった。出来ねば寧ろ斃るるのを以て、本懐とするというあくまでも積極的なものであった。


  だから私は、ありふれた体操だの、深呼吸だの、冷水摩擦だの、その他一切の消極的養生法、衛生法などは、てんで振り向きもしなかった。否振り向いて見る気分にすらならなかった。


  ことに冷水摩擦をやれば、風邪を引かないからと、朝々の冷水浴位を、誇とするが如き、何という貧弱なことだ。一チ二イと、ただ掛け声ばかり大にして、脚を動かし、手を振った処が、どれ程の効果があるであろうか。ブウブウと他愛もない深呼吸位をやった処が、そんなことで、強大な体力が、養われるものではあるまい。もとよりそれらのものといえども健康を保つ上において、多少の効果があることは否み得ないが、「完全」の要求を持った私から見るとなお消極的な域を脱したものとは思われなかったのである。


  俺のやるのは、モット、モットしっかりした、骨のある、やり甲斐のある、身も心も打ち込んで、肉を絞り、骨を削り、熱汗を滴らすような、キビキビしたものでないならば――、どうしてこんな、人並外れた、弱い醜い体を、造り換えることが出来ようぞ。


  とはいえ、私はそれらのものを全然排除するという訳では、決してない。否、それらのものから生ずる効果こそ目的は、即ち私が熱心に欲求する所のものであって、私が考案した強健術においては、無論、形を変えてその方法を採り以てその効果目的を、一層充分ならしめんことに、努めている。


  私は、自ら強健となるべき方法を組織するのに当って大体こういう方針をもって居った。それは――。


  ◇運動はあくまでも、自己の嗜好に適したものでなくてはならない。いやいやながら義務的にやる様なものであっては、到底その効果を挙げることは出来ない。


  ◇強健となるべき目的である以上、運動は何処までも、積極的のものでなくてはならない。


  ◇運動が、技術の末に堕してはならない。運動は、運動それ自身で、効果を収め得るものでなくてはならない。


  ◇運動に金銭を要してはならない。運動に機械を要してはならない。健康は身体それ自身を以て、購うべきものである。


  ◇最後に、最も、最も――、大切なことは、運動に多大の時間を要してはならないということだ。時間を多く要することは、いたずらに疲労を招くのみならず、最も恐るべきことは、どうしたって、永続貫行を妨げると、いうことである。



  一念発起、猛然として心身改造途上に、猪突勇進せんと、志した私は、事の如何なる種類のものたるを問わず。又その人の老幼男女、何れのものたるに係わらず、いやしくも刻苦精励、勤勉努力を積んだという、話を聞いては、自分の覚悟と、決心と、念願とにつまされて、私は何時も限りなき感激の情に打たれた。そうして強い鞭打と刺戟と、そうして新たなる力と、希望とを与えられた。それによってたゆまんとした惰心を、振い興されたことも、何回か!?。


  そうして効果がなくても、屈せず、(くじ)けず。失敗しても、倒れても、又やり直し、又起ち上り、あくまで不撓の精進を続ける、忍耐努力に対しては、私は限りなき仰慕の情を捧げ、自分もそれに敗けぬような、否、それをも凌駕する程の奮闘努力をしなければならぬと、感激の熱涙に、(むせ)んだことも幾度ぞ!。


  その頃私の父は、萬朝報の黒岩涙香の翻訳小説『巌窟王』を愛読されて居ったので、私もそれを読んでみた。その中に無実の罪で、恐るべき孤島の牢獄に、投げ込まれた友太郎が、脱獄を企て、深夜、寝台の下から穴を掘って行くと、地の中で鉄板に、ぶつかって仕舞った。スルト、鉄板を隔てた向うからも、掘って来る者があった。その会話の一節――相手「お前の室の前は、どの様な所か」。友太郎「石畳の廊下です」。相手「その廊下は何処へ出られる」、友太郎「役所の庭へ出るのです」。相手は唯一言、「馬鹿め」と叫んだ。自分を叱るのだろう。友太郎「何事です」。相手「測量が間違った。折角この穴を掘って、同じ土牢の中へ出るとは、エ、運の尽きだ。七年来の苦心経営が、全く水の泡に成った」。さてはこの人、七年もこの穴を、掘っていたのか知らん。それでは定めし、遠い室からはるばると、ここまで掘って来たには違い無い。友太郎「貴方は何処へ掘り抜くつもりでした」。相手「要塞の壁、即ち海の岸にある石崖へさ。初めに二つの案を立てたが、此方の方が確だろうと見込んだのが、間違いだった。尤も一つの案に従い、掘り直す外は無い。アア又更に、七年掛るのか」。何たる剛い決心だろう。七年掛って掘った穴を捨て、更にこれから七年掛って別に掘直すつもりでいるのだ。友太郎はこれ程驚いたことはない。七箇年、アア又更に七箇年……。


  この小説の物語にも、私の心は深く打たれた。十箇年掛って、ヤット病気にならぬ位の体となり、十五箇年で漸く、人並の体になれるであろう。だが必ずやり遂げて見せるぞと決心した私にとっては、「七箇年、アア又更に七箇年」の言葉は、ドレ程私を激励したことであろう。とても小説のような心持など、されなかったのである。彼は閉じ籠められた獄内において、コンナ苦心と努力、おれは自由の世界にあっての鍛練だ。出来なくて何とする!。この記事の出ている赤い萬朝報の切抜きは、今なお大切に、私の手元に、保存されてある。時々取り出しては、往時を偲んでいる。



  解剖学生理学に対する、真剣な研究は、病弱にして劣等な、私の体質体格をも、必ず改造一変することが、出来るという大確信、大信念を私に与えてくれた。必ず出来る。そは何年後のことであるか、分からぬけれども、合理的な鍛練を、不断に続けてさえ、行ったならば、よしその効果が現われるのは、牛の歩みのそれよりか、遅くとも、何時かは必ず強くなることが出来るぞと、私は固く信じて疑わなかった。


  だがまあ、そんなことは何時の事やら、何年先のことだろうか。少くとも十年先の、遠い将来のことであらねばならぬ。そんな茫洋たる望みを人に話した処が何になる。よし俺は泥土の中に潜もう。自分の念願を実現するまでは、無言の……沈黙の努力を続けて行こう。その代り、斃るるまでも、……そうだ。骨を粉にするまでも、ただまっしぐらに強健獲得の一途に向かって、猛進して行こう。


  だが不安の閃きが、時々心の奥を流れる。こんな弱い体に、無理なことでもやって、間違って却って機関を害い、酷い病気にでもなったら……そうして却って、死ぬようなことにでもなったならば……構うものか。死んで仕舞え。こんなことで、生きて居った処が、何になるッ。


  かくして私は、努力貫行十有余年、明治四十四年四月、学生生活終了の暁、最初の拙著『実験簡易強健術』を刊行するまでは、私は親にも兄弟にも、友人にも、誰れ一人にすら、私の希望を、打ち明けたことはなかった。黙々として研究し、黙々として努力した。虚弱にして、意気地無しであった私にとっては、何と永い月日であったことよ。母なき子として、特に愛してくれた父や兄は、私が段々丈夫になり、段々強くなったことを、喜んではくれたけれども、私がこんな意気込んで、組織立った研究をやり、規則正しき鍛練を、して居ったとは、私の著書が現れるまでは、更に知られなかった。知らない筈である。断然一語も洩らさなかったのだから――。


  口はすなわち、心の門なり、口を守ること密ならざれば、真機を洩らしつくす。意はすなわち、心なり。意を防ぐこと厳ならざれば、邪渓を走りつくす。「潜行密用」の言は、私の心に大なる楽しみと慰めとを与えてくれた。かくして希望に輝いた、密室の苦修は始まった。決死的覚悟のもとに、行われた操練には、……まだ実に痩せこけて、少し力を入れても、肉は痛み、骨は折れそうな、感じがしたことも、しばしばであったけれども、そこには熱があった。生命が籠もって居った。余りに酷く練修したがために、四肢五体は痺れて、まるで他人の体のように、思われたことも、幾回かあった。だが敢行また敢行、突撃又突撃、私は更に、躊躇逡巡することをしなかったのである。倒れてもかまわないと、いう覚悟のもとには、臆病風も怠け心も、ことごとく影を潜めて仕舞った。いわんや、組織した方式は、科学的合理のものであるとの、確信があったのだものを――。



 それにしても、この情熱と努力、これを支えたのは、やはり「明治」という明快な希望が持てた時代であったせいであろうか。それと、家族の理解があったことも見逃せない。



  父は私が、これこれの書物が慾しいといえば、直ぐに何でも求めてくれた。私の目的が何であるか。それについて、父は毫も知る処はなかったけれども、求むるがままに、与えてくれた。父は私が、急に勉強家になったことを、何よりも喜ばれた。



  腹筋と濶頸筋との、調節緊張運動の時との如き、ドタリ、バタリと、体を強く、床に叩き付けるので、畳は切れ、根太は緩み、唐紙や障子は折れたり、穴があいたりしたけれども、父は少しも咎めなかった。病床にばかり親しんだ子が、こんなに暴れるようになったことを、寧ろ嬉しく思われたのか。それとも、父と子と二人暮しの佗住居に、母なき子をいとしと、放任されたものか。兎に角私は、残された可憐の末子として、父からも兄からも殆ど絶対自由に、解放されて居った。かくして私は、心身共に弱いながらも、スクスクとノビノビと、自分の道をひらいて行くことが出来たのだ。これ私が、亡父と長兄とに対して、特に限りなき感謝を捧げ来った所以であって、同時に又感激の熱情に鞭って益々自ら衷に磨くことに、精進した唯一の力であったのである。



 そして、この努力の報いは意外と早くやってきたのである。



  決死の覚悟と、不撓不屈の精神程恐ろしいものはない。至誠は天に通ずるという。遂に成功の美果を、恵まるるの時は来たのだ。


  私の体は眼に見えて、グングンと良くなって来た。血行は盛になって、皮膚の色までも変わって来た。今まで火箸のように、細かった上腕には、ムックリと力瘤が、盛り上がって来た。痩せこけた肩は、男らしく張って来た。何という爽快さ、何という発溂さ。眼も鼻も口も、活々と引きしまって来て、一切病弱の影は、一時に拭い去られたかと、思わるるばかり――。


  ああ志を立ててから、タッタ二箇年、――岩をも徹す赤誠努力の賜物よ。病弱少年が捨身の熱心には、天もまた、可憐と思召されたものか。見よ。最初は十箇年以上も掛らなければ、到底人並の体には、なれるものではないと、深く覚悟して練修を始めたのに、……驚くなかれ。タッタ二箇年の後、二十歳の春には、既に堂々儕輩を圧する、雄大豪壮の体格と絶対強健の体質と驚愕すべき体力とを誇り得るの、身とはなったのである。


  かくして私は二十歳の春、人は皆卒業して出て仕舞うというのに、漸く制服制帽を身につけて、中学の門をくぐることが出来た。明治三十五年四月、谷村町にあった山梨県立第一中学都留分校に私は入学した。


  往復四里の路を、毎日歩いて私は通学した。病魔と虚弱と、そうして「茅棒」の侮辱とを、見事征服し得た喜びに燃えて、雨の日、雪の日、風の日も、更に休むことなく、遅刻したことすらもなく、四里の坂道を毎日毎日楽しく往復した。


  二里の路を歩いて、遅刻しないようにするのであるから、朝は大抵真暗な中に起きた。そうして枕を蹴って、起き上るや否や、燈もつけない暗闇の中で、中心を基礎とした各部主要筋肉の鍛練、その他全部の練修を終り、それから水で全身を洗い、食事を済まして、出発したものである。


  冬の夕方など、富士(おろし)の凍風を真面に受けて、重い足を引きながら帰っても、必ず又、猿股一つとなって、猛烈な練修を一通りやることを、欠かしたことはなかった。スルト不思議や、足の疲れも却ってケロリと、拭い去られた様になったものである。


  かくの如くにして私は、自ら励まし自ら鞭うち、日々強烈な練修を実行したが、継続の報酬として、体育上、統一したる法則を見出し、従って不動の確信を、得ることが出来た。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:64032文字/本文:75446文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次