『暦で読み解く古代天皇の謎』
[著]大平裕
[発行]PHP研究所
天武天皇と天文
まず、天武天皇の和風諡です。天皇は「天渟中原瀛真人天皇」といわれていますが、すでに述べたように「東海の三神山の一つ瀛州山……」といった解釈もありますが、「天上の清らかな沼の中、玉が敷きつめられた原にいる瀛州の最高位の仙人」という意味もあるようです。天皇の号も天武天皇から始まったものなのですが、語源は道教の「天皇大帝」で、北極星を天の支配者という意味から、天命を受けた者とされています。このような命名・諡から、天武天皇は生涯、陰陽道の基本である天文道、暦道を修め、即位直後の『日本書紀』には、「天文、遁甲(方術の一、人目をくらます隠身の術)を能くした。」と、記載されています。
天武元年(六七二)六月、壬申の乱が勃発しますが、その二四日、宇陀野室生村に、到着した場面が次のように記されています。
到〔着〕して日が落れた。山は暗く進行することができなかった。その邑の家の垣をとりこわし、たいまつとした。夜半に及んで隠〔三重県名張市辺〕郡に到〔着〕し、隠の駅家を焼いた。そして邑中に呼ばわって、「天皇が東国に入る。それで人夫などにやってこい」といった。しかし一人も来ようとしなかった。横河〔名張川か〕につくころ、黒雲が、一〇余丈の広さで天にかかっていた。天皇はあやしみ、たいまつを挙げて、自分で式〔=、陰陽の占いの道具〕をとり、占って、「天下が二分する
だ。しかし朕が最終には天下を得るだろう」といった。そして急行して伊賀〔三重県名賀郡の東半〕郡に到〔着〕し、伊賀の駅家〔上野市辺か〕を焼いた。伊賀の中山〔同上〕につくと、その国の郡司たちが、数百の兵士をひきいて帰〔順〕した。
ここでいう、(式盤)について、戸矢学著『陰陽道とは何か』(PHP新書)では、
式盤は、式占(一種の占い)を行うための専用具であると一般に認識されているが、その利用価値は実際にはもっとはるかに広いものだ。式盤の亜流に、風水師の用いる「羅盤」(図5)というものがある。これは主に地相や家相、墓相を判断するのに用いられる。これは、正方形の板に回転する円盤を組み込んだもので、一見して天円地方を表している。式盤の基本構造も「天円地方」だ。
式盤は、方形の盤に球面を載せた構造になっており、球面は回転する。方形の地盤には、方位や八卦、二十八宿、十干十二支などが刻まれており、球面の天盤には十二月将、十干十二支などが刻まれている。ところが、風水羅盤と式盤は似て非なるもので、構成構造に大きな違いがある。
風水羅盤には「天」があって「地」がない。「天」の部分は高度に精緻化されて、これ以上はないと思われるレベルに達しているが、対応するべき「地」の部分は欠落した。正方形の板は、単なる台板にすぎなくて、あってもなくても風水鑑定にとくに支障はない。現に、台板のない円形部分だけの羅盤も普及している。風水が、陰陽道とは異なる道を歩んだ影響がここにもある。陰陽道は「天文」を重視するが、風水は「地理」に特化した。残念ながら、基本構造的には退化していると言わざるをえない。
一方、式盤は、円形の天盤を回して方形の地盤との整合をみることで初めて機能する。まさに象徴的な形状である。
と書いています。
天武天皇はこの式盤を用いて天命を占い、天下は二つに分かれるが、最終的には勝利して天下を得るとの見立てをしたのでした。そして、四年一月五日、我が国で初めて占星台(天文台)を建立しました。兄であった天智天皇の漏刻台(水時計のこと。水落遺跡)は有名ですが、弟である天武天皇は天文台を建てたのでした。この天文台は早速稼働し、観測記録を残しています。
『日本書紀』に明白に天文現象としての記事が出てくるのは、有坂氏によれば推古天皇二八年(六二〇)の「天に赤い気があった」というのが最初で、それ以来天武天皇が占星台を創設した天武四年(六七五)までの五六年間に天文現象の記事は一二回、これに対して、天武五年から天武天皇崩御までのわずか一〇年間の天文現象の記事がちょうど同じ数になります。