『福沢諭吉 しなやかな日本精神』
[著]小浜逸郎
[発行]PHP研究所
平成三十年(二〇一八年)は「明治百五十年」です。明治維新から日本の近代化が始まったとするのが歴史学の定説です。これには最近いろいろと見直しの試みがなされていますが、やはり、二百六十年余り続いた徳川政権が倒れ、幕藩体制から中央集権体制へと大きく転換したのが明治維新ですから、これをその画期として大過ないでしょう。
日本の近代化を思想の面で押し進めたトップスターはなんといっても福沢諭吉です。彼は、いち早く進んだ西洋文明を紹介し、その背景にある自由の精神を日本に根付かせようとしたことで有名です。
本書では、福沢の思想を紹介するだけでなく、それを、彼の生きた時代との関係を通して見つめ直します。必要な歴史記述も織り込んでありますが、それ以外に、ほぼ同じ時代を生きた他の有力思想家、行動家との比較を通して、彼の思想の意義を浮かび上がらせることも試みました。
また、これまであまり顧みられることのなかった初期作品や経済思想にも言及しています。特に彼の経済思想は、いま読んでもたいへん有益な示唆が得られることを、このたびの執筆を通じて強く実感しました。
さらに、彼の思想が現代にとってどのような意味を持つのかをたえず意識しながら追いかけています。これは、現代の世界と日本が、資本主義の行く末にかかわる未曾有の危機に直面しているからです。
福沢は膨大な言葉を費やしていながら、たいへんブレが少なく、一貫性のある思想家です。しかしそのことは、彼の著作を部分的に読んだだけでは見えにくく、かえって誤解されてしまう側面もあります。それは、ある問題についての彼の論法が、「ああも言えるがこうも言える、しかし本当はこうなのだ」という叙述スタイルを取っているからです。
また、主張のひとつひとつを抽出して比べれば、一見矛盾しているように感じられる部分も多々あります。それは、彼がその時々の状況に応じて問題を提起し、それに対する最適解を打ち出そうとしているからです。しかし芯にあるものは一貫しているのです。
このことは、彼が論客として、非常に幅広い視野と柔軟な思考力を持っていたことを意味しています。と同時に、自説だけを押し通すのではなく、常に反論者を意識した開かれた対話の場面を想定していたということでもあります。
反論者が誰であるかほとんど特定していませんから、多くの場合、自分で創造したのではないかと想像されます。これは読者に対する親切とも評すべきもので、だからこそ説得力があるのです。福沢の論理展開は、言論というものの優れた見本を提供していると言ってよいでしょう。
本書は、幕末維新期から朝鮮の甲申事変(光緒十年=明治十七年、一八八四年)まで、つまり日本が封建末期から近代国家建設を経て対外進出に至る時期までの福沢の文筆活動を扱っています。この期間における彼の活動の中に、その思想のエッセンスが凝縮されているとの確信が筆者の中にあるからです。したがって、それ以降の著作についてはほとんど触れていません。
また、婦人論、男女交際論、婚姻論など、エロスにかかわる論考にもたいへん興味深い議論があるのですが、今回その領域には踏み込むことができませんでした。後日を期したいと思います。
なお、当時の文献を引用する際の表記については、次のような方法に拠りました。
福沢自身の文章は、原文の独特な味をできるかぎり活かしたいと思いましたが、読みやすさを考えて、仮名遣い、送り仮名、難読漢字、いまは使わなくなった漢字などは現代風に改めました。またなるべくルビを多くふりました。助詞、助動詞、接続詞、副詞などに漢字が使われている場合、仮名に開いたところもかなりあります。さらに、「毫も」のように、現在では使われなくなった言葉には、カッコをつけて意味を書いておきました。
福沢の文体は、「やまとことば」でもなく口語でもなく、漢籍の書き下し文を基本としています。多少の読みづらさはあるかもしれませんが、漢文体ならではの格調の高さと、その決然たる力強い筆致には、初めての人でも必ずや魅了されると思います。
また、その他の人の文章は、読者の便宜を考え、わずかな例外を除いて、現代語訳で通しています。