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福沢諭吉 しなやかな日本精神
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ミステリ小説
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第二章 討幕は必要だったのか ──幕末維新と福沢諭吉

『福沢諭吉 しなやかな日本精神』
[著]小浜逸郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:56分
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明治維新への十一の素朴な疑問


 私たちは普通、徳川幕府が倒れ、明治新政府が樹立されたプロセスを、概略次のように理解していないでしょうか。


 まずペリーの来航に始まり、その翌年、日米和親条約が締結され、これによって攘夷思想が沸き起こった。そこに長州藩を中心とした尊皇思想が結びついた。やがて天皇の(ちよつ)(きよ)なしに大老・井伊(なお)(すけ)が日米修好通商条約に調印するに及んで、尊皇攘夷の動きは一気に高まった。井伊直弼は幕府に反対する者を大量に捕縛・投獄したため(安政の大獄)、水戸藩士の恨みを買い、桜田門外で暗殺された。幕府の権威はこれによってますます地に落ちた。土佐藩を脱藩した坂本龍馬の斡旋で、それまで幕藩体制を支持していた〓摩藩も長州の討幕の動きに同調し、土佐藩もこれに賛同して一大勢力となった。十五代将軍・徳川(よし)(のぶ)がこの情勢に屈して大政奉還に踏み切り、王政復古の大号令となった。しかし旧幕府勢力や会津、桑名などいくつかの諸藩は、これに承服せず、その結果、鳥羽・伏見の戦いに始まる()(しん)戦争へと発展した。けれども江戸は幕府方・勝海舟、官軍方・西郷隆盛の合議により、無血開城が実現した。会津藩その他はなおも抵抗を示し、奥羽越列藩同盟が官軍方と(かん)()を交えたが、やがて投降、江戸から渡海し箱館五稜郭に立てこもった(えの)(もと)(たけ)(あき)ら旧幕府勢力もついに降伏し、ここに明治新政府の下、全国は平定された。


 ざっとこう理解して、間違いとは言えません。しかし、この間わずか十五年にもかかわらず、このような通り一遍の理解では、見落としてしまう点がたくさん出てきます。また、こうした教科書的な記述だけでは、素朴な疑問がいくつも湧いてきます。いまそれらを箇条書きにしてみましょう。



 〓ペリーが来航した時と翌年の和親条約締結の時、直接折衝に当たった幕府の役人は、ただその威力に()されてアメリカの要求をすんなり呑んだだけなのか。


 〓攘夷を唱えた勢力は、それを実現させるためにどんな見通しを持っていたのか。


 〓安政の大獄は、単に反幕府勢力を抑えることが目的だったのか。


 〓天皇(孝明天皇)・()(ぎよう)はどういう立ち位置だったのか。また幕府は朝廷に逆らう意思を持っていたのか。


 〓長州と〓摩は反目しあっていたのに、なぜ連合するようになったのか。


 〓徳川慶喜の大政奉還は、本当に権力放棄の意思を明らかにしたものなのか。また、大政奉還と王政復古の大号令とはスムーズにつながる流れなのか。


 〓幕府が朝廷に恭順の意を示したのに、なぜ戊辰戦争は起きたのか。


 〓この間、〓長以外の列藩は、どういう立場を取ったのか。


 〓徳川幕府崩壊後、徳川家の旗本・御家人は新政府のどんな措置を受け入れたのか。


 〓攘夷思想の急先鋒であったはずの長州勢力が、討幕後の新政府において、攘夷を実行せず、開国の方針を積極的に採用したのはなぜか。


 〓明治新政府は、その後、社会の混乱をうまく収拾しえたのか。



 ご存知のことと思いますが、実は最近、このあたりのことについて、いろいろな形で見直しの試みがなされています。従来の幕末維新史は、維新政府に都合のよいように構成されたもので、全面的には信用できないというのですね。


 このような見直しがなされることは、たいへんけっこうなことです。筆者もいくつか参照しました。それらの中には、なるほどと思わせるものもありましたが、しかし、中には、私的な感情に囚われすぎているなと感じさせるものもありました。筆者は歴史家ではありませんし、この本は福沢諭吉を論じることを主眼としていますから、これらの試みについて詳しい詮索はしません。ここでは、右に挙げた疑問点を、福沢思想に関連があると考えられる限りで、筆者なりに解いておこうと思います。


中津から適塾、そしてアメリカへ


 その前に、言論家として名を成す以前の福沢のバイオグラフィーを簡単に追いかけておきましょう。なお、今後人物の年齢はすべて満年齢で記します。


 福沢諭吉は、(てん)(ぽう)五年十二月十二日(一八三五年一月十日)、大坂の()(ぜん)・中津藩蔵屋敷で下級藩士・福沢(ひやく)(すけ)と妻・()(じゆん)の次男として生まれました。一歳の時、父の死去により帰藩し、中津で少年時代を過ごします。十三歳ごろ、白石照山の漢学塾に通い始め、めきめきと頭角を現わします。


 黒船来航の翌年、つまり日米和親条約締結の年、十九歳で長崎へ遊学して蘭学を学びます。同時に兵学もそこそこ身につけたようです。


 ところが、中津藩の家老の家柄である奥平家のドラ息子も同時に長崎に来ており、これが諭吉の実力に嫉妬したのか、諭吉を郷里に帰そうと陰謀を巡らします。諭吉はこの陰謀の裏をかいて、帰郷すると見せかけ、(かん)(なん)(しん)()しながら、大坂の中津藩蔵屋敷に勤めていた兄・三之助のもとに転がり込みます。


 兄の勧めで()(がた)(こう)(あん)の蘭学塾・(てき)(じゆく)に入門しますが、ほどなく兄の死とともに家督を引き継ぐことになり、いったん中津に帰ります。しかし、青雲の志()みがたく、周囲の反対を押し切って、再び大坂の適塾の門を叩きます。母だけが諭吉の志に賛成してくれました。


 安政四年(一八五七年)、最年少二十二歳で適塾の塾頭になります。適塾では、オランダ語だけではなく、物理書を写本して最新の化学や電磁気学なども学び、いろいろな実験にも取り組んだようです。第一章で紹介した『訓蒙 窮理図解』の知識は、この時期に獲得したものと思われます。


 翌年、もともと江戸に出ることを目論んでいた諭吉のもとに、幸運がもたらされます。すでに家長であったために、中津藩から江戸出府を命じられたのです。江戸に赴いた諭吉は、(つき)()(てつ)(ぽう)()の中屋敷で、後の慶應義塾の前身となる蘭学塾を開きます。同時に、多くの同志たちとの交流が生じます。


 安政六年(一八五九年)、日米修好通商条約締結の翌年、外国人居留地となった横浜に出かけ、横文字が全く読めないことに衝撃を受けます。これがきっかけで、これからは英学を学ばなければならないことを痛感し、仲間を見つけて英語の勉強に集中します。


 翌年(万延元年、一八六〇年)が、名高い(かん)(りん)(まる)による渡米の年です。諭吉は軍艦奉行で咸臨丸の司令官、木村(せつ)(つの)(かみ)(かい)(しゆう))に懇願して、従者として乗り組むことに成功。渡米の名目は、条約批准交換のための遣米使節団が乗るポーハタン号の護衛ということでした。


 しかし咸臨丸に乗った日本人は、アメリカ西海岸での滞在にとどまり、ワシントンまでは行きませんでした。それでも諭吉たちは現地で大歓迎を受け、傷んだ船の修理もしてもらい、工場見学、高官の屋敷への招待など、初めて踏んだ西洋の「文明国」で、目くるめく日々を過ごしました。


安政の大獄と井伊直弼の真意


 諭吉洋行中に、水戸藩士たちによる大老・井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)が起きています。桜田門外の変は、もちろん安政の大獄がその原因です。しかし、安政の大獄は、攘夷を唱える過激な反幕府勢力を井伊直弼が弾圧したという印象が強いですが、事実はもう少し複雑で、もともとくすぶっていた将軍継嗣問題が大きく関連しています。


 実子のなかった十三代(いえ)(さだ)の跡継ぎをめぐり、血統を重んじて(いえ)(もち)を推す派(南紀派、井伊直弼はこちら)と、難局を乗り切るために、英明で人望の厚い水戸の一橋慶喜を推す派との対立が激しくなっていました。結局、井伊の決断によって家茂に落ち着くのですが、この権力争いに敗れた一橋派の遺恨は相当に大きかったようです。


 桜田門外の変については、もともと尊皇攘夷色の強かった水戸藩ですから、その一部勢力が、勅許を待たずに条約調印に踏み切った責任者・井伊直弼を暗殺したのも、それはそれでむべなるかなと思われます。


 ちなみに井伊自身は、勅許なしの調印には反対していました。


 この背景には、英露が東アジアで戦争を起こすかもしれないという風聞を利用したアメリカ総領事・ハリスの(こう)(かつ)な外交戦略がありました。直接の担当者である下田奉行・井上(きよ)(なお)と目付・岩瀬(ただ)(なり)は、このハリスの攻勢に押しまくられました。


 二人は、追いつめられた気持ちで、井伊に、「万やむを得ない場合には調印してもよいか」と談判しました。井伊は、「その際は仕方がない。しかしできるかぎりそうならないように交渉せよ」との内諾を与えたのです。さんざん悩んだ末の決断でした。


 一方、桜田門外の変に先立つ安政の大獄のほうは、家茂を擁立した井伊一派への一橋派の抵抗に対する粛清の意味が大きかったようです。つまり、勅許なしの条約調印問題と、将軍継嗣問題とが同時期に重なっててんやわんやの状況だったのです。


 政治の最高責任者である井伊直弼としては、幕府権力による秩序を保つために、幕府の方針に異を唱える反対勢力をこの際断固として排除せざるを得ませんでした。事実、尊皇攘夷を高唱する志士たち(下級の公卿や浪士も含む)の投獄・処刑の前に、井伊は、反対派である一橋派に属してはいるが必ずしも攘夷派ではない大名クラスに対しても、(えい)(ちつ)(きよ)、謹慎などのかなり厳しい処罰を行なっています。


幕府外国方への出仕で培われたもの


 さて福沢のその後に話を戻しましょう。


 木村摂津守との関係はその後も良好で、帰国した年に木村の推挙で福沢は、幕府外国方への出仕が認められています。陪臣の立場から、正式な幕臣へと一歩近づいたわけです。


 福沢は、アメリカで買い込んできた洋書などをもとに英語の勉強を続ける傍ら、公文書の翻訳にたずさわりました。苦労の多いこの翻訳経験は、彼の思想形成に大きな影響を与えました。というのは、外国の重要文書を日本語に訳し、それに対する日本側の公式対応を英語に訳すという要の位置にいたことで、国際情勢とその中での日本の位置とが手に取るようにわかったからです。

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