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福沢諭吉 しなやかな日本精神
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ミステリ小説
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第三章 松陰、小楠、海舟、隆盛 ──志士・思想家たちと福沢諭吉

『福沢諭吉 しなやかな日本精神』
[著]小浜逸郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間31分
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 この章では、福沢より前に生まれた幕末の思想家・政治活動家四人を取り上げて、彼らと福沢との関係を考えてみようと思います。その四人とは、吉田松陰、横井小楠、勝海舟、そして西郷隆盛です。


 関係といっても、この四人は、いずれも福沢との直接の交流といったものはありません。ただ、福沢思想の特徴を浮き彫りにするために、彼らの思想や行動が重要な役割を演じていると考えられる限りで、ここに取り上げるのです。


吉田松陰(一八三〇~一八五九)


天朝も幕府、吾が藩も入らぬ


 幕末の思想家といえば、まずなんといっても吉田松陰が思い浮かぶでしょう。


 早くから神州不滅を唱え、勅許なしの幕府の通商条約調印に憤激したこの早熟の天才は、一般に尊皇攘夷思想の元祖として理解されています。その国を思う至情には、多くの日本人が共感を示してきました。


 松陰が最ももてはやされたのは、戦前・戦中の皇国思想一辺倒の時期です。これは当然といってよいでしょう。しかし、戦後(GHQ占領統治期間を除いて)になっても彼の大衆的人気は続き、最近のNHK大河ドラマにまで取り上げられています。東京・世田谷の松陰神社はすでに百三十年以上の歴史を持ち、文字通り松陰は神格化されているわけです。


 しかし筆者は、吉田松陰という人は思想家としてそんなに偉いのかな、と前から思っていました。あえて悪口を叩くなら、彼は、必要な局面で必要とされる合理的思考を欠き、その時々の情緒におぼれがちな日本人の短所をまさしく体現したような人ではないか。松陰が二十九歳という若さで非業の死を遂げたことを、早く来すぎた者の悲劇と見ない人はまずいないでしょう。その悲劇は、半分は時勢のしからしめるところで、致し方ない部分がたしかにあります。しかし後述のように、あとの半分は自ら招いたものというべきです。


 松陰は、なぜこんなに人気があるのでしょうか。ここには、不当といってもよいいくつかの理由が考えられます。


 一つは日本人の(ほう)(がん)(びい)()です。これはまあ仕方がありません。学識において天才性を示した大望の人が、若くして権力による無慈悲な斬首という憂き目に遭ったのですから。


 二つ目に、大義のためには進んで命を捨てる潔さに対する人々の憧れがあるでしょう。しかし、この時期、命懸けで事に臨んだ人は、松陰自身およびその弟子以外でも枚挙にいとまがありません。立場の良し悪しは別として、佐久間象山、橋本左内、横井小楠、桂小五郎(木戸(たか)(よし))、後藤象二郎、西郷隆盛、大久保利通、江藤新平、板垣退助その他。


 また幕閣や幕臣あるいは列藩の藩主でも、その種の人はたくさんいました。井伊直弼、阿部正弘、堀田(まさ)(よし)、勝海舟、川路聖謨、榎本(たけ)(あき)、松平春嶽、山内容堂その他。一橋慶喜ですらこの例に漏れないでしょう。ですから、死を覚悟しながら事に臨んだというだけでは神格化されるべき理由にはなりません。


 三つ目に、日本の近代化に貢献したと言われる「元勲」たちの多くが松下村塾の門下生だという事実があります。むろん彼らが松陰の影響を強く受けたことは否定すべくもありません。しかし松陰は安政六年(一八五九年)に刑死しており、松下村塾の出身者たち、伊藤博文、(やま)(がた)(あり)(とも)、品川弥二郎らが、元勲の名にふさわしい活躍を示すのは、明治十年(一八七七年)前後からです。その間の二十年近くには、新時代における大混乱と、それに対処する彼ら自身の悪戦苦闘のプロセスがあったのです。それこそが近代政治の(もとい)をようやくにして作り上げたというべきでしょう。


 それは、松陰が往時抱いていた思想とは直接の関連はありません。彼は最後に「(そう)(もう)(くつ)()()に他人の力を()らんや。恐れながら天朝も幕府・吾が藩も()(要)らぬ、()だ六尺の()〓()が入用」(野村和作宛書簡)と極端な精神主義を唱えますが、これに門人たちは賛同せず、彼らと絶交にまで至っています。第二章で説いたように、彼の属した長州でさえ、彼の死後には小攘夷から大攘夷に方針を切り替えていますし、大攘夷の典型である(なが)()()()の航海遠略策が藩論を支配した時期もあります。


 松陰が小攘夷だったと決めつけるわけではありません。彼もまた大攘夷的な戦略の持ち主ではありましたが、その思想の矯激な質において、やはり小攘夷的な側面が強かったと見るべきでしょう。また維新後、〓長を中心とした政府は、攘夷とはおよそ無縁な、幕政を受け継いだ積極的開国政策を取っているので、その意味からも松陰の志を活かしたとは言えないでしょう。


純粋心情の美学と視野狭窄


 四つ目に、彼がいち早く、来たるべき明治絶対王政の到来を予感し、幕藩体制に替えて尊皇思想を徹底的に貫いたという事績が考えられます。けれども、松陰には討幕を目標として狙い定めた形跡はありません。それは彼の夢想だにしなかったことでしょう。というのも、松陰の教養の根はもっぱら儒教でした。ですから、その道徳観は忠君奉公の観念の域を出るものではなく、藩主に背くとか、将軍家に叛逆するといった発想はありませんでした。たとえば、『()(やま)(ごく)(ぶん)稿(こう)』の中の「()()(せい)(きよう)に与ふる書」という文章では、勤王僧・(げつ)(しよう)に反対して、次のように述べています。


《天皇に請うて幕府を討つということについては、これを可とすることはできません。昔より、真の君主が興起し暴政府を倒すのは、一時の憤激によるだけでは、よく成功するところではありません。(中略)たとえ天皇の命を奉じ、天下の憤激に乗じて、一朝にして幕府をたおすとしても、わが藩主のなすところが、湯王・文王のなしたこと以上の深切さがなければ、結局天下の兵を動かすだけでいたずらに世間をさわがしたことになるでしょう》(中央公論社『日本の名著31 吉田松陰』・以下引用は断りない限り同じ)



 これなどは、むしろなかなか理性的で、松陰の死後、長州の過激分子が京都を(じよう)(らん)に導いて結局幕府に征伐された経緯を、先回りして戒めるものとなっています。もっとも、死を賭して主君を諫めるとか、(くん)(そく)の奸を排すという観念は人並み外れて強かったようですが、それは、まさに儒教道徳にも武士道にもぴったり(かな)っています。


 またその尊皇思想は、もっぱら古代王朝への回帰を目指すものでしたから、当時の社会体制や人民の生活意識には逆行するものでした。彼はただ純粋に、神学的に、道徳的に「万世一系の皇統によるよき統治」を夢想したにすぎません。すでに強固な基盤を持っていた当時の商業資本による経済システムなどはほとんど念頭になかったのです。それが証拠に、彼は漢籍を模範として引きながら、以下のような「米本位制」を説いています。


《諸士で官職に就いている者の俸給その他の賞与などは、金・銀・銭や紙幣を支給することをいっさいやめ、米穀や布・絹などをもってする。また漸次紙幣の発行をやめ、これをなくする》(『()(きよう)(ぜん)(しよ)(こう)(ろく)』)



 ここには、商業に対する伝統的な軽侮の念さえうかがえます。ですからそれははっきり言って時代錯誤の代物でした。


 五つ目に、これが一番重要なのですが、彼の思想的な核心は、ただ皇国に対して「至誠」を尽くすというひとことに尽きます。誠さえ貫けばどんな事態も動くというこの精神主義は、多くの日本人をいたく感激させます。松陰の人気は、それを貫いて言行を一致させたというところにあるのでしょう。


 ところがこうした純粋心情の美学は、えてしてその裏側で、合理的な戦略思考の欠落や視野(きよう)(さく)をもたらします。たとえば昭和の二・二六事件は、先々の見通しもなく(けつ)()した青年将校のクーデターです。よく聞かれるのは、その無計画さはともかくとしても、彼らの心情は純粋に憂国の念から出たもので、その志は多とすべきだといった議論です。


 しかしこれは端的に誤りです。このクーデターの結果、日本の苦しい経済情勢をいつも巧みに切り抜けてきた高橋(これ)(きよ)が殺害されましたし、優れた政治思想家であった北(いつ)()は、直接の関連がないのに、この事変に連座したとして刑死させられました。青年将校たちの行動は、激情にかられただけのものであり、日本の苦境を総合的に見て解決しようとする大局的視野をもたない若気の至り以外の何ものでもありません。


非合理な精神主義の問題点


 一時の激情にかられることを戒める冷静な松陰と、神がかり的に皇統への至誠を貫く非合理な精神主義者の松陰。彼一身の内にはこの矛盾した両面があったと言えば人物批評としては片づくのかもしれません。けれども思想的に見れば、後者のほうは見過ごすことのできない重要な問題をはらんでいます。それは日本の伝統的な弱点と言っても過言ではないからです。


 先の大戦における無謀なガダルカナル作戦やインパール作戦、片道燃料だけで若い有為な命を次々に死地に追いやった特攻作戦、帰還を想定しない戦艦大和の出撃などには、この伝統的な弱点が露呈しています。つまりは、玉砕を進んで多とする思想であり、死の美学によって自分たちの行動を肯定しようとする思想です。


 筆者は二・二六事件や大東亜戦争をけっして道徳的に非難しているのではありません。日本人のこの思想体質が、いざ戦いに臨むにあたって合目的的な思考や巧みな攻略法を発出するための(しよう)(がい)となっている事実を指摘したいのです。残念というほかはありません。


 戦いは、勝って生還するのでなければ意味がないのに、そのための戦略を最優先させる前に、まず桜花が散るように、「死の覚悟」を固めることを優先させてしまう──こういう一種の敗北の美学を、大国と渡り合わなくてはならない時に、けっして認めるわけにはいかないのです。


 松陰には、明らかにこの傾向がありました。たとえば野山獄から杉家へ移された時期(安政三年、一八五六年)に書かれた『(へい)(しん)(ゆう)(しつ)(ぶん)稿(こう)』のなかの「天下は一人の天下に非ざるの説」に次の記述があります。


《本邦の帝皇には、あるいは(けつ)(おう)(ちゆう)(おう)のような残虐な行為があったとしても、億兆の民はただ頭を並べて、天子の宮殿の門の前に伏し、号泣して、天子がみずから感じ反省するのを祈ることができるだけである。不幸にして、天子が激怒し、億兆の民をことごとく殺してしまうときは、四方ののこりの民も、また生き残ることはない。そして神州は滅ぶのである。もしなお一人でも民が生存しているならば、天子の宮殿の前に行って死ぬだけである。これが神州の民である。あるいはもし天子の宮殿の前に行って死なないとあれば、それは神州の民ではないのである》



 これは天皇への絶対的な忠誠心を表すための極端な(たと)えであると思うかもしれません。しかしまんざらそうでもなく、本気で言っているフシがあります。こうした一種の自虐的なまでの原理主義は、ほとんど信仰の域に達しています。同じような硬直ぶりが、彼の他の面にも表れているからです。


 たとえば、『武教全書講録』の「()(そん)(きよう)(かい)」という文章には、女子をいかに教育するか、というくだりがあります。そこでは、『源氏物語』や『伊勢物語』、その他和歌、俳諧、茶の湯などの遊芸を教えとしてはならないとあります。また同じ文章の他の箇所には、妻が夫の家に万一居るにたえないような場合には自害する以外に生き方はなく、離縁されて戻ってきたら父兄は意を含めて自害させなければならないとあります。これらは要するに世間知らずの思想家の言うことで、松陰の骨がらみの体質がこういうところにほの見えると言ってよいでしょう。


現実が見えていた人、見えなかった人


 松陰はたしかに早くから、迫りくる列強に対抗しうるだけの近代的軍備を西洋に学んで整える必要を力説しています。しかしこれなどは、彼の師である佐久間象山の直接の影響であり、また、松陰よりずっと年上の横井小楠もさんざん言っていたことです。松陰より七つ年上の海舟などは、海軍伝習掛や軍艦奉行として現実にその実践に当たっています。すでに述べたように、幕府上層部も、黒船来航以前からその必要を痛感し、準備を進めていました。彼らのほうが欧米の恐るべき実態をよく感じ取っていたのです。


 たとえば松陰は、「僕は罪を得て幽囚の身となっているが、わが神州の運命をみずから担う気概を忘れず、神州に迫る四方の()(てき)を討伐しようとの志を抱いている。(中略)いまわが神州を興隆に導き、四方の夷狄を討伐するのは、これ仁道である。したがってこれを妨げるものは不仁である。どうして仁が不仁に敗れることがあろうか。もし不仁に勝ちえないならば、それは仁ではないからである」(『講孟余話』)などと、独りよがりな断定に満ちた(げき)を飛ばしています。


 また、「いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、()()の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャツカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。また、朝鮮をうながして昔同様に貢納させ、北は満州の地を()き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである」(『幽囚録』)と、何とも誇大妄想的な企てを開陳しています。


 さらに古代の天皇の「雄大な計画」などを典拠として持ち出し、関東ではなく畿内の防備を固める具体策を事細かに展開しています。しかしこれは敵が万一陸戦に踏み込んだ場合の話で、見当外れの空論というほかありません。なぜなら当時の列強は、日本に対して戦いを挑むなら、まずは進退自由な海戦で臨んだに決まっているからです。それは、同時代に、横井小楠が、海軍力を充実させる必要を論じた『(こく)()(さん)(ろん)』(万延元年、一八六〇年)の中でさんざん説いているところです。


 幽囚の身であるがゆえに妄想も活発化するのでしょうが、後世に名を残すべき思想家たる者、夜郎自大に走らず、もう少し現実をよく見るべきだったでしょう。


 これを結果論だという反論は成り立ちません。すでに触れたように、同時代でもっとよく現実を見ていた人は、小楠だけでなく、勤王派にせよ、佐幕派にせよ、攘夷派にせよ、開国派にせよ、何人もいたのですから。


最後まで「愚直」さを貫くのみ


 そもそも松陰は、風雲急を告げるこの時代に、逸る心を抑えきれず、攘夷実現のために下田(とう)(かい)(国外情勢視察のため、下田のペリー艦隊に乗り込み密航する計画)、長崎停泊中のロシア艦船への乗船計画、間部(まなべ)要撃策(水戸藩の井伊直弼暗殺計画を聞き、同じく安政の大獄を進めていた老中・間部(あき)(かつ)の襲撃を計画)、伏見要駕策(参勤交代途上の長州藩主毛利(たか)(ちか)を伏見で待ち受け、攘夷派公卿の大原重徳に、幕府の失政を糾弾するべく敬親を説得してもらう計画)など、いくつも計画を立てていますが、ことごとく失敗または未遂に終わっています。伏見要駕策は高杉晋作ら、弟子が止めたにもかかわらず、断行して失敗しました。細かく見ると、いずれも計画の綿密さに欠け、準備活動において拙劣な独り相撲だったことがわかります。


 下田踏海は、ペリーの軍艦に二人で乗り付けて密航させてもらおうとした有名な試みです。本来なら死刑に値する罪ですが、それが故郷の野山獄入獄という寛大な措置になったのは、あの川路聖謨が老中首座の阿部正弘らに働きかけてくれたおかげでした。


 これらは、松陰の一種の愚直さを表しており、彼が高度な術策を必要とする政治活動に不向きだったことを示してもいるでしょう。高邁な志と学識だけでは世は動いてくれないのです。


 愚直さと言えば、彼にその自覚がなかったわけではなく、随所に自分のつたなさを反省する文言が見えます。しかし、彼は最後までこの愚直さを貫くしかありませんでした。


 刑死直前に書かれた有名な『(りゆう)(こん)(ろく)』には、安政の大獄に連なる取り調べで、身に覚えのない容疑をかけられたのに、問われてもいない間部要撃策のことを自白してしまったことが書かれています。余計なことをしゃべらなければ彼は死刑にはならなかったでしょう。


 これ以前に長州藩では、いろいろな意味で松陰の名は通っていました。

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