読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-2
kiji
0
0
1213443
0
福沢諭吉 しなやかな日本精神
2
0
0
0
0
0
0
ミステリ小説
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第四章 福沢諭吉が考えていたこと ──しなやかで強靱な「日本精神」を目指して

『福沢諭吉 しなやかな日本精神』
[著]小浜逸郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:2時間2分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


 この章では、明治近代国家形成期に、福沢が日本の近代化の過程で、どういう考え方を打ち出したかを、次の四つのブロックに分けて論じていきます。重要な著作をいくつか取り上げ、その思想の全体的な輪郭をいっそう明確にしていきたいと思います。



 〓政治論ブロック


 〓学問論ブロック


 〓経済論ブロック


 〓脱亜論ブロック


政治論ブロック


目的は「独立主権国家」の確立


 福沢は時局に対してたいへん敏感に反応する論客で、それが書かれた背景に何があったかをある程度つかんでおかないと、理解を誤る恐れがあります。ある論考の一部、また複数の論考の一部をそれだけ取り出すと、一見矛盾したことを言っているように読める場合もあれば、その思想が民権論者から国権論者へと次第に変化していったかのように見える場合もあります。


 この矛盾や変化はよく福沢研究者たちの間で問題とされてきたようです。しかし、第一章でも触れたように、それは読解する側のイデオロギー的な固定観念や、単純に一括りにして片づけたがる怠惰な心理がそうさせるのです。よく全体を見渡せば、論ずる対象が変わっても、彼の思想の核心部分は微動だにしていないことがわかります。


 矛盾にしても、ある角度から見た時にはこう言えるが、別の角度からはこうも言えると複眼的な見方をしているからです。しかもそこにはそうするだけの明確な意図や文脈があってのことなのです。一例として、前章で、『瘠我慢の説』の書き出し部分──「立国は私なり、公に非ざるなり」の一句だけに(とら)われるとどんな誤りを犯すかについて述べました。


 筆者の考えでは、福沢は、いわゆる「民権論者」だったこともなければ、それに対立するものとしての「国権論者」だったこともありません。また、前者から後者へと変節したのでもありません。


 そもそも、民権論か国権論かという二元論でものを見ることが福沢誤解のもとなのです。


 国権論という言葉を、民衆を抑圧する権力と解釈せずに、国際社会に対峙する対外的な「国家主権」の確立論と受け取るなら、彼は一貫して国権論者でした。その確立のために、「極端な民権論」も「極端な民権抑圧論」も共に百害あって一利なしなので、互いに猜疑と激情と暴力を捨てて、政府はもっと寛容に反対論者に耳を傾け、民権運動者は、国家統一の重要性をもっと認識するべきだと、ひたすら官民調和の論陣を張ったのです。


 そのため彼は、『分権論』(明治十年)、『通俗民権論』『通俗国権論』(以上十一年)、『通俗国権論二編』『民情一新』(以上十二年)、『時事小言』(十四年)、『時事大勢論』『藩閥寡人政府論』『帝室論』(以上十五年)などを旺盛に書きまくりました。


 時あたかも、下野した板垣退助ら、中央政府と決裂して不満を鬱積させていた有志者や仕官の叶わなかった多くの不平士族ら、地方の富農らを中心とする自由民権運動が(ほう)(はい)として起こりつつあるさなかでした。板垣、後藤象二郎、副島種臣らによる民選議院設立建白書提出が明治七年、内閣の専制と失政を糾弾した片岡健吉による立志社建白が十年、大阪で愛国社再興大会が開かれたのが十一年、国会期成同盟設立が十三年、河野広中、片岡健吉が十万人総代として国会開設上願書を提出したのが同じく十三年です。


 福沢の一連の政治論では、しつこく国会開設の効用を説いています。官に対しては多事争論恐れるに足らずと言い、民に対しては、衆の暴力に訴えず言論に訴えてこそ政府も耳を貸すだろうと、それはまるで(しゆう)(せん)()のような役割でした。


 彼の議論はある角度からは民の側に立って官を攻撃しているように見え、別の角度からは官の立場から民権論者を批判しているように見えます。しかしこれは、彼がコウモリ的にふるまっていたのではなく、まさになぜそうするかという確固たる目的があったからです。


 その目的とは、西洋列強に対して独立主権国家としての面目を示すことに尽きます。西洋に負けない軍備を整え、それを背景に対等の外交関係を築き、富国強兵を真に実あるものとするためには、内部弾圧と反権力ごっこをしている時ではないというのが、この時期の福沢の痛切な状況認識だったのです。


「政権」と「治権」とを分けよ


 第三章で見たように、『分権論』の趣旨は、『丁丑公論』のそれと同じく、「武」に向かう旧士族のあり余るエネルギーと優れた能力とを、「知」の方向に向け変えさせ、政府がこれをうまく吸収して国家統一のために活用するべきだというところにありました。


 この力作では、まず士族反乱の原因を、単に政府の専制や仕官にあぶれた不平にのみ求めるのではなく、その生活意識のレベルにまで降りて深く追究しています。その視線のありようは、今日の社会心理学的な方法論を先取りしたものと言えるでしょう。


 次に、士族を、中央政府に仕官できた者、藩政破棄の新政府方針に賛成ではあるが仕官できなかった者、維新そのものを面白く思わない守旧派の三つに分類しています。実態としては、後二者が混然として反乱のエネルギーを蓄積・爆発させているが、政府がうまく活用すべきなのは、民権論の影響のもとにある第二類の士族である、と福沢は言います。


 さらに、不平士族たちの多くが地方に在住している実情をとらえて、彼らに地方分権を与えて中央との間のパイプを緊密にし、中央政権のうちに取り込むことを提案しています。その際、あくまで中央政権の優位が守られなければならないことが強調されます。


 ここで一つの福沢らしい発想が語られます。それは、「政権(ガヴァメント)」と「治権(アドミニストレーション)」とを分けて、後者を地方士族に付与せよというのです。前者には、立法、徴兵令の執行、租税(国税)の徴収、外交関係の処理、貨幣の鋳造と発行などが属します。後者には、警察業務、インフラの整備・営繕、学校・社寺・遊園の造成、保健衛生、地方税の徴収などが属します。


 このような政権と治権の分割の必要はまた、次の点によって裏付けられます。すべてを集権して政府があらゆることに手出しするのは、一見整合的ですっきりするが、そんなことは業務量が膨大となり実際には不可能である。また地方にはそれぞれの文化、習慣があり、それらは外からは容易に実情を知ることができないので、地方在住者に任せるほかはない。政府は大まかなモデルや設計図を提供すればよく、個々の施設の建造や具体的な運用は地方が担うべきだ。しかも単に地方と中央とをバラバラに分立させるのではなく、あくまでも中央集権を守りつつ、地方の問題を中央に伝達して意思の疎通を図るために、民選議院を設立する──これは、現実主義的であると同時に、細かいところまで行き届いた視線を巡らせた考えと言えるでしょう。


 実際に近代国家は、国全体にかかわる問題や各地方に共通の課題に対しては、中央政権が担い、各地方独自の課題や住民に直結する問題に関しては自治体が担うような形で整えられたのです。大久保は暗殺される直前の明治十一年(一八七八年)、政局の安定のために地方に関わる新三法を通していますが、福沢のこの構想が影響を与えていたかもしれません。


《今、政権は中央政府の権利なり。いやしくもこの権利に損することなくして人望を(おさむ)るの方便あらば、力を尽してこれを求めざるべからず。ただに治権を分与するのみならず、田舎(いなか)(がん)()(もの)と称する者の(かんがえ)も、採るべきものあればこれを採り、(つとめ)て人心を(ろう)(らく)するこそ智者の策というべけれ。(たと)えば、田舎者は東京の(たい)()(こう)(ろう)(うらやみ)て各地方の疲弊を悲しむ者多し。大廈高楼を造らざるも政権に損することなくば、これを造らずして可なり。(中略)いわんや()の世間に有力なる民権論者及び新聞記者のごときも、(しつ)(かい)これを政府の味方に引入れ、双方の間に同情(あい)(あわれ)むの念を起さしめて、行政の便利を(たすく)ること最も緊要なるにおいてをや。政府は人望を収めざるべからざるなり。ただ中央の政府において、常に忘るべからざるの(よう)(けつ)は、政権の行わるゝと行われざるとの間に(あきらか)に分界を定め、この一段に至て(かく)(ぜん)動かざるの一事にあるのみ》



 以上のように、『分権論』は、政府が地方士族の反乱のエネルギーをいかなる知恵によって克服すべきかを動機としています。そのため、地方には治権を、中央には政権を、というやや単純な図式を基礎にして構想されています。この点は、あくまで中央に対して反政府感情を募らせていた民権運動家や不平分子の心情までは汲み取りえていないというべきでしょう。そのことに気づいたか気づかなかったか、地方組織が整うにつれて、福沢の関心は、これ以降、もっぱら国会開設の問題へと移っていきます。


 しかし『分権論』では、民権論者や新聞記者のような新しく生じたインテリに対しても、それをうまく籠絡して味方に引き入れよという知恵を開陳しています。つまり、国家としての秩序と安定を何よりも優先させる福沢からすれば、反政府、反権力を主張してこれに逆らう人たちも、弾圧の対象ではなく、言論界にうまく引き入れるべき対象でした。それが彼の基本的な戦略であり、言論界という戦場で説得力という武器を用いて彼らをいかに味方に取り込むかが決め手だったのです。うまく行くかは別として、民選議院設立に早くから賛意を示していたのも、そうした深謀遠慮があってのことでした。政権を()(そん)するのでないかぎり、田舎者や民権論者の言い分を聞いて取り入れてもいいではないか。こうしたところにも、福沢のよい意味での功利主義精神が表れています。


下々が妄りに威張るのが「民権」ではない

『通俗民権論』は、一般の民衆に対して、「民権」という概念をやさしく伝えようとした啓蒙書ですが、誤解を避けるための配慮が随所に見られます。

「権」とは身分、本分、分限というように「分」ということであると前置きした上で、民権とは人民たる者の(いち)(ぶん)であるから、たとえば一町村で道路の普請や学校の建設の際に、自分たちの企画と力によってなすべきであるのに、政府にお願いするようでは町村としての一分が立たないということになる。自分たちの領域に関わることはなるべく自分たちで処理していこうではないかと呼びかけているのですね。一般庶民に「自主独立の精神」を()(すい)しているわけです。


 ただし、下々の者がいわれもなく(みだ)りに威張るのは民権とは言わない。一方に政府を立てる以上、上からの圧政を免れるべく下からの権利の伸長を目指すべきであるが、それには、大勢集まってただ無理無法に乱暴を働くのではなく、人民一般の知力を養い育てて、根気よく自分の説を唱え、その「一分」を主張するのでなくてはならない。日本のいまの状態では、政府と一般の人民とではやはり賢愚の違いがあり、政府と民権とを直ちに対等と考えるわけにはいかない。民権論者と呼ばれる人たちは、いますぐ国会を開けというが、それは二つの政府を置くに等しく、白刃を大上段に構えて政府の権の半分をよこせと迫るようなもので、ものにはもう少し順序というものがある。まずは、地方で人民の会議を開き、地域のことは自分たちで議論して決めるような習慣を作るのが先決である。


《地方の小会議中より、それぞれの人物を(えらび)て中央首府の大会議に出席せしめ、はじめて中央と地方との情実も相通じて、国会の便益をも得べきことなり。ゆえに、地方の民会を後にして、中央の国会を先にせんとするは、事の順序を誤る者というべし》



 以上が『通俗民権論』の骨子で、それ以外は、個人個人が民権を確立するための心構えを説いた部分です。


 それにしても、過激な論者の煽動を警戒している様子がうかがえますね。実際、当時の民権運動は、江戸期から連続した一揆・打ちこわしの流れをそのまま受け継いでいましたから、中央政府(国権)の独裁的なやり方とそれ以外の人々の感情的な反応とのあまりのギャップに困惑していた福沢が、民衆に向かってこのように説くのももっともです。


「金のあるなしが一番大切である」


 ただ、この論考で面白いのは、その骨子の部分よりも、福沢の思想がよく出ている「第五章 家産を(おさめ)る事」です。そこで論じられているのは、旧来の道徳主義・清貧主義に対する批判です。


 社会のために事をなそうと思ったら、何よりも大事なのは信用である。信用は、品行、年齢、家柄、身分などによっても得られるが、通俗世界では金のあるなしが一番大切である。誰もぼろを着て朝夕の食事にも困っている人に金を貸さない。仮にも何かをなそうとして信用を得ようと思うなら、財産経営の道を蔑視すべきではない。それだけではなく財産は人の智徳を発揚してそれを実行に移すための方便なのである。財産を蔑視し清貧を尊ぶ風潮は元はと言えば士族から来て下々にまで蔓延したものである。しかし事実としては金銀の力は絶大で、人事の成功失敗は十中八九はこれにかかっている。財産を蔑視すると、重要な場面で世間から無視され、そのため世を恨むこととなり、時には鬱憤を晴らそうとして反社会的な行動に走ったりすることもある。


《その本源を(たずぬ)れば、有志の士民が財を軽んずるの風に(あざむ)かれて人事の実情を知らず、産を(やぶり)て家を(おさ)めざるの罪なり》



 これは世間知として当たり前の事実ですが、堂々とこういうことを言う人は現在でも意外と少ないものです。「()()は着てても心は錦」「愛はお金では買えない」「コンクリートから人へ」──こうした考えに囚われている日本人はじつに多く、ホリエモン(堀江貴文氏)のような人が現われると、すぐ拝金主義だなどと言って非難します。小は私的生活に関わる態度から大は国家財政まで、こういう観念に支配されると、結局は自分で自分の首を絞める結果になります。


 どこに間違いがあるのでしょうか。たしかに心の美しさは何ものにも代えがたいですし、愛情とお金とは別物です。しかしおよそどんな物事でも、形に表さなければ相手に伝わりません。そんなに高額でなくても、心を込めて彼女にプレゼントを贈れば、その「行為」のうちに彼女はこちらの思いを読んでくれるでしょう。また、現在の財務省のように、緊縮財政の観念に取りつかれて、歳入と歳出の帳尻を合わせることに汲々とするばかりで、政府として打つべき手を打たないと、結果的に国民を苦しめることになります。


 清貧や倹約の思想は、福沢が指摘するとおり、じつに江戸時代の徳治主義がまき散らした悪弊で、経済の仕組みがわかっていなかった頃の遺物なのです(いまでもわかっていない学者や政治家が多くて困るのですが)。


 清貧や倹約は、他に道がないから仕方なくそうするので、別に美徳ではありません。誰でも経済的余裕さえあれば、そこそこ豪勢な暮らしをしたいに決まっています。また資本主義を認めるかぎりは、バランスある経済成長を維持していくべきなのは理の当然です。


 この間違いは、哲学的に言えば、まったく質の違った物事を二つ対等の関係において、両者の価値を比較選択するという思考法から来ています。つまり物質的な物事の運動と、精神的な物事の運動とを、同じテーブルの上に置いて、どちらが大切かを考えろという、論理的には意味のない操作をやっているわけです。こういう誤操作は至る所に見られますが、なぜそうなるのかと言えば、それは、無形の物事も実体であるかのようにみなしてしまう、言葉というものの本質的な特性にだまされているからです。

「襤褸は着てても心は錦」なのではなく「衣食足りて礼節を知る」なのであり、「愛はお金では買えない」のではなく「お金で愛を示すこともできる」なのであり、「コンクリートから人へ」なのではなく「まずはコンクリートを整えてこそ人らしい生活ができる」なのです。


「授業料」の誕生


 福沢は、こういうことが直観的にわかっている(たくま)しい庶民性を身につけた人でした。


 彼が慶應義塾を始めた時のことです。それまでの師弟関係では、教えることに対して決まった代価を支払うという決まりはなく、盆暮れなどに「(そく)(しゆう)」といって、生徒の側から自発的になにがしかのものを師匠のもとに届けるという形をとっていました。師が金のことなどに関心を持つのは、はしたないという考えが一般的だったのです。


 しかし福沢は、「これからの時代、知識は大切な財産だ。知識を授けるのは、モノを売るのと同じだ。かまうことはないから金額を決めて収めてもらうことにしよう」と側近に言ったそうです。


 こうして彼の口から日本で初めて「授業料」という言葉が生まれました。


 筆者は、いろいろな意味で、この事実を快挙とみなす者です。つい少し前までは、モノを売ること、つまり商いにさえ、軽蔑の目が注がれていました。ましてやサービスという無形のものに対価を支払うなどは道徳的に正当なものと認められていなかったのです。


 商人にありがちな、腰を曲げ、手もみし、にやけ笑いで顧客にすり寄るような卑屈な態度は、この道徳的通念によって培われたものでしょう。実際の商業や流通業の発展がそんな古い考えを吹き飛ばしてしまったのですが、福沢はその流れをもう一歩進めて、自ら、知的労働にも正当な対価をという、今日なら当然の考え方の(こう)()を示したわけです。


 また、「教えを伝授する」ということにそれまで伴っていた、一種の聖職者的性格を〓奪して、一般的な労働と等価なものとみなすことで、いわれのない権威主義を終わらせました。教育も他の労働と同じサービス業であるという、近代市民社会的な考え方を広めたわけです。


 さらに、「教え」はとかく神秘的な「秘伝」として、閉ざされた人間関係を通してのみ伝授されがちだったそれまでのしきたりを打ち破り、能力さえあれば誰に対しても開かれているという近代教育のモデルを示すことに一役買いました。


 良し悪しは別として、資本主義は、土地、機械、工場、技術、労働力など、質の異なるものをすべて等しく数字に換算できる資本に還元します。福沢のようなドライな考え方は、同時代の人の耳にはたいへん奇抜に聞こえたでしょうが、初期資本主義段階にあった当時の日本で、こうした発想が出てくるのは後から見れば当然のことだったと言えましょう。


民権と国権とは正しく両立して分離すべからず

「内国にありて民権を主張するは、外国に対して国権を張らんがためなり。(中略)民権と国権とは正しく両立して分離すべからず」(『通俗国権論』緒言)


 この考えがあったので、福沢は、『通俗民権論』を書き終えてからしばらく発行を控え、『通俗国権論』の脱稿を待って両者を同時発行しました。前に述べたように、『通俗国権論』およびそれに続く『通俗国権論二編』の論旨は、もちろん対外的に「国家主権」を確立することの必要を強調する点にあって、国内的な国家権力の強大化を主張する点にはありません。右の一句でもそれは明らかだと思います。

『通俗国権論』と『通俗国権論二編』は、かつてのナイーブな攘夷論を現在の情勢に合わせてより洗練させた再編成版と言っても過言ではなく、随所に好戦的とも見まがう文言が散見されます。たとえば、


《これを要するに、わが日本の外国交際法は、最後に(うつたう)る所を戦争と定め、戦えば頑固剛情にして容易に兵を解かず、幾月も幾年も持続して、双方(かん)(なん)()うるの度を競うの一法あるのみ》



 これは日米修好通商条約締結以来二十年経って、たるみがちな日本人の士気を振起しようと思ってのことなのでしょうが、ただ、次のような決め台詞(ぜりふ)があります。


《右のごとく()(はい)は外戦の論を主張すといえども、外交無事の時に際して、今月今日戦を挑むというにあらず。(中略)余輩の主義とする所は、戦を主張して戦を好まず戦を好まずして戦を忘れざるのみ》(傍点は引用者)



 また先の引用の後続部分には、はっきりとこう書かれています。


《かくのごとく覚悟を(さだむ)れば、また容易に戦争にも及ばざるものなり》



 つまり、あえてこちらから戦争を仕掛けるのではないけれども、万一の場合の備えをたえず怠るなと戒めを説いているのです。実際に戦争をけしかけているのではなく、列強に舐められないための抑止力の重要性、軍事力の背景なき外交の無力を強調したのでした。


 和親条約とか万国公法とか言っても、それは外面だけのことで、その実、列強は自分の利害のために隙あらば侵略してやろうと()()(たん)(たん)と狙っている──福沢はこのように語って、国民の目を国際社会の修羅の現実へと向けさせようとしているのです。これは北朝鮮のようなテロ国家、中国の露骨な覇権主義に直面していながら平和ボケしている今日の日本においてこそ、私たちが学ぶべき訓戒です。また、第二章で扱った横井小楠の危機意識のもち方にたいへん近いと言えるでしょう。


国民の幸福増進に役立つなら「宗教も方便」


 さらにこの二つの論考には、やはり福沢らしさが次の二点によく表れています。一つは、宗教に対する言及にかなりの紙数を割いていること、二つ目には、論の重点が単なる軍事的な「強兵」に置かれているだけではなく、もっと日常生活の多方面にわたって、外国の進出の力をよく知るべきことを強調している点です。


 第一の問題については、右に挙げた日本人の士気を鼓吹することにかかわっています。日本人の中には、西洋には()()教(キリスト教)があってそのために天道(正義)が行なわれ、完全無欠な道徳世界が実現しているかのような幻想を抱き、逆に日本の悪い点ばかりをほじくり出して、それはこうした宗教がないからだといった「自虐史観」を(ふい)(ちよう)する向きがある。しかし福沢は、日本人の宗教に対する淡泊さは、何ら道徳性や士気の低さを証明するものではないという、かなり突っ込んだ「比較文明論」を展開します。これはいまでも通用する水準を具えています。


 それによれば、まず日本の士人は何教も信仰していないが、みな品行が正しい。亡き友の追善供養やお墓参り、親族の法要を欠かさず、近親者が死んだ折には手厚く葬ることを当然のことと考えている。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:51718文字/本文:60903文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次