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「情の力」で勝つ日本
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ミステリ小説
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第一章 「情の力」の神髄 ──日本人と西洋人の考え方は何が違うのか

『「情の力」で勝つ日本』
[著]日下公人 [発行]PHP研究所


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以心伝心と直観力とアナロジーの威力



 日本人の強みは何か。これまで、いろいろな機会を捉えては、そのことについて語ってきた。だが、いの一番を挙げるとするならば、やはり「情」ではなかろうか。


 一昔前の日本人なら、「情」は、ごく当たり前のものだった。「情」がなければ世の中は動くものではないと思っていた。


 なにしろ日本人は、いまから千百年以上も前にできあがった勅撰和歌集である『古今和歌集』の冒頭に、「ひらがな」という、まことにたおやかな文字を駆使して、こんな情感あふれる「序」を書いた民族である。


〈やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ(いだ)せるなり。花に鳴く(うぐいす)、水に住むかはづ(蛙)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、(あめ)(つち)を動かし、目に見えぬ(おに)(がみ)をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、たけき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは歌なり〉(高田祐彦訳注『新版 古今和歌集 現代語訳付き』角川ソフィア文庫)



 折にふれて心にあふれ出た「情」を歌に詠めば、天地を動かし、鬼神をあはれと思わせ、男女の仲を懇ろにし、(どう)(もう)な武士をも慰めるというのだから、すごいものである。


 各々が「情」を働かせて言葉を口にし、それを聞いたほうも、その「情」をきちんと受けとめ、すべてを聞かなくてもきちんと理解した。お互いに思いやり、お互いに「(そん)(たく)」しあって、生きてきた。


 皆までいわずとも以心伝心なのだから、考えてみれば、こんな効率の良いやり方はない。これもすべて、「情」と「信頼」のなせるわざである。


 これは、最近流行りのロジカルシンキング(論理的思考)などよりも、遥かに高度で優秀な手法である。日本が世界のなかで圧倒的に強いのも、まさにこの手法の達人だからである。


 ギリシア人も、自分が考えたことを他人に伝える話し方には二通りあると考えていた。一つは「たとえ話(アナロジー=類推)」で、もう一つが「論理(アナリシス=分析)」である。

「たとえ話(アナロジー=類推)」とは、物事を直観的、総合的に把握して、似た本質を見つけることである。もう一方の「論理(アナリシス=分析)」とは、「物事をいくつかの要素に分けて、組み立てること」である。


 アカデミズムに代表される西洋の知的伝統のなかでは、もっぱらアナリシスが重んじられることになった。デカルトが教会に対抗するために、理屈を積み上げて得られたことだけを研究しようと考えたが、その発想をベースとして学問を発展させてきたからである。


 たしかにそれによって、ヨーロッパ社会はキリスト教会の縛りからは離れることができた。優秀な研究者の直観力が自由に発揮できるようになり(たとえば天動説などに縛られることがなくなり)、西欧の科学は大きく進んだ。しかし、そのせいで、何でもかんでもロジカルシンキングだけで乗り越えようとする気風も生まれてしまったように見える。「論理が上で、直観が下」と決めつけて、何ごとも論理で分析したがるのは、西洋的なインテリの悪癖であろう。


 一方、日本では、はじめから宗教の縛りがあまりなかったために、直観力とアナロジーが一貫して重んじられてきた。先ほどの『古今和歌集』の仮名序は、それ自身が美しい「たとえ話」である。このような伝統はずっと続いて、しまいには、本居宣長のように、「頭で考えたような(さか)しらを離れて、自然のあり方や心模様を、ありのままに感じとることから生まれた感動や情緒(=もののあはれ)を素直に受容し、生きることが日本の素晴らしさだ」と考えるような思想家まで登場するに至る。


 こう語ると、日本のアナロジーはさぞかし高尚なもののように映るが、何もアナロジーはそんなものばかりではない。たとえば中小企業の社長のところに社員があわてて飛び込んで来て、「たいへんです、お得意先から、うちの方針に不信感を持っているといわれてしまいました」と汗をかきながら報告したとする。「情」の豊かな社長であれば、こんな風にいうだろう。

「そう指摘してくれているうちが花で、ありがたいことだ。夫婦ゲンカみたいなもので、しっかりと不信感を解いて、以前よりもっと仲良くなることが大切なんだ」


 日本人で少し気の利いた人は、しばしば、このように比喩やたとえ話で説明し、説得をしてきたものであった。そのほうが手っ取り早く、コミュニケーションが進むからである。いちいち言葉で説明するのは非効率だし、言葉尻を捕らえて、かえって余計な揉めごとのもとにもなりかねない。


 日本人には心と心で通いあう境地がある。そもそも日本は、昔から知と情の二本立て、「(から)(ごころ)」と「やまと心」が並び立つ国であった。日本人は千年以上も昔から、和歌と漢文を併せて学んできたが、片方が高級で片方が低級ということはなかった。どちらも立派な文化として(たしな)まれてきた。菅原道真などは、漢文も和歌もできたから、学問の神様と称されるようになったのである。


 さらにいえば、日本は長い期間にわたって民族が固定しており、いわばメンバー固定制だった。民族大移動を経験しているヨーロッパはじめ世界の他の地域と比べて、「以心伝心」が成立しやすい環境だったといえる。メンバーが流動的な社会の場合、「以心伝心」では伝わりにくいどころか騙されてしまうリスクも高くなるが、メンバーが固定している社会では、あとあとのことも考えるとそうそう悪いこともできない。この日本の特質が、「情」でわかりあう素地を形成してきたことも大きかった。


 このように日本人は、歴史的な風土環境にも恵まれ、伝統的に知と心の両方を育ててきたので、世の中の機微を敏感に捉えることができた。日本人がたとえ話や比喩を用いるのは、まさに先ほどの『古今和歌集』以来の(うた)の技法である。松尾芭蕉の俳句「(しずか)さや岩にしみ入る〓(せみ)の声」なども、日本人ならすぐに、その機微を「情」で理解できる。なぜ、セミが鳴いているのに「閑さや」なのか。なぜそのセミの声が岩にしみ入るのか。論理や科学的思考で考えてみたところで、労多くして益少なしで、何の感興もわいてこない。しかし、「情」で捉えれば、芭蕉の感動がまっすぐに伝わってきて、自分の心にも響いてくる。


 つまり、日本人は全員が詩人の才能を持っているのである。やまと心を持った日本人とは、言葉でなく心でわかり、詩で表現し、行動で結論を見せる人のことである。


 そのすごさを、いまこそ日本人はしっかりと認識したほうがよい。これぞまさに、日本の強さの根本部分なのだから。


「子供は神の子、仏の子」の素晴らしさ



 では、日本人はなぜ、「情」をよく理解できるのだろうか。


 そこで大きいのは、「子供をいかに情愛をもって育てるか」ということについて、日本人は欧米人とはまったく違っていることである。


 第一次世界大戦が終わったあとに、日本の軍人がヨーロッパにたくさん留学をした。そのときの軍人の自叙伝に、ヨーロッパの家庭を表しているものがある。


 ある軍人が、先に留学していた先輩に「あの家に下宿するつもりです」と伝えたら、「やめておけ、あそこへ下宿すると、毎晩子供の泣き声が響きわたる。親が子供をいじめているんだ。だからあんなところへ行くな」といわれる。「近所の人が何もいわないのですか?」と聞くと、先輩は「それがヨーロッパだ」と語ったという。

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