『「情の力」で勝つ日本』
[著]日下公人
[発行]PHP研究所
「情の力」から生み出される能力とは
前章で、「情の力」そして「直観力」が、「論理的思考(ロジカルシンキング)」を、遥かに上回ることを述べてきた。
論理的な言葉では伝えにくいこと、伝えるのが面倒なことであっても、「情」のコミュニケーションであれば、より的確に、短時間で伝えられる。また、「創造」ということを考えても、自我を超えた「情的」な部分「直観的」な部分が決定的に重要であることを、岡潔さんが教えてくれている。さらに、「情」の人間関係はロジカルな人間関係よりも、ずっと濃密なものになり、お互いの理解のなかで、より深い境地をめざしていける。
本章では、この「情の力」について、さらに詳しく見ていきたい。
はたして、「情の力」から生み出される能力には、どのようなものがあるだろうか。思いつくままに、箇条書き的に列挙するなら、次のようになる。
一、文章の行間、相手の表情やしぐさなどから、直観的に素早く真実の情報を読みとる、高度なリテラシー(情報読解力)
二、様々な「雑情報」(エピソードなど)から、ひらめき的に重要なエッセンスを拾いあげ、汲みとっていく能力
三、多くの人びとが「情」で共感し、共有できる「ストーリー」をつくっていける力
四、情報や事象をキャラクター化し、ピクチャー(絵解き)的に示す力
共通するのは、きわめて高度な情報把握能力と、きわめて高度な情報伝達能力である。前章で、岡潔さんの「日本人は自我が非常に弱い。それで大脳前頭葉にまで外界が伝わりうる。そうすると、情緒になる。情緒というのは、時として、非情に強い印象を与える」という言葉を紹介したが、まさにそのとおり。「情の力」に富んだ日本人は、外界の情報を短時間のうちに、とても深いレベルで理解することができる。そしてさらに、そのような深い情報を、たとえ話や伝説や寓話のような「ストーリー」にしたり、マンガ化やキャラクター化など「絵解き的」にしたりして、的確に伝えることができる。
現代の日本の子供たちが直観的に物事を理解できるのは、マンガやアニメのおかげだ。ピクチャーから読みとり、キャラクターから読みとり、ストーリーから読みとるから、全体的にわかる。前章でも書いたように、かつて「情」「知」「意」の順番で教育をしていた文部省が、戦後はまったく違う教育をするようになってしまったわけだが、日本の子供たちはマンガやアニメを見て「情」を育んでいったのである。
何十年か前までは、日本のマンガやアニメは、日本の子供たちだけのものだった。しかし、日本が世界に出動していき、日本のマンガやアニメは、いまや世界中の子供たちを虜にしている。日本が世界中の子供たちの「情」を育ててあげているといってもよい。
そのような日本のマンガやアニメが、どのように発展し、どのような受け入れ方をされ、どのような影響を与えたか。それを見ていけば、「情の力」がどのようなものかも、自ずと見えてくる。
先の読める映画はおもしろくないから観ない
一つ参考になるのは、日本のマンガやアニメが海外で、どう受け入れられたかを知ることであろう。
イギリスの国教会アングリカン・チャーチといえば、十六世紀、ヘンリー八世の離婚問題をきっかけにローマ・カトリック教会と袂を分かった、イギリスの背骨をなす教会である。そのイギリス国教会が、ポケモン(ポケットモンスター)映画『ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』が二〇〇〇年にイギリスで上映され、大ヒットしたときに、これを教会として推薦すべきか、禁止すべきかについて議論をしたことがあった。
映画のストーリーは、「オリジナル」のポケモンと「コピー」のポケモンの戦いである。「コピー」のポケモンは人間によって造りだされた出自に疑問を持ち、人間への復讐を考えるようになる。「コピー」は「オリジナル」に対しても怒りを覚えていて、「オリジナル」が登場すると、「コピー」と「オリジナル」の熾烈な戦いになる。「オリジナル」のポケモンたちと「コピー」のポケモンたちの戦いを止めようと、人間である主人公があいだに入るが、両方から攻撃を受けて石になってしまう。その主人公の姿を見て、「オリジナル」と「コピー」のポケモンたちは、「俺たちは、もともとは同じなんだから戦いはやめよう」ということになり、滝のような涙を流す。その涙で、石になってしまった主人公がよみがえる。最後は「和解」で終わる日本的なストーリーである。
欧米の子供たちは、感性でこれを受け入れた。ところが、欧米の大人たちは、ストーリーを理解できなかった。
大量の涙は誇張表現として認めることができるとしても、「突然和解するのはおかしい」と思ったそうだ。ケンカをするには理由がある。それなのに、涙を流しただけで突然和解するのは論理的におかしいという指摘が挙がった。涙に和解の力があるのだとしたら、そういうひと言を伏線として入れておくべきだという意見もあった。
だが、一人の牧師が「これは許しの話だ。キリストの教えにある」といったら、みんなが賛成した。そして、推奨すべき映画であるということになって、「ミュウツーの逆襲」は大人にも受け入れられた。
そのあたりから、イギリスでも「日本はクールだ」という風潮が出てきた。「クールジャパン」が市民権を得て、イギリスの大人たちは「子供から日本のことを勉強しています」と人前でいえるようになった。
欧米の大人は、論理で考えようとするから、「涙に和解の力があるのか」「もしそうなら、伏線で示しておかなければ論理的に成り立たない」という、わけのわからない議論になる。
私はこの話を息子にしてみた。「『涙には和解の力がある』という伏線を入れておけ、という意見が出ている」というと、「そんなのは絶対にダメだよ。日本の子供たちはすごく感性が発達しているから、伏線をチラッと入れただけで、『最後はきっと涙を流して和解するんだ』とストーリーを読みとってしまう。先の読める映画はおもしろくないから観ないよ」といわれた。
たしかに、そのとおりだと思う。日本の子供たちは、たくさんマンガやアニメを見て感性が育っているから、ストーリー・リテラシーというものがものすごく発達している。この先のストーリー展開がすぐに読める。下手な伏線を入れたら全部読まれてしまう。大人たちは、そういうことを理解できない。特に、欧米の大人たちは、論理で考えるからまったく理解できないようだ。
『サザエさん』が何十年も続く奥深い社会
日本のアニメ・マンガの場合、伏線は登場人物の顔にある。顔の大写しのシーンが出てくると、それだけで子供たちは、「かわいい」「憎たらしい」「威張っている奴だ」ということを読みとる。子供が読みとれるように、漫画家が描いている。
「泥棒の顔」「意地悪社長の顔」というのは皆、漫画家が発明したものだ。登場人物の顔が大写しになると、あらすじが読める。そこに登場人物の性格を絡めていくと、ストーリーが動きだす。
顔の表情から読みとれないようにしていることもあるが、子供たちはたくさんのアニメ・マンガを見ているから、ものすごくリテラシーが磨かれている。だいたいは子供に見抜かれてしまう。
日本のアニメ・マンガは、素直な感性でつくられてきた。ひねくれたところがまったくない。
しかし、スタジオジブリがつくっているアニメは少し違う。彼らのアニメには、イデオロギーが入っている。「環境問題」などに無理やりつなげようとしているように感じられる。イデオロギーを持ったインテリがつくっているから、素直なアニメにならない。だから、行き詰まってしまって、だんだん作品がつくれなくなった。彼らがつくっているのは、純然たる意味での「日本的なアニメ」とは少し違うと私は感じる。