読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-2
kiji
0
0
1213453
0
「情の力」で勝つ日本
2
0
0
0
0
0
0
ミステリ小説
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第三章 「情」の組織論 ──情でつながった関係性ほど強いものはない

『「情の力」で勝つ日本』
[著]日下公人 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間2分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


アメリカのほうが「本音と建前の社会」


「アメリカの組織は合理的で、日本の組織は村社会的で非合理的である」という月並みな見立てを、頭から信じている日本人がいるらしい。


 たとえば、次のようなことを信じ込んでいる人がいないだろうか。いまやアメリカでも、人種差別は絶対にいけないということになっている。ダイバーシティ(多様性)も日本より遥かに進んでいる。コネや人間関係などよりも、実力の差によって、出世や昇進が決まっていくから、厳しいけれども、より公平だ。非合理的な風習は少なくて、社内のことは合理的な思考法で進んでいく……。


 これらは〓ではないし、アメリカの組織にもそういう面は多々ある。だが、そのような表面的な話を信じすぎると、痛い目に遭う。


 世の中には、「本音」と「建前」がある。それはアメリカも例外ではない。アメリカの場合、表面的な「建前」の部分と、組織の中枢部・奥の院(インナーサークル)の「本音」の部分とでは、まったく別のルールが幅を利かせている。奥の奥の部分についていえば、日本よりアメリカのほうが、よほど「本音と建前の社会」だといってもよい。


 アメリカ社会のあり方を、あえて「大金持ちの大邸宅」を例にして戯画的にたとえてみれば、こんな構図になるだろう。大邸宅で働いている「使用人社会」では、たしかに日本よりも一見合理的で、ダイバーシティが確保されていて、実力が重んじられるかもしれない。だが、それはあくまで「使用人社会」の話である。大邸宅を支えるために働いている「使用人」と、大邸宅に住み、便益を享受し、意思決定に参画している「ファミリー」とは、まったく隔絶している。使用人がファミリーの一員になることなど、あまり考えられない。使用人とファミリーは「交流」はしても、「交わる」ことはない。そして中枢部のファミリーの世界は、あくまで「本音ベース」で動いていく。ただし、「建前」でそれを飾ることは忘れない。


 もちろん、以上はあくまで「たとえ」であって、アメリカ社会がすべてこのような論理で動いているわけではない。しかし、社会の底流にこのような雰囲気があることは、日本人として知っておいたほうがよい。


 誤解のないようにいっておくが、これは、社会の伝統的な慣習なり、建てつけなりが、どういう仕組みになっているかの話である。それが良いか悪いかという以前に、そもそもにおいて日本と欧米とでは、社会の建てつけが違うことを忘れるべきではない。


 階級社会といっても、日本と西洋ではまったく違う。日本の場合、江戸時代になると、武士でも貴族(公家)でも下級の人びとは、庶民と変わらないか、または、より貧しい暮らしをしている人が多かった。現代も保存されている京都の公家の家や、幕末雄藩の下級武士の家を見てみると、田舎の豪農の家のほうが立派だったりする。武士や公家としての誇りや格式は重んじられていたが、しかし庶民とのあいだで、「人種が違う」というほどの意識の差はなかった。心優しい日本人は、人間を「奴隷」としてこき使うような発想を貫徹しなかった。


 ところが西洋では、貴族と庶民はまったく違う世界に生きていた。「農奴」という言葉に象徴されるように、農民は貴族にとって奴隷のような存在であり、「人種が違う」というほどの差異が醸し出されることも、決して稀ではなかった。


 アメリカには貴族はいないし、どちらかといえばヨーロッパからは棄民視されている人たちがつくった国ではある。しかしアメリカで大金持ちになった上流階級は、ヨーロッパの貴族的な気分は濃厚に受け継いでいる。あちらの映画を見ると、そんな気分がベースになっているシーンに、いくつも出会う。シンデレラ・ストーリーが珍重され、憧れの的になりうるのは、それがあくまで「おとぎ話」であって、現実感のない希少な話だからである。明治時代、芸者の優秀な女性たちが国の元勲たちの奥方になった日本とは、状況がまったく違うのである。


 さらにいえば、アメリカは有色人種を「奴隷」としてこき使った伝統を有する国である。奴隷というのは、あえて言葉を選ばずにいえば「家畜的」な存在である。アメリカに来るような白人は、どちらかといえば、ヨーロッパにいたときの先祖は「農奴」的な立場に近い人が多かったが、そうした人たちがアメリカにやってきて、今度は自分たちが有色人種を文字通りの「奴隷」にしたのである。


 では、現代アメリカの「使用人社会」で、平等だの、実力社会だの、ダイバーシティだのといったことが取り入れられているのはなぜかといえば、究極的には使用人の「働き」を最大化するためである。とにかく、最小のコストで最大の働きをしてもらえばいい。しかも、そこは社会に対して開かれた場所であり、あまりにもえげつないことを課していたら、雇い主の社会的な声望が地に墜ちてしまう。まさに「建前」の世界であり、「きれいごと」と「実力主義」の両方が重宝なのである。


 外資系の企業に勤めて、日本法人の代表などに上り詰めた日本人のなかには、「アメリカ人の人種差別的な本音に接した」ことを漏らす人もいる。それは、彼らが立場的には「使用人たちの長」のようなものであるために、企業を牛耳るインナーサークルの人びとと接する機会が多いからであろう。


「使用人をこき使う組織論」を導入した日本企業



 結局、アメリカ型の組織論をそのまま移植するのは、「使用人をこき使うための組織論」をそのまま持ってくるようなものだといえる。日本とアメリカとでは、組織にまつわる風土伝統が異なる以上、結果的にはそういうことにならざるをえない。


 使用人を働かせるためなのだから、とことんドライでもいい。厳しい実力主義でもいい。役に立てばよくて、役立たずはどんどんクビを切ればいい。せっかくITが発達したのだから、使用人同士が情報を共有するのでなく、組織をフラットにして上から下へとダイレクトに情報を伝え、統制すればいい。メールなどでの密告や、たれ込みを暗に奨励して、相互に監視させればいい。


 アメリカ型の組織論を称賛して日本で導入しようという人は、とどのつまり、「日本人を使用人根性に染め上げよう」と考えているのであろう。アメリカで学んだり、アメリカの企業に勤めたりして、使用人根性を身につけた人が、それをほかの日本人に「教えよう」という厚顔ぶりには恐れ入る。しかも、まことにおめでたいことに、それをありがたがって拝聴する日本人も大勢いる。


 だが、そのアメリカでも、組織の中枢を握るインナーサークルのメンバーだけには、「情」の組織論が当然のごとく適用されてきた。「情」の組織論とは、いわば「仲間主義」の組織論である。「使用人」と「インナーサークル」は別立てなのである。


 日本の場合、右肩上がりに成長していた時代は、ある程度大きい組織でも「情」の論理を適用し、何とか家族主義的・仲間主義的な「情」で組織を運営しようとしていた。もちろん、それは「擬制」的な部分も多かったわけだが、しかし、それでも何とか、そういう気風を大事にしようとは考えていた。


 ところが、経済が低調になって、そういう組織運営に無理が生じると、経営サイドとしては、何らかの手を打たなければならなくなった。背に腹は代えられない。組織も整理しなければならない。


 そのこと自体は、企業である以上、当たり前のことである。


 私は一九九四年に『人事破壊』(PHP研究所)という本で、日本の「仲間主義」が危機に瀕している状況を書いた。そして日本の仲間主義が破壊された理由として四つを挙げた。第一には、正社員の採りすぎによって、会社自身がそれを破壊してしまったこと。第二には、若い人が新しいタイプの会社を求めて、日本人の就職意識が変化したこと。第三に、日本企業の国際化で、仲間主義ではない外国企業と競争するようになって、仲間主義の欠点が表面化したこと。第四に、会社の事業がソフト化・サービス化して、仲間主義では対応できなくなったこと、である。


 『人事破壊』では、日本の和の経営も、あくまで戦前は正社員とそうでない社員たち(工員や補助職)との格差があまりに大きかったことなどの時代状況のゆえであることを説明し、「和の経営」は中進国の特徴だと書いた。その考えは、現在も変わっていない。


 『人事破壊』を発刊した十年後の二〇〇五年に、『人事破壊──その後10年そして今から』というタイトルで補筆復刊したが、そこに、日本的経営の特徴として、以下の九つを挙げた。


一、仲間をつくって協力する。

二、勤務評定は仲間の評判で決まる。評定権者は仲間であって必ずしも課長や部長ではない。

三、勤務評定の期間が長い。ボーナスは毎期・毎年の働きで決まるが、そのほかに十年くらいまとめてどんな管理職にするかというポストの配分へ向けての中期勤務評定がある。それから役員にするかどうかの長期勤務評定もある。

四、報酬はおカネだけではなく、名誉もある。それからやり甲斐がある仕事にまわしてくれるかどうかというのもある。

五、多くの社員がめざしたのは「仲間の中心人物」になることで、そのコースに乗ることが喜びだった。

六、それは仲間の働きが見えるポストだった。たとえば人事部、企画部、秘書室など。

七、そして社長になるが、社長の仕事は会社を太らせることではなく、会社の内部留保を適切に仲間へ配分することだった。老後の処遇を決めるのが仕事である。

八、したがって後輩が再度会社を太らせるために努力しているのには干渉しない。指揮しない──という特徴があった。

九、そして配分が終わったら老害といわれないうちにOB全部をまとめて引退する。



 概ね、日本企業はこういうものであったが、さらにそれから十年以上が経ってみると、また随分と様変わりしている。たとえば、アメリカのようにROE(株主資本利益率)を上げなければいけない、などとますますいわれるようになったのをいいことに、いま挙げた項目のうち七番、八番、九番は大いに(ないがし)ろにされることになった。そうすると当然、社員の忠誠心は大いに下落する。また、仲間主義的な気風も、大いに変貌を遂げている。


 もちろん、行き過ぎの仲間主義の罪もあった。だが、日本の会社が仲間主義を放棄していくのも心配であった。


 そこで私は日本の会社が採るべき道が二つあると思った。一つは正社員としての採用を絞る方法。もう一つはことさらな仲間意識はなくても仕事が進むような会社をつくることである。会社の中心部には仲間として小さいグループで結束した正社員たちがおり、その周辺には高給高能力の専門家集団がいて、さらにその周辺にルーティンワークをしてくれる低給料のグループがいる構造になるだろうとも書いた。この方向性は、いまも大きく変える必要はないと思っている。


「情」と「考え」が足りないからうまくいかない



 日本企業の組織のあり方を変えなければならなくなったとき、あまりにも愚かだったのは、アメリカ型の組織論を称揚する人びとをもてはやしたことであった。日本の経営者や人事担当者たちからすれば、たしかに、「アメリカでやっている合理的経営」などといえば、もっともらしいし、自分たちが「リストラ」に手を染めることを正当化できる。しかも、何も考えなくていいから、楽だったのであろう。


 だが、アメリカはそもそも奴隷をこき使っていたような国である。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:25953文字/本文:30593文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次