読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-2
kiji
0
0
1214244
0
ほんとうは教えたくない京都の路地裏
2
0
0
0
0
0
0
旅行
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第四章 寺社町を歩く

『ほんとうは教えたくない京都の路地裏』
[著]辰巳琢郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:38分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


松原通

(大和大路~東山) 



 松原通は東大路通(京都では東山通とも呼ばれる)を越えると、(きよ)(みず)(ざか)と名を変え、清水寺への参道として大勢の参詣客で溢れ返ります。しかし、清水寺からの帰りに、東山通の信号を渡って松原通まで散策する人は少ないのではないでしょうか。


 平安京の五条大路とされるのが現松原通で、近世までは五条松原通と呼ばれていたそうです。当然、鴨川に架かる五条橋も松原通にあったわけで、牛若丸と弁慶が出会ったのは、今の五条大橋ではなく、松原通の橋だったということになります。ちなみに、現在の五条通は元の六条坊門小路。豊臣秀吉が一五八九(天正十七)年に大仏殿(方広寺)の造営にあたって、松原通の五条橋をこちらに移築し、当初は「大仏橋」と称されていましたが、正保年間(一六四四~一六四八)に「五条橋」、六条坊門小路も「五条通」となったといい、松原通の橋は「松原橋」となりました。


 通り名の由来は、松原通烏丸の(にい)(たま)()(じま)神社の松並木が立派だったことからついたという説もありますが、定かではありません。鴨川から東は清水寺の参道として発展したといわれます。しかし、交通が発達した今日は川端通から宮川町通、大和大路通を過ぎて、清水寺まで歩こうとする酔狂な人はいるはずがなく、通りはガランとしていました。そのぶん、散策するには絶好です。


六波羅蜜寺で、教科書にある仏像と出会う



 大和大路から清水寺へ向かって歩き出して、南側に見えるのが(ろく)()()(みつ)()。松原通には面していませんが、西福寺というお寺の角を南に曲がると、「東山開睛館」の隣に、石柱の門と、()の色が鮮やかな本堂(国重要文化財)が出迎えてくれました。空也上人が九六三(応和三)年に創建した西光寺を(こう)()とし、その十四年後の九七七(貞元二)年に六波羅蜜寺に改められたとされます。明治維新までは大堂()(らん)を構え、現在の倍以上の規模だったようです。


 六波羅蜜寺には、平安・鎌倉時代の木造仏像彫刻が“宝庫”といわれるほど多数蔵されており、しかもうれしいことに、それらの仏像が一般公開されています。なかには教科書で目にした仏像もあり、その現物をぜひ見てみたいというのが、松原通散策の目的の一つでした。拝観料を支払って、本堂内の宝物館へ入ってみましょう。


 内部には、国宝の十一面観音立像をはじめ、重文の薬師如来坐像、地蔵菩の坐像と立像、(きっ)(しょう)(てん)(にょ)像、(えん)()大王像などがずらりと安置されています。そのなかでもやはり見とれてしまったのが、空也上人立像。口の中から六体の仏様が出ている、あの有名な像です。どういうお顔で、どういう構造になっているのだろうと興味深くじっくりと眺めました。


 説明には、鎌倉時代の仏師・(うん)(けい)の四男・(こう)(しょう)の作で、両肩から胸に金鼓を提げ、右手に持っているのが撞木、左手に持っているのが鹿の杖とあります。足下は草鞋(わらじ)で、口元から出ている仏様の列は、念仏を唱える口から「()()()()()(ぶつ)」の六体の阿弥陀様が現れたという伝承にもとづくものです。念仏を唱えながら都中を遊行した姿を(ほう)(ふつ)させる像は、思っていたより小さなものでした。


 経巻を手にした平清盛坐像も、やはり写真で見た記憶があります。書物の中でしか目にできなかったものが、こうやって手軽に本物を見られるところが、京都や奈良のすごいところ。いくら優れた写真であっても、立体感、大きさ、迫力、細かな細工などは、やはり本物を前にしてこそ味わえるものです。


町名からうかがえる平家の繁栄の夢の跡



 六波羅蜜寺内の門のすぐ横手に、「此付近 平氏六波羅第 六波羅探題府」と彫られた石碑が建っていました。「大正四年十一月建之 京都市」の文字も読めます。見て、歴史の中から思い出すのは二つ。一つは平氏の六波羅第、もう一つは、鎌倉幕府の六波羅探題です。


 六波羅第とは、「平氏にあらずんば人にあらず」と権勢をほしいままにした平氏一族郎党が、清盛時代に大邸宅を構えた地域一帯の名前です。清盛の邸宅だった泉殿もここ六波羅第にあり、六波羅入道大相国と呼ばれました。ところが、(おご)れるものは久しからずで、一一八三(寿永二)年、平氏が源氏に追われて都落ちする際に焼かれてしまいます。平氏滅亡後、鎌倉幕府は一二二一年の承久の乱を機に、六波羅の北と南に京都守護に代わる出先機関として六波羅探題(当初は六波羅守護、あるいは単に六波羅と称された)を設置。朝廷や西日本の守護大名ににらみを利かせました。しかしこの六波羅探題も一三三三(元弘三)年、足利尊氏の攻撃によって鎌倉幕府とともに消滅することになります。


 源平の栄枯盛衰が交差する場所、それが六波羅という場所だったのでしょう。この石標以外に、平氏六波羅第と鎌倉幕府六波羅探題の跡を示すものはないかと探してみたところ、六波羅蜜寺の南に、「池殿町」「三盛町」「門脇町」という町名を見つけました。池殿町は、平頼盛邸が通称「池殿」と呼ばれたことから、三盛町は、平清盛・頼盛・教盛の三兄弟から、門脇町は、平教盛が門脇宰相と呼ばれたことからそれぞれついたとされます。ほかにも、多門町、北御門町、西御門町の町名が見られ、平氏の六波羅第がここにあったことを物語っていました。


 町名続きで、少し寄り道を。六波羅蜜寺の東を「(ろく)()町」といい、仁丹マーク入りの(ほう)(ろう)製町名表示板にも、それが読めます。清水焼の町だから「轆轤町」という町名だと思っていたら、「(どく)()」から転じたと聞かされびっくりしました。


 六波羅は「六原」とも書き、京都における葬送の地であった(とり)()()の入り口だったところ。今も鳥辺野には大谷本廟や墓地のほか、京都市中央斎場もあります。かつてはこのあたりを掘ると、埋葬された死人の骸骨がたくさん出ることから、「髑髏町」と呼ばれたらしいのです。しかし、それでは町の名としていかがなものかというので、江戸時代に京都所司代だった板倉氏が、似た読みの「轆轤町」に変更させるという粋なはからいをしたのでした。


 地名・町名は、その場所の過去の歴史を知るうえで非常に重要なものです。町村の合併や行政区画の調整などで、昔ながらの地名・町名が変えられてしまうことがありますが、その地域の歴史まで消されるようで、残念でなりません。何とか受け継いでいってほしいと願っています。


六道の辻で六道珍皇寺にお参りする



 元の松原通へ戻ってきたところに、「京名物 (ゆう)(れい)()(そだて)(あめ)」というおどろおどろしい看板の店があります。幽霊子育飴のほかに宇治茶も売っている「みなとや幽霊子育飴本舗」という店で、店の人に話をお聞きすると、「幽霊子育飴」の由来はこういうことです。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:15961文字/本文:18844文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次