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ほんとうは教えたくない京都の路地裏
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第五章 歴史を歩く

『ほんとうは教えたくない京都の路地裏』
[著]辰巳琢郎 [発行]PHP研究所


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木屋町通

(二条~四条) 



 (すみの)(くら)(りょう)()が開削した高瀬川の終始発点である、木屋町通と二条通の交差点へやってきました。東のほうには鴨川に架かる二条大橋の欄干が見え、手前の北側にはザ・リッツ・カールトンホテル京都が建っています。


 木屋町通は平安京造営時からあった通りではなく、江戸初期の一六一一(慶長十六)年、角倉了以による高瀬川開削に伴って開通したものです。当時、商都・大阪(大坂)と都である京都との間は、伏見や()()までは(よど)(かわ)の船運で、そこからは陸路で物資が運ばれていました。嵯峨の豪商だった了以は、水運の開発を目指し、七万五千両もの私財をはたいて息子の素庵とともに開通させたのが、高瀬川です。これによって、一部鴨川を利用しつつ、伏見から京都市内の木屋町通二条までが水運で結ばれ、すなわち大阪とも直結したのでした。


 高瀬川とともにできた木屋町通沿いには、特に材木などを商う店が多かったことから、当初は樵木町、後に木屋町と称するようになったそうです。


 そういえば、高瀬川の西岸、三条通の一筋南に「酢屋」という坂本龍馬ゆかりの材木屋があります。新選組に捕縛され、池田屋事件の発端になった長州派の(ふる)(たか)(しゅん)()(ろう)が偽装していた商売も(しん)(たん)商でした。いずれにしろ、木屋町通は高瀬川の水運とともに発展し、人間を相手に、旅籠や貸し席などができ、「遊宴娯楽の場」(京都坊日誌)へと変わっていきました。今も木屋町通に旅館があるのはその名残といえます。


 一八九五(明治二十八)年に、日本初の商業電車となる京都電気鉄道の路線の一つとして、京都駅─木屋町二条間の木屋町線が開通。その軌道を敷くために、道路が現在の広さに拡幅されました。高瀬川ぞいには柳とともに桜の木が植えられており、最近はライトアップされ、隠れた桜の名所としても知られています。また、高瀬川には夏に蛍が舞うこともあるようです。


一之船入で中華を食する



 木屋町二条付近には、高瀬川の西岸に角倉家本家、木屋町通の東に別邸が建っていました。角倉家当主は江戸時代末まで高瀬川の管理を任され、一回利用するつど船賃の一部を得ていたのですが、明治維新後、京都府へ管理権が移り、現在は本家跡が日本銀行京都支店に、別邸が、がんこフードサービスのお屋敷店「がんこ 高瀬川二条苑」になっています。小堀遠州が作庭し、明治に入って七代目()(がわ)()()()が改修した庭も見ものらしいので、一度行きたいものです。


 高瀬川の水は、みそそぎ川からがんこの庭を通って引かれています。川沿いに橋から五~六メートルほど南へ行くと取水口があり、料亭のほうへ流れ込んでいるのを見ることができます。その流路の出口のところに今も残るのが、「(いち)()(ふな)(いり)」と呼ばれる船留まりです。

「船入」とは、高瀬川を運行する船が荷揚げをするための係留場所で、伏見と木屋町二条の間に一から九までの九つの船入があったといいます。電車の開通によって水運が衰退し、一九二〇(大正九)年に船の運搬が廃止されたのに伴い、一之船入以外の八つはすべて埋め戻されました。船入の昔の姿をとどめるのは唯一「一之船入」だけで、往時を知る貴重な遺跡です。


 一之船入と呼ばれた水路は、日本銀行京都支店と(おし)(こう)()通との狭間に、高瀬川から西へ逆T字形に延びています。その出入り口のところには、復元された高瀬舟が展示されていました。


 高瀬舟は、水量の少ない高瀬川を行き来するために使われた、底が平たくて浅く、()(さき)のせり上がった船です。森鴎外の小説『高瀬舟』にも、京都町奉行配下の同心が、島送りになる罪人を高瀬舟に乗せて夜の高瀬川を下る話が描かれています。しかし目の前の流れは浅く、緩やかで、ほんの百年足らず前まで、人や荷物を積んだ船が往来していたのが信じられないくらいです。



 木屋町通と押小路通側には、食べ物屋が何軒も店を構えています。木屋町通の料理屋は鴨川を眺めながら、押小路通の料理屋は一之船入を眺めつつ、食事などを楽しめるため、僕のお気に入りの店もあります。その一軒が、ズバリ「一之船入」という店名の中華料理屋。京風のあっさりした味付けのレベルの高い料理は関西でもトップクラス。木屋町通では「割烹 やました」のカウンターがおすすめです。


 押小路通の南側の(こう)(せい)(いん)は、明治時代の建設業者で、旧摩藩士の伊集院兼常が建てたもので、現在は臨済宗の寺院です。京都市によって建物が文化財、庭園が名勝に指定されており、特別拝観のときに見学することができます。


夏目漱石のぼやき



 木屋町通から御池通の南側を曲がった御池大橋の手前に、明治の文豪・夏目漱石の句碑があるのを知っている人は少ないと思います。自然石に刻まれた句には、こうあります。


  木屋町に 宿をとりて


     川向の 御多佳さんに


       「春の川を隔てゝ 男女哉」


 御多佳さん……、どこかで聞いた名前ですね。そうです。切通しの項で紹介した園白川のお茶屋「大友」の女将です。「大友」には、谷崎潤一郎、吉井勇らとともに、夏目漱石も訪れていました。「川向(こう)」とは、園白川のことです。


 夏目漱石が、木屋町通と御池通の角にかつてあった旅館「北大嘉」に泊まっていたときに、宿からお多佳さんを思って詠んだのが前記の句でした。


 一九一五(大正四)年、上洛して「北大嘉」に宿泊した漱石は、お多佳さんを誘って北野の天神さんへ行く約束をします。というか、約束したと思ったのは漱石だけで、お多佳さんはそうは思っていなかったらしく、その日に、彼女はほかの客と宇治へ出かけてしまいました。


 激怒した漱石は、「無責任なことすると、決して、いいむくいは来ない」とか、「うそを吐くと、今度、京都へ行った時もうつきあわない」などと激しい文面の手紙をお多佳さんに宛てて送っています。お多佳さんは、誘われて「へえ、おおきに」ぐらいはいったかもしれませんが、間違えていけないのは、「おおきに」=「イエス」ではないことです。むしろ、「おおきに」だけで終わったら、「ノー」の意味合いが強いでしょう。「当日はあいにく用事が……」などとはっきり断って、お客を傷つけたり、その場が気まずい雰囲気にならないよう、「おおきに」とやんわり拒否しているわけです。ですから地元のお客なら普通、「ダメなんだな」と察して、なおもしつこく誘うことはしません。


 そこらあたりのニュアンスの判別が京都弁の難しいところで、このときも漱石の誤解だったらしいといわれます。さすがの明治の大文豪も、園の女将には勝てなかったということでしょうか。お多佳さんにふられたのがこたえたのかどうかはわかりませんが、漱石が()(かい)(よう)で亡くなるのはこの翌年です。

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