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「軍師」の研究 将を支え、組織を活かす
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歴史
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大義の幻想に殉じた鬼謀の人 楠木正成

『「軍師」の研究 将を支え、組織を活かす』
[著]百瀬明治 [発行]PHP研究所


読了目安時間:32分
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日本の諸葛孔明


 元弘元年(一三三一)から建武三年(延元元・一三三六)にかけての六年間は、わが国の史上でも()()の激動期であった。


 そのひきがねとなったのは、後醍醐天皇が辛抱強く進めてきた、鎌倉幕府打倒計画である。その計画は、元弘元年四月になって幕府の知るところとなり、幕府の弾圧の手が朝廷に伸びる。近臣の相つぐ逮捕、処分に身の危険を感じた天皇は、同年八月夜陰にまぎれて京都を脱し、天険(かさ)()山に拠って、公然と討幕の兵をあげた。いわゆる元弘の乱の開幕である。


 だが、笠置の天皇軍は、予想以上の善戦をしたものの、鎌倉から派遣された幕府軍に攻めたてられ、一カ月足らずで敗北を余儀なくされた。天皇は、わずかな供の者に守られて河内方面へ脱出しようとしたが、その途中で幕府方に捕らえられ、翌二年三月隠岐島への(はい)()となる。


 天皇の挙兵はいかにも無茶なものであったから、これで一件落着かと幕府も世間も思ったが、そうは問屋がおろさなかった。折しも、幕府の悪政に対する不満が高まっている時期だったので、天皇の挙兵に刺激され、各地の武士・土豪が、にわかに反幕の方向へ動き出したからである。


 そうこうするうちに、元弘三年(うるう)二月、天皇が配所の隠岐島を脱出し、伯耆(ほうき)の豪族()()(なが)(とし)に迎えられて(せん)(じよう)(さん)(あん)(ざい)所を営み、諸国の武士に討幕の(りん)()を発し始めた。これに応じたのが足利尊氏や新田義貞であり、同年五月尊氏は京都の六波羅探題を攻め破り、それから十数日後義貞も鎌倉に攻め入って、北条高時ら幕府首脳陣を敗死に追いやった。鎌倉幕府は、ここに滅亡する。


 翌六月、京都に凱旋した後醍醐天皇は、念願の親政を開始し、いうところの建武新政府が発足した。


 しかし、天皇の施政は独断と時代錯誤に偏し、主として武士層の間に、たちまち建武新政府への失望が噴出し始めた。その情勢を敏感に察知し、自身の野望達成──つまりは鎌倉幕府の後継者となるために新政府の不人気を利したのが、足利尊氏であった。建武二年(一三三五)八月、尊氏は北条遺臣の叛乱((なか)(せん)(だい)の乱)を鎮圧するという名目で、勅許を得ずに京都を離れ、鎌倉に本拠を構えて、建武新政府に対決する姿勢を明らかにした。


 これに対し、新政府は新田義貞を主将に任じて尊氏を討伐させようとしたが、尊氏は逆に追討軍を撃破し、西上して京都に攻め入った。しかし、尊氏軍は一敗地にまみれ、遠く九州まで敗走する。


 だが、建武三年四月、捲土重来を期して尊氏軍が京都に攻め上ると、新政府軍はもはやその攻撃を支えることができなかった。比叡山に避難した後醍醐天皇に代わり、京都を支配した尊氏は、同年八月()(みよう)(いん)(とう)の光明天皇の(せん)()を実現させるとともに、十一月「建武式目」を制定、ここに事実上足利(室町)幕府が成立をみる。


 すなわち、元弘元年からここまで、わずか六年の間に、鎌倉幕府─建武新政府─室町幕府と、中央政権が三度も変転したわけである。そしてこの六年という短い歳月が、そのまま楠木正成の活躍の期間でもあった。正成は、元弘元年に忽然と史上に姿を現わし、中国の孔明と並び称される鬼謀の数々を発揮したのち、敗死という形で、六年目に再び歴史から姿を消してしまうのである。


今もわからぬ正成の出自


 楠木正成は、太平洋戦争でわが国が敗北するまで忠君愛国のシンボル視され、知らぬ者のない国民的人気者であった。それだけに、その出自をめぐってさまざまな研究が加えられたが、今もってはっきりした結論は出されていない。ある学者は鎌倉幕府の御家人だったといい、ある学者は(さん)(じよ)の長者説を唱え、またある学者は当時横行した「悪党」ではなかったかと説くが、いずれにせよ、今のところ最も穏当なのは、河内国の交通の要衝を抑えて周辺に勢力を広げつつあった土豪、という見方であろう。

太平記』における正成の登場は、まことに劇的である。


 笠置山によって討幕の兵をあげた後醍醐天皇は、ある日とろとろとまどろむうちに、不思議な夢をみた。所は()(しん)殿(でん)の庭前と思えるあたりに、枝を南方に茂らせた一本の常盤(ときわ)()が立ち、その下に太政大臣以下の百官がずらりと居並んでいる。その光景を(いぶか)しく思い、天皇がふと視線を常盤木の根かたに移すと、そこには南に向けて畳を高く敷いた御座があり、座っている人影は見えない。はて、誰のために設けた座席なのだろうと、天皇が歩み寄りかけると、みずらを結った二人の童子が現われ、涙ながらにこう言った。

一天下のうちに陛下の(おん)()を置きたてまつる場所もございませんが、ただあの木陰の席は陛下の(おん)(ため)に設けたものでございますから、しばらくあの玉座にいらっして下さい」


 童子は語り終わると天の高みに昇り去り、それからほどなく天皇も夢からさめた。


 天が与えてくれた啓示ではないのか──目覚めた瞬間、天皇は瞬間的にそう悟り、夢の内容に思いをめぐらす。大きな常盤木が繁茂していた。その南面に、自分のための玉座が用意されてあった。木の南……そうだ、楠という名の力強い味方がどこかにいることを、あの夢は知らせてくれようとしたのではないだろうか。


 夜が明けると、天皇は笠置寺の僧(じよう)(じゆ)房を召し、さっそく尋ねてみた。

このあたりに、楠という武士はおらぬか」

近くにはおりませぬが、河内国の金剛山の西に、弓矢を取って名を得た楠()(もん)(ひよう)()正成なる武士がいると聞き及んでおります」


 さては、その者こそ夢の告げの人物よ、すぐ召せ──こういう“神秘的”な経緯(いきさつ)があって、正成は初めて歴史の前面に躍り出ることになったのだ、と『太平記』は語っている。

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