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少年皇族の見た戦争 宮家に生まれ一市民として生きた我が生涯
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ルポ・エッセイ
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第二章 戦争と皇族──私の海軍生活

『少年皇族の見た戦争 宮家に生まれ一市民として生きた我が生涯』
[著]久邇邦昭 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間28分
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皇族の男子は軍人にならねばならなかった



 最初に述べたように明治になってから法親王を還俗させたりして皇族家をふやしたわけだが、これらの皇族に政治へ口出しをされては困るというわけで、男子は原則として陸軍か海軍どちらかの軍人にならねばならぬとされた。無難と思われたのであろう。


 これは規則を制定してというのではなく、何となくそれがよろしかろうとなったのであろう。別に調べたわけではないが。


 ここで原則としてと書いたが、長男は義務とされ、軍人になることを拒否すれば廃嫡になるときいていた。


 実際には拒否した長男はいなかったので本当に拒否したらどうなったのかわからないが、次男以下では私の知る限り二人実在する(山階宮の第二男子山階侯爵は鳥類学者に、また私の叔父・東伏見()(ごう)氏〈第三男子〉は東伏見宮の祭祀を継いで東伏見伯爵となり、京都大学史学部講師から僧職に、青〓院門跡となる〈文学博士〉)。


戦争反対に努力された皇族たち



 皇族が政治に口出しするのを防ぐために軍人にしたとのことであるが、実際には、(こと)に陸軍が政治に(よう)(かい)して、満洲事変後、日本を一時滅亡の瀬戸際まで持って行ったことを思えば、(ちよ)(つと)何ともいえぬ考えだと言わざるを得ない。つまり皇族が軍人になろうが、政治に口出ししようと思えば出来たわけで、(むし)ろ軍人となった皇族が影響力を発揮して軍の暴走を押し止め、昭和天皇に協力して歴史を平和共存の方向に向ける努力をしたらどんなによかったことか。戦争反対で努力した方もおられた(高松宮など──私の父も戦争の前途には悲観的だったようだが)としても、あの情勢では力及ばずであったか。


 たとえば高松宮は、昭和九年一月十七日、海軍の末次信正中将の時局論が海外で物議の種になったことを受けて、日記に次のような言葉を記しておられる。


〈私は戦争を、どうしても、日本のためにも、道徳の上からも進んでやるべしとは思へない。死力をつくしてもさくべきであると信んずる。軍備は軍備であつて、いやしくも勝算明白ならざる戦争をするためのものとは考へない。(中略)金力を競争をするのが、海軍の目的ではない。人心をあやま(ママ)せるのが海軍の目的ではない。海軍部内の統制を目的として、日本の国に開戦を副産物とするがごときことあつてはなんとする。反省すべき時である〉



 また、同昭和十九年九月十六日には、高木惣吉海軍少将に次のように話したとある。


〈一〇三〇高木前教育局長来談(石川信吾少将ガ私ガ和平ノ考ヘヲ話スノデ及川総長辺リガソレニワヅラハサレテヰル、今ハ一億玉砕デ専一ニモツテユクベキナリトノ話。私ハソンナ玉砕ナンテ出来ヌコトヲ云ツテモ駄目ナリ、七生報国ノ生キテ護国ノ任ヲハタス心ガ国民ニナクテハナラヌ。死ヌナンテ生ヤサシイ時ハスデニ通リスギテル。悠久ナ日本ヲ守ルタメニ、和平モ考ヘテヨイ、考ヘネバナラヌ、ソシテ決戦ノ連続ヲヤルベキナリ、話ス)〉


祖父・邦彦王が存命であったなら……



 歴史のイフは意味ないかもしれないが、私の祖父・(くに)(よし)王は、昭和四年に五十六歳で早世(当時としては早世とは言えまいか)、元帥陸軍大将であった。この邦彦王は日露戦争従軍や、米国欧州の長期視察等を通じ世界情勢について精察するところあり、大変な読書家で、大きな図書室には洋書を含めてそれこそ万巻の書物が並び(中には落語全集などいうのもあって、幼い私の愛読書だった)、広い交際を通じて見聞を広めた、私の尊敬、愛着を持つ祖父であるが、その常識ある情勢判断から、この方が生きておられたら陸軍を抑えることが出来たのではないか、という話を数人の元陸軍軍人の方からきいたことがある。


 邦彦王は出発予定時刻の五分前には必ず玄関に置いた椅子に掛けて読書していたとか、正しいと思うことは率直に発言したとか、公私の別に厳しく、軍隊で自分私有の猟銃を銃器庫で修理した士官を直ちに首にした反面、従卒などを慈しんだとか聞く。家に古く勤めていた人たちが異口同音にすばらしい方だったと思い出話をしてくれたが、箱根にあった別荘に夏休み滞在しているとき、毎朝荷馬車で氷を届けに来る氷屋のおじさんも、自分は師団長閣下の従兵をしていたことがあり、やさしい方だった、決して無理を言わない、可愛がっていただいたと繰り返し話してくれた。


 また、関東大震災のとき、逃げまどう人々を「入れてやれ、入れてやれ」と言って庭園に入れさせ、難を逃れさせた、という話をきいた。


 邦彦王は美術に造詣が深く、欧州滞在中も美術館を巡り、また、まだ名の出ない印象派の若手画家の画を買ったりしたが、美術院総裁として美術振興に努力し、若き日の横山大観、川合玉堂、富岡鉄斎等々の画家とも交わり、これらの人はよく家に来て描いていたという。静かで描くのによかったのだろうか。


 また、明治初期の排仏毀釈によって危地に陥った法隆寺が、多くの仏像を皇室に献上していただいた御下賜金で息をついているのを見て、聖徳太子奉讃会を作り、政財界、学界等の人たちの助力を得て援助したり、仏教学徒に奨学金を出したり、仏教学その他の講座を開いたりした。法隆寺は安定し、戦後はお詣りの人もふえて興隆している。奉讃会はその役目を終えたが、法隆寺の益々の御隆昌を祈念している。


 この二つは邦彦王の大きな功績と考える。



箱根の別荘の硫黄泉



 余談だが、別荘のあった箱根の道は、当時は土道で、別荘の近くの道はゴツゴツした石道。ベランダから向かいの大文字焼の山、明星ケ岳を眺めていると、下のほうからガッタンゴトンという音が聞こえてきて荷馬車がみえてくる。前述した氷屋のおじさんの馬車なのだが、山の中の氷室に冬から貯蔵されていた大きな四角い氷を鋸で切ってくれる。もちろん電気冷蔵庫などありはしない。


 この頃の箱根は自動車など滅多に通らない。動植物も豊富で、今はいない仏法僧もいた。これは木の葉(づく)という(みみ)(づく)の一種で、ブッポー、ブッポー、ブッポソと鳴く。これは聴いた人でないと実感がわかないと思うが、実に微妙な、ブッポー、ブッポーときてブッポソのソが(ちよ)(つと)上がる一度きいたら忘れられないような鳴き声だった。巣から落ちた子づくを拾って育てたことがあった。育てて森に返したが眼のグリグリした可愛い奴だった。


 川では(やま)()(はや)はよく釣れたし、石をのけると(さん)(しよう)(うお)が出てきた。今は(カツ)(コウ)の声もきかなくなってしまった。この(ちよ)(つと)後、終戦近くなると(まき)焚のバスがゼイゼイいいながら、ゆっくり登って行く、その音が谷間に届く。そんなことを次々思い出す懐かしい昔だ。




 この別荘は大涌谷の下、(うつ)(そう)とした森の中にあって、冠峰樓と万岳樓という旅館が上下にあった。鳥の声に満ちていた。この万岳樓は今は観光客が多く泊る宿だが、昔の建てかえる前は布団をかついだお百姓さんが農閑期に湯治のために滞在するような、たしか、かや葺だった。当時、大涌谷からひいた硫黄泉も豊富で別荘や旅館も少なかったから、我が家の別荘にも各寝室に温泉風呂があった。今思えばぜいたくな話だが大いにエンジョイした。硫黄泉は今でも大好きだ。


宮中某重大事件のこと



 大正九年、邦彦王の第一王女(私の父の妹だから、私からは叔母にあたる)である香淳皇后の御成婚の時、母方の島津家に色盲の遺伝があるので辞退すべきだとの論議が主として宮内省高官や長州閥政治家の中に起こり、(いわ)(ゆる)宮中某重大事件とやらいわれており、私は調べたこともなく、またその気もないが、実際どういうことだったのだろう。


 宮内省高官の記録が相当にあり、その中に貞明皇后も批判的だったとの記述もあるようで、邦彦王が貞明皇后に書状を差し出したのが怪しからぬとあるようだが、皇族が自分の考えを皇后に差し出すのが怪しからぬことだろうか。


 私も今上陛下がお若い皇太子の時、昭和三十年代に駐在したロンドンからお手紙したことがあり、時候の挨拶と現地の様子など書いたのだが、皇族が皇后に手紙を書くのはおかしなことではないと思う。


 宮内省高官あたりが気にするのは常であろうし、内容が問題というかもしれない。しかし、何を書いてもよいではないか。明治以降、政治に口出しさせぬために皇族は軍人にしたというのと通ずるように思うが、要は、天皇以下皇族全体が物事を処するに当たって常識をもって正しい判断をすることが大切ということであろう。それを、わざわざ禁じる、とするのであれば、その理由は何であろうか。


 祖父が御辞退しなかったということはそれなりの考えがあったわけで、こちら側には記録がほとんどなくて、どう考えるか難しいのだが、トータルを厳正に公平に判断するよりないのであろう。実際、今上陛下以下に色盲は出ていないと了解している。


 邦彦王は有能なので、社会や組織、また国の権力機構の裏にある深い問題点を洞察する力を持っていた。そして場合によっては、それに対処するために動き得る胆力を持っていた。これを故意に無視して(おとし)め、まことしやかに批判する人々が当時から今に続き、いまだに書物として現れるのには驚かされる。


 この批判の中に伏見宮(さだ)(なる)親王の(さち)()女王が大正天皇とおきまりであったのを胸が悪いとかの理由で(裏に何があったかわからないが)辞退させられたのにという記述があるが、この方は山内侯爵家に御降嫁になり、私もお目にかかったが、その御長子とは同じロータリークラブなどで親しくさせていただいた。また、その跡取息子さんとはやはり同じロータリークラブで毎週のように会うが壮健そのものの方である。どうして禎子女王がだめだったのか不思議に思う。


 翻って、邦彦王が辞退の要求(圧力)に従わなかったからといって第三者がバッシングしなくてはならないほど、それほど誰かの考えで(あるいは誰かの権力で)「辞退させる」ことは、道徳性をもった麗しいことなのか? 


 むしろ、何ひとつ正当な理由なく引きずり下されることを、尊厳を破壊されることを、人の道として拒んだだけの人物を第三者がここまであの手この手で批判し、貶めてみせる背景には、いったいどんな心理が、利害が隠れているのだろうと首をかしげざるを得ない。楽しいのだろうか?



 実際には、貞明皇后と香淳皇后とは大変お仲がよかったようである。お二人きりで葉山御用邸で過ごされた時の香淳皇后のお日記が家にあるが、その文面からもそれを伺うことが出来る。貞明皇后は英明でいらっしゃっただけになかなか厳しい方だったようだが、香淳皇后は貞明さまの御教示を受けて、あの難しい昭和の時代をよく内助の功を尽くされたと思う。


私の父・朝融王への批判と真実



 続いてしまうが、私の父、(あさ)(あきら)王についても批判的に書かれたものがあるので(ちよ)(つと)私見を聞いてほしい。祖父のことと父のことは、事柄の性質、背景の重大性が全く違い、次元が異なるので、同列に扱うのは少しどうかなとも思わぬでもないのだが、話の流れできいてほしい。


 父は女性関係がだらしなかったということらしい。


 実際のところ、私は父に問いただしたわけではないからよく知らないが、父は無類に人がよくて、美青年であってもてたのであろうが、もてたとなると嬉しくてすぐ人にしゃべってしまうことがよくあったようだ。普通の人は、こうしたことがあっても黙っているのではないだろうか。しゃべるものだから評判になるということはあったのではないか。とにかく父は私にとって憎めない人だった。


 また、酒井伯爵のお嬢さんを好きになって婚約までしたのを断ったということが批判されているが、私が父から聞いたところでは時の事務官が「これこれこういうことをきいたので、ぜひおやめにならなければいけません」といって引かないので、逡巡したのだが、やめたのだということであった。


 のち、このお嬢さんが前田侯爵に嫁がれ、その息子さん(次男の利弘君)は私の幼稚園からの親しい友達である。事務官がなぜ「やめなければいけない」と強く主張したのか、その理由など、とても考えられないことだ。


 利弘君はお母様が亡くなられて整理をしたら、父からのラブレターの束がみつかったと私に笑って話してくれたが、最後まで昔を懐かしく思っておられたのだなと申し訳なく、また、ほっとする思いがしたのであった。父ももっとよく調べたらよかったのにと思うが(当時のこと、事務方の頭が破談を強く主張しているのに、探偵とか弁護士とか外注することが出来たのか否か?)、何か裏にたくらみがあったのかなかったのか。今さら穿(せん)(さく)しても始まらないであろう。


 私の両親は仲よしだった。


 結婚前には父と母でよくテニスをしていた、とも聞いたことがある。八人の子供を次々に作って、父が任地から帰ってくると、今、聖心女子大学になって久邇ハウスと呼ばれている建物の二階で、両親と子供たち皆でレコードを聴いたりしゃべったり、楽しい時を過ごしたものだ。前にも書いたように父はたくさんのレコードを持っていて、しょっちゅう鳴らしており、夕食後には皆がそこに集まって(だん)(らん)することが多かった。




 母は九人目の子供をおなかにして病気で早世したが、その晩母が夢に出て、「お世話になりました。御機嫌よう」と泣いていたと父が話してくれた。その時の父の何ともいえぬ顔、眼の底に焼きついている。


 父も批判されるところもあったかもしれない。しかし子供に優しかった父、また出征を含めて解体まで海軍はきちんと勤め上げた。それを不良……ときめつけるのは如何(いかが)なものか。聖人君子(世の中にそういるものではない)が言うのならともかく。


 要するに、人は他人の悪口を言うのは好き、偏向した意図で、都合のよい文献の都合のよい箇所を集め、長大な参考文献リストなどをのせれば、一見もっともらしくみえる。だが、他人を評価する、よく言うのには二の足をふむ傾向があるとすると、気をつけるべきように思われる。


父に乗せてもらった連合艦隊旗艦・長門



 大分前置が長くなったがそれはそれ、私の海軍との結びつきから思い返してみよう。


 私の父は海軍(終戦時中将)、祖父(邦彦王)は陸軍であったが、陸軍のほうが海軍より大分総人数が多く、皇族でも陸軍のほうが元々遥かに多かった。だが、海軍の皇族が跡継ぎがいない等の理由で減ってきたので、私は小さい頃から海軍に行くようにすすめられていた。


 私としても小さい頃から水兵帽をかぶって父の勤務地横須賀で軍艦にのせてもらったり、一度は横須賀から館山まで戦艦長門の訓練航海に便乗し、「甲板でじっとしていなさい」と言われて大きな航跡を眺めたり、(カモメ)の群に気をとられたり、楽しい思い出だ。父は長門の砲術長だったが、あの四一センチの大きな主砲を父がどうやって動かすのかと不思議だった。この航海が連合艦隊の旗艦としての艦隊訓練航海だったのか、横須賀/館山はその一部だったのか、幼かった私の記憶にはないが。


 太平洋戦争で戦死した音羽侯爵(朝香宮(やす)(ひこ)王の次男で父の従兄弟、当時は少尉か中尉か?)が乗組で色々教えていただいた。音羽正彦さんは元気で明るく茶目っ気があって心優しい方だったらしいが、昭和十九年二月五日、マーシャル群島クエゼリン島玉砕のとき、守備隊隊長次席、海軍大尉で戦死された。本当に惜しい方だった。


 また、音羽侯爵と同期六十二期、私の母方の叔父(伏見宮(ひろ)(やす)王第四男子)伏見博英伯爵は昭和十八年八月二十一日、セレベス島上空で偵察飛行中撃墜され戦死した。身体の大きな叔父さん、膝の上に抱いて話をしてくれた思い出がある。二人のお嬢さんとは時にお会いする。


 尚、父はこの頃、鉄砲屋(砲術)から航空のほうに移って、木更津航空隊、横浜航空隊の後、土浦航空隊司令、霞ヶ浦航空隊で教育に携わった。

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