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「適塾」の研究 なぜ逸材が輩出したのか
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歴史
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第二章 適塾が生んだ人物

『「適塾」の研究 なぜ逸材が輩出したのか』
[著]百瀬明治 [発行]PHP研究所


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大村益次郎──近代軍制の建設者



医学から西洋兵学へ


 大村益次郎は、幕末激動期の前夜ともいうべき文政七年(一八二四)の三月、長州藩領内の周防(すおう)(よし)()()(せん)()村に生まれた。この地は、平安時代に皇朝十二銭などの銅銭を鋳造した、周防(ちゆう)(せん)()の故地である。父は村田孝益といい、村内に開業する医者であった。


 医者といえば恵まれた立場のように誤解されがちだが、そのころの村医者の身分は武士よりかなり下で、まわりに住む農民と本質的に差がなかった。益次郎の幼名は惣太郎、成長してからは村田良庵と名乗り、一時期村田蔵六という変名も用いた。蔵六とは亀の異称で、亀は酒を好むことにちなみ、大酒家の自身をなぞらえたのだという。村田姓を廃し、大村益次郎と称するようになったのは、慶応元年(一八六五)のことである。


 益次郎の幼少時代のことはあまりはっきりしないが、長男だったから家業の医者となる道を歩まされ、医学の手ほどきは父から受けたようだ。ついで、益次郎は十九歳の時、郷里にほど近い(ほう)()の町に出て、蘭方医梅田幽斎の塾に入門した。梅田幽斎は、長州藩蘭学の泰斗青木(しゆう)(すけ)の高弟であり、益次郎が入門したのはむろん、蘭方医学を学ぶためであった。


 益次郎はこの梅田塾で一年間学んだのち、師幽斎の勧めに従って九州に渡り、広瀬淡窓の(かん)()(えん)に遊学する。咸宜園は、当時における儒学の中心的な学塾の一つで、医学と直接の関係はないが、すぐれた蘭方医になるためには儒学に通じるのも必須の課程とみなされていたからである。


 益次郎が適塾の門をたたいたのは、それから三年後の弘化三年(一八四六)のことである。適塾の入門帳にあたる『姓名録』によれば、益次郎は五十二番目の入塾生となっている。このころ、適塾の盛名はようやく四方に高く、志望者すべてを収容しきれないほどであった。

塾中畳一枚を一席として其内に机夜具其他の諸道具を置き(ここ)に起臥することにて(すこぶる)窮屈なり。就中(なかんづく)或は往来筋となり又は壁に面したる席に居れば、夜間人に踏み起され、昼間燭を点して読書するなどの困難あり」(長与専斎『松香私志』)、あるいは「食事のときにはとてもすわって食うなんていうことはできた話ではない。足も踏み立てられぬ板敷だから、皆(うわ)ぞうりをはいて立って食う」(『福翁自伝』)といった混雑ぶりは、この時期あたりから適塾の日常的な光景となったようである。


 益次郎は、そんな環境のもとでたゆみなく勉学につとめ、嘉永二年(一八四九)には成績優秀をもって塾頭にあげられた。ところが、その前後から、益次郎は所期の目的である蘭方医学よりも西洋兵学の研究に熱中しはじめるのである。軍制、砲術、築城……と、適塾所蔵の洋書のうち、益次郎がもっぱら親しむようになったのは、それら西洋兵学に関する書物であった。


 もっとも、それは適塾において必ずしも異とするにはあたらないことではあった。

元来適塾は医学の塾とはいへ、其実蘭書解読の研究所にて、諸生には医師に限らず、兵学家もあり、砲術家もあり、本草家も(せい)()家も(およ)そ当時蘭学を志す程の人は皆此塾に入りて其支度をなすことにて、余が如きは読書解読の事をこそ修めたれ……」(『松香私志』)


 要するに、適塾の学塾としての特色はオランダ語学の教授だったので、塾生のなかには兵学家志望や砲術家志望など医学とは無縁の者もいた、というわけである。それゆえ、益次郎以外にも兵書を研究する塾生は結構いたのだが、ただし彼らは当初からその道を志望して入門したのに対し、益次郎の場合はそうではない。彼の本来の目的は明らかに蘭方医学研鑽だったはずであり、それが中途から西洋兵学へと転じたのである。


「上医は国を()し、その次は人を医す」


 では、益次郎はどうして、医学とは一見縁遠い兵学にのめりこむことになったのであろう。


 その理由としては、兵学という学問が彼の気質に合っていたということに加え、彼一流の時勢認識眼というものをあげるのが適当だと思われる。すなわち、益次郎は梅田塾、咸宜園、適塾と学び歩き、多くの先輩知識人と交わるうちに、これからの時代に最も必要とされるのは医学よりもむしろ西洋兵学だということを、明敏に見抜いたのであった。


 我が国の近海には、十九世紀の末以来、ロシアやイギリスの軍艦がたびたび出没し、心ある人々の不安をかき立てていた。その不安は、一八四〇年(天保十一)中国にアヘン戦争がおこり、老大国清がイギリスの植民地のようになったことによってますます現実味を帯び、のっぴきならない危機感に高まった。


 そこで、幕府や諸大名は、西欧列強の日本進出に対抗するため、あわてて西洋の軍事科学、技術を導入することにつとめはじめる。西洋兵学の研究とその攝取が、国家防衛の見地から、時代の切実な要求として急浮上してきたわけである。


 しかし、そうはいっても、日本人の誰もが西洋兵学をマスターするというわけにはいかない。語学の素養がなければ、とうてい不可能だということは、ことわるまでもないであろう。


 その点、益次郎は抜群の語学力に恵まれており、オランダ語の読解にかけては第一人者だという高い評価も得ていた。いささか構えた言い方をするなら、益次郎は自分のそんな能力を、国家的、時代的な要請にこたえる形で生かそうとして、医学から兵学への転進を思い決めたのである。

上医は国を()し、その次は人を医す」ということわざがある。国の災いや不安を治め除く人物をもって最上の医師とし、個人の病気を治すのがそれに次ぐというような意味だが、益次郎はその上医を志した、といってもいいだろう。西洋兵学の専門家となって立ち働くことは、少なくともこの時代、我が国が直面した災いや不安を治め除くために、きわめて意義のあることであった。


 とはいえ、益次郎は当面一介の村医者にすぎないから、その抱負は壮とするものの、それを実現に移すべき場も手がかりもなかった。適塾に在籍すること足かけ五年、益次郎は空しい思いを噛みしめながら、郷里に戻って家業を継ぐことになる。


軍事専門家への転身


 長州の方言では、気むずかしくて無愛想な男のことを「もげ作」というそうだが、益次郎はまさにそのもげ作だった。だいたい顔つきからしていかついのに、益次郎は村人が診察を受けに来ても、ブスリとおし黙ったまま時候の挨拶すらしない。かと思うと、変な時にニヤリと意味不明な笑いを洩らしたりする。そんな具合では、村人の評判がいいわけがない。

どうも、若先生はえろう変人だわい。大坂の偉い先生に習ったと聞いとるが、こりゃあひょっとすると、とんでもない藪かもしれんぞな」


 日ごとに村人の信頼感は薄れ、村田医院は閑古鳥の鳴くありさまだったという。開業医としては失格だったわけだが、おそらく益次郎の方も、生涯でこの時期ほど失意と鬱屈にさいなまれた時はなかったであろう。


 しかし、益次郎の不遇の時代はそう長く続かず、兵学研究の成果を世に問う機会は二年ほどして訪れた。


 幕末には名君と呼ばれる大名が幾人かあらわれるが、その一人に伊予宇和島藩主の伊達(むね)(なり)がいる。宗城は、かつて幕府の指名手配を受けた蘭学者高野長英を領内にかくまったりするなど、人間的な度量も大きな殿様だった。益次郎は、その宗城から、同藩の兵学顧問に招聘されたのである。時に益次郎はちょうど三十歳、ペリー提督率いる四隻の黒船が浦賀沖に来航し、外圧への危機意識が国内に奔騰したのと同年の嘉永六年(一八五三)のことであった。この招聘は、緒方洪庵の推薦によるというが、益次郎と旧知の宇和島藩医浅野道庵が仲介したという説もある。


 益次郎はもちろん、喜んで宗城の招きに応じ、同年秋、鋳銭司村から宇和島へ旅立った。同藩での益次郎の待遇は、()(やとい)という身分ながら、百石の扶持を支給されたから、前身が村医者ということを考えると、破格の厚遇といってよい。


 宇和島藩がその見返りとして益次郎に求めたのは、蘭学の教授、兵書の翻訳など、西洋兵学全般についての指導助言であった。益次郎は同藩の期待に十二分にこたえ、砲台の築造、銃砲の製造、西洋式教練や実弾射撃の実施その他、幅広い分野に蓄積した識見を惜しみなく披露する。安政二年(一八五五)には、藩命によって長崎に赴き、幕府の海軍伝習所で勝海舟らとともに航海術、造船術などを修めて帰藩した。


 益次郎の傑出した力量は藩主以下を一様に感嘆させたが、と同時にこのようなめざましい活動は、彼の今後の人生を医者ではなく軍事専門家としてつづらせることを決定づけることにもなった。また、益次郎の個人史にとっては、その間にシーボルトの娘楠本いねと邂逅し、親しい交わりをもつにいたったのも、特筆すべき出来事だったかもしれない。


生まれ故郷の長州藩へ


 さて、宇和島藩に仕えてから四年目の安政三年春、益次郎は伊達宗城の参勤交代に従って江戸の土を踏む。その頃益次郎は眼病をわずらっており、その治療も兼ねての出府だったという。


 だが、江戸に着いた益次郎は、一日もじっとしていない。足まめに適塾時代の友人()(つくり)(しゆう)(へい)らを訪ねて旧交を温めたり、兵学の研究に没頭したりし、同年十一月には、幕府御家人の屋敷を買い取って、(きゆう)(きよ)堂という家塾を開くにいたった。適塾の後輩太田(せい)()を塾長に据え、主として講じたのは兵学と医学についてであるが、楠本いねも助手格として住み込み、益次郎を助けた。


 それとほぼ同じ時期、益次郎は宇和島藩士の身分のまま幕府に召し出され、新設の(ばん)(しよ)調(しらべ)(しよ)の教授手伝として出仕することを命じられた。蕃書調所は幕府の洋学研究機関であり、今の東京大学の前身にあたる。だから、益次郎はいわば東京大学の助教授に抜擢されたわけだが、もちろん自信満々でその召命に応じた。


 益次郎はこの蕃書調所にまる一年勤務し、翌安政四年十一月、講武所の教授手伝に転じる。講武所もやはり幕府設立の機関で、幕臣の子弟に洋式訓練や砲術その他武芸百般を教えることを主目的としており、教授陣には勝海舟、高島秋帆、男谷精一郎ら錚々たる人物が名をつらねていた。益次郎が課された仕事は、講武所の表看板である実地訓練ではなく、西洋兵書の翻訳であったが、ともあれこのように幕府からもその力量を見込まれたことによって、西洋兵学者大村益次郎の名はいっそう高まっていく。


 そうなると、今度は長州藩が放ってはおかなかった。長州藩では、適塾の二年先輩にあたる東条英庵らが洋式兵制の整備を命じられ、洋式学所(博習堂)の改組などにとり組んでいたが、どうしてもリーダーの人材が足りない。そこで、益次郎の存在が注目されることとなり、あの男はもともと領内の民だ、ぜひ我が藩で召し抱えて能力を発揮させるべきだという声が高まり、益次郎の召還が藩議決定をみたのである。


 益次郎を長州藩に呼び戻すのに最も奔走したのは、前述した長州藩蘭学界の泰斗青木周弼だったといわれる。


 青木周弼は、洪庵と同じく坪井信道や宇田川榛斎の門に学んでおり、洪庵と親交を保っていたから、益次郎の力量を従前から嘱目していたのであろう。


 一方、益次郎の側も、鳩居堂に入門した松下村塾出身の逸材久坂玄瑞を通じ、藩上層の桂小五郎とすでに親しい関係があり、また長州藩主毛利敬親が江戸藩邸で催した蘭書会読会に何度か出席したという実績もあった。それらの因縁により、長州藩のことには深い関心を抱いていたから、益次郎としてもこの移籍話は望むところであった。


 幕府や宇和島藩との折衝がことなく済み、益次郎の長州藩帰属が正式に実現したのは、いわゆる桜田門外の変の翌月、万延元年(一八六〇)四月のことである。長州藩が提示した報酬は、宇和島藩に比べると、給米二十五苞と格段に低かったが、ともかくも益次郎はこれによって長州藩の士分に列し、郷国のために尽力することになる。


念願の農兵論、実現する


 翌文久元年(一八六一)一月、江戸の塾をたたんで長州萩に赴いた益次郎は、御手廻組に加えられ、ついで博習堂御用掛を命じられた。益次郎はさっそく博習堂の機構整備に着手し、その根本となる諸規則を定めるとともに、兵学(陸軍)、海軍、砲術の三科の修得を生徒に義務づけた。試みに兵学科の内容をのぞいてみると、野戦造築術、(じゆ)(えい)内則、行軍定則、先鋒隊の勤務、小戦術、戦闘術、将帥術などの項目が並んでおり、当時としては実に合理的、科学的な体系のもとに授業が行なわれていたことがうかがえる。


 益次郎はまた、博習堂での講義にあたり、従来の原書主義を廃して翻訳書中心に切りかえた。というのも、原書を用いると、語学にばかり時間をとられて肝心の内容修得の方がはかばかしくいかないという弊害があったからである。これが思想や哲学を学ぶのならばともかく、技術を学ぶには翻訳書で十分というのが、益次郎の判断であった。もちろん、翻訳書の内容のチェックは、益次郎が自ら厳密に行なった。


 その結果、博習堂の授業は従来より大幅にスピードアップしたというが、こうした改革は、原書の読解力に絶大な自信をもつ益次郎であればこそ実行可能なことだったといってよいであろう。


 その二年後の文久三年(一八六三)五月十日、長州藩は攘夷実行の先頭を切って、下関海峡を通過中のアメリカ商船ベムブローグ号に砲撃を加え、続いてフランスやオランダの艦船もその標的とした。これは明らかな国際法違反だったから、欧米各国はやがて報復のため軍艦を繰り出し、下関に陸戦隊を上陸させた。その迎撃戦が、博習堂に学んだ藩士たちの体験する最初の実戦の機会となった。もっとも、その成果はあまり芳しくなく、彼我の武器の性能に圧倒的な差があったため、彼らはほとんどなすすべもなく退却せざるを得なかった。


 その間、益次郎自身はどうしていたのか、国もとではなく江戸にいたということ以外、具体的な動静は明らかでない。ただ、時代の熱病のような、とりわけ長州藩に激しく渦まいていた攘夷熱が外国船の無差別攻撃という形で暴発したことに対し、たいへん興奮した状態にあったらしいことは、『福翁自伝』の記述によってうかがうことができる。


 長州藩がベムブローグ号を砲撃してからちょうど一カ月後、旧師緒方洪庵が江戸で病死した。そこで、門下生たちがその屋敷に集まり、通夜を営んだその席上のことである。益次郎の顔を見かけた福沢諭吉は、この十歳年長の先輩に対し、同窓の気やすさもあってざっくばらんに話しかけた。

どうダエ、下関では大変なことをやったじゃないか。何をするのか、(あき)れかえった話じゃないか」


 諭吉としては、敬愛する先輩がその“大変なこと”のとばっちりを受け、さぞかし迷惑したに違いないという、同情の意をこめて言ったのである。適塾門下生の常識からすれば、攘夷熱ほどナンセンスなことはなく、冒頭にも紹介したように、「国の開鎖論をいえばもとより開国」というのが、支配的な考え方であった。益次郎自身も、かつて適塾に在籍中は、同様の所論に立っていた。ところが、今回はどうしたことか、諭吉の言葉を聞くなり益次郎は眼に角を立て、なかば血相を変えて諭吉をにらみつけた。

何だと、やったらどうだというのだ」


 益次郎には“火吹き達磨(だるま)”という仇名があるが、まさに火吹き達磨そのままの激した口調である。諭吉は、一瞬自分の言った意味が誤解されたのかと思い、戸惑いながら言葉をついだ。

どうだって、この世の中に攘夷なんて、まるで狂気の沙汰じゃないか」


 すると、益次郎はますます激昂し、

狂気とは何だ。()しからぬことを言うな。長州ではちゃんと国是がきまっておる。あんな外国の(やつ)(ばら)(わが)(まま)をされてたまるものか。奴原を打ち(はら)うのは当然のことだ。もう長州藩の士民はことごとく死につくしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ」


 たいへんな剣幕である。ふだんは冷静すぎるほどの益次郎が、まったく別人のようなありさまだ。諭吉はとうとう匙を投げ、「一体全体どうなっているんだ。実に訳がわからぬ」と慨嘆して、このエピソードを締めくくっている。


 益次郎がこのように、旧師の通夜に集まった同門の人々まで驚かせるほどの興奮状態に陥ったのは、おそらく次のこととも無関係ではないであろう。


 益次郎は、かねてから農兵論という構想をもっていた。つまり、これからの軍隊は武士という一部階層ばかりでなく、一般庶民特に農民を含みこんだ国民軍的構成にしなければならないという考えである。この考えは、かつて益次郎が学んだ広瀬淡窓が早くに唱えており、その影響も受けたものとみられるが、ヨーロッパ近代兵制を研究しているうちに、益次郎はいよいよその必要性を痛感するようになっていった。


 ところが、長州藩には、諸外国の報復攻撃を受けて惨敗したのをきっかけに、益次郎の構想にごく近い軍隊組織が出現したのである。いうまでもなく、例の奇兵隊をはじめとして、御楯隊、鴻城隊、遊撃隊、膺懲隊など、諸隊と総称される軍団のことである。


 この諸隊を発案し、実際に組織化したのは、周知のように高杉晋作であった。だが、益次郎にしてみれば、誰の手によってであれ、自分の構想が実現に移されたのは心ときめくできごとであり、しかも労せずして農兵の能力を実験する機会に恵まれたことになる。先進的な軍事専門家益次郎にとっては、これにまさる朗報はなかったはずであり、そのためおのずから気分の昂揚をきたしたというのは、十分考えられる筋道であろう。


 ともあれ、福沢諭吉は、益次郎が攘夷熱のとりこになったのではと心配したが、少なくともそれだけは取り越し苦労であった。その証拠に、益次郎は諭吉を辟易させた少し前、長州藩土井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)らをイギリスに密航させるという遠大な計画を支援し、旅費五千両の捻出に奔走するなど、たいへん重要な役割を果たしている。もし、この時期の益次郎が心底から攘夷主義であったなら、そんな計画は冷笑し、一顧だにしなかったはずである。


倒幕派の中心人物に


 さて、長州藩は下関での攘夷戦に失敗した上、いわゆる八・一八政変によって京都を逐われたため、国内政局における孤立化が一段と進み、翌元治元年(一八六四)幕府から追討の軍を差し向けられる破目となった。同年八月、幕府は前尾張藩主徳川(よし)(かつ)を征長総督に任じ、三十六の藩に長州への出陣を命令する。


 この第一次長州征伐に際し、藩内ではどう対処すべきかをめぐって意見の対立を生じ、正義派、俗論派という二つの勢力が形成された。とりあえず幕命に従うが、いずれ軍備をととのえて倒幕をめざそうという武備恭順論を唱えたのが正義派、それに対し、俗論派は無条件恭順の立場をとり、幕府に全面的に屈伏することこそ(しや)(しよく)を保つ最善の道だと主張して譲らない。


 藩内をまっ二つに割ったこの主導権争いは、ほどなく俗論派の勝利という形でけりがつき、正義派は藩政から締め出されてしまった。のみならず、俗論派は正義派の弾圧にもつとめたので、高杉晋作などは身の危険をおぼえて藩外に脱出せざるを得なかったほどだ。


 しかし、俗論派政権の命運は、意外と短かった。およそ二カ月後、ひそかに下関に戻った高杉が力士隊、遊撃隊などの諸隊を糾合し、俗論派打倒の兵を挙げると、藩内各地でこれに応じるものが相次ぎ、一カ月とたたない慶応元年(一八六五)正月、俗論派政権はあっけなく崩壊してしまうのである。


 かわって藩政の実権を握った正義派の究極の目標は、前述のように倒幕であった。となると、何はさておいても急がなくてはならないのは、その目標を実現可能とする強大な軍事力の養成ということになる。俗論派との抗争で精強さを証明された諸隊も含め、藩全体の兵備や編成をさらに近代化する必要がある。


 その重責を担わされたのが、ほかならぬ益次郎であった。


 正義派政権のもとで、益次郎は軍政用掛に昇り、三兵教授役を兼ねた。以後、益次郎は新生長州藩の兵制改革の中枢を占め、木戸孝允や高杉晋作ら正義派首脳陣から厚い信頼を寄せられる。


 正義派政権成立直後の慶応元年二月、益次郎は自ら上海に渡航し、最新式の武器弾薬の買いつけなどを行なった。これはむろん、幕府の許可を受けない密貿易である。そのため、長州藩は幕府からその非を咎められたが、責任者の益次郎を改名させて急場をきりぬけた。この時まで益次郎は村田蔵六と称しており、だから正確にいうと、大村益次郎と名乗るようになったのは、これ以降のことである。


 ついでながら少々余談にわたると、益次郎には大嫌いなものが三つあった。洋服と写真、それに船である。西欧文明摂取の最先端にいた彼の立場からすると意外な取り合わせだが、船が嫌いというのは、すぐ船酔いする体質からきたどうしようもないもので、それだけに上海渡航の際は、だいぶ苦しい目にあったらしい。


長州藩きっての軍事司令官


 さて、長州藩が益次郎の主導のもとに、しきりと軍備の増強をはかっていることは、そのうちに幕府の察知するところとなり、第二次征長令が発令された。幕府の下知を受けた諸藩連合軍は、慶応二年(一八六六)六月、瀬戸内海大島口、山陽道芸州口、山陰道石州口、九州小倉口の四方面から、一斉に長州藩に攻めかかってきた。


 これを長州藩では四境戦争と呼ぶが、正義派政権としては、もとより覚悟していたことである。前回の場合のように戦わずして降伏する気など、毛頭ない。それに、開戦の五カ月前、坂本龍馬らの周旋によって薩摩藩との軍事提携、いうところの薩長連盟が成立していたことも、いっそう長州藩を勇気づけた。


 この時、益次郎は戦局全体の戦略立案にあたるとともに、山陰道石州口の指揮をとった。ただし、実をいうと、長州藩、幕府の双方とも主戦場とみなしていたのは山陽道芸州口であり、石州口はあまり重要視されていなかった。益次郎がその石州口を割り当てられたのは、理論、学識こそ超一流でも、まだ一度として実戦経験のないことを不安がられたからであった。それゆえ、今回の出撃は益次郎にとって初陣ということになり、将としての力量を問われる正念場でもあったわけだが、その作戦指揮はまことに水際立ったものがあり、たちまち周囲の不安をふきとばした。


 時に益次郎が率いた兵力は、七百前後という。意外に少ない感じだが、当時の長州藩の全兵力はおよそ四千、それを四方面に振り分けての戦いだから、そう贅沢もいっていられないわけである。それに対し、幕府側が石州口に動員した兵は、浜田、福山、和歌山などの諸藩兵を合わせ、なんと二万余。これだけの兵力差があれば、ふつうならとても勝負にならないところであろう。


 だが、益次郎には成算があった。相手はいくら大軍とはいえ、諸藩兵の寄せ集めであるし、指揮系統も多様だから、大軍のままに統一的な軍事行動をとることは到底できないに違いない。そうであれば、前面にあらわれる個々の敵勢を各個撃破していくうちに、おのずと勝利の道は開けるはずだ、というのが益次郎の戦局観だったのである。


 そのような益次郎の読みの正しさは、緒戦の益田の戦いにおいて鮮やかに証明された。


 益田は長州藩境のすぐ東にある町だが、幕府軍は町内の三つの寺に兵を伏せ、長州藩の来攻を待ち構えていた。益次郎が農民に変装して自ら偵察したところ、敵の総数は約五千。全軍の四分の一とはいえ、七百の長州軍にとってはやはり荷の重い大軍であることに変わりはない。そのため、長州軍の間では、益田突入を無謀だとして、反対する声があがった。だが、益次郎は断固として出撃を命じ、次のような作戦を授けた。


 三カ所の敵陣地のうち、まずその一カ所を集中攻撃する。銃火器は我が軍の方が圧倒的にすぐれているから、これを落とすことはさして難事ではない。ついで、次の一カ所に鋒先を転じれば、これまた同じこと。もし、三カ所の敵勢が一度に押し出してくるようなことがあるといささか厄介だが、敵の配備を見るにその憂いは十中八九ないから、安心して攻めかかれ──。


 そして、戦況は、益次郎が言明した通りに展開したのである。敵勢は、長州軍がつるべ打ちに撃ちかける新鋭火器に恐れをなして次々に陣地を放棄し、益田の町を一日と持ちこたえさせることができなかった。


 こうして、いったん崩れかかると、大軍の方がかえって収拾がつかない。以後、長州軍は無人の野を行くように快進撃を続け、開戦から三日目にして早くも幕府軍の本営浜田城を攻略、城下の各要所に「長州支配」の木標を立てることができた。


 益次郎が用いたこの各個撃破戦法は、実はあのナポレオンが開発した、ヨーロッパでも無敵の近代戦法に学んだものであった。さらにいえば、益次郎が農兵論を強調したのも、ナポレオン流の市民軍、国民軍に関する知見があったからにほかならない。


 ともあれ、石州口の快勝は一大朗報となって長州藩内をかけめぐり、それまで兵制改革に批判的だった門閥保守層の益次郎に対する認識もすっかり改まった。そして、凱旋した益次郎を包んだのは、西洋の軍事知識にくわしい兵学者という従来の評価に加え、実戦指揮にも卓越した能力をもつ長州藩きっての軍事司令官という名声であった。


 その名声が、さらに大きな活躍の場に益次郎を導くことになる。


彰義隊掃討を指揮する


 翌慶応三年(一八六七)十月、幕府は薩長両藩を中心とする倒幕派の鋒先をかわそうとして、大政奉還を朝廷に申し出た。だが、幕末の動乱はそれでもおさまらず、明けて慶応四年正月、旧幕軍と倒幕派は鳥羽、伏見においてついに武力衝突し、それがきっかけとなって国内を二分する内戦戊辰戦争の幕が切っておとされた。


 益次郎は、鳥羽、伏見の戦報を国もとにいて聞いたが、それからおよそ一カ月後、挙兵上洛する長州藩世子毛利(もと)(のり)に従って京都に向かった。折しも、京都では明治新政府の官制整備が進められており、軍政関係では軍防事務局という官庁が設けられた。益次郎はさっそくその軍防事務局に登用され、地位は軍防事務加勢とあまり高くなかったものの、新政府軍政の実際上の事務を取り扱うことになる。四月六日には、大坂城中で天皇臨席のもとに諸藩兵の大操練が実施され、その指揮監督を任されたのは益次郎であった。


 ついで、益次郎は軍防事務局判事に昇進し、閏四月初め、江戸に駐屯中の東征軍大総督府に赴任する。大総督府は、前将軍徳川慶喜が無血開城に応じたのを受けて江戸城に本営を構えていたが、江戸市中の治安を保つまでにいたらず、不穏の気は依然として市中のそこかしこにみなぎっていた。


 なかでも、前将軍の弱腰に不満を抱く旧幕臣たちの牙城となっていたのは、上野山に結集した彰義隊である。彰義隊の人数は日ごとに増加し、最盛期には四千人近くに達したというが、それに対し大総督府はただ傍観するばかり、というよりもむしろ()()され気味というに近かった。


 益次郎が江戸に派遣された使命は、ともすると士気のゆるんだ色の見える東征軍の内部を引き締め、できるだけすみやかに彰義隊を討伐することであった。


 しかし、江戸に着いた益次郎が彰義隊の即時攻撃命令を伝達すると、そのころ先鋒参謀として大総督府に強い発言力をもっていた(かい)()()信義が、頭から反対を唱えた。東征軍の現有兵力では、とても彰義隊を攻め切れないというのである。実際、東征軍の兵力がかなり弱体だったことは、同じ参謀の広沢(さね)(おみ)が江戸放棄論を唱えていたことからも察せられる。


 しかし、石州口での勝利によって自分の近代兵学理論に一層の自信を得ていた益次郎は、東征軍の戦力を一々吟味し、彰義隊のそれと比較検討し、現在の陣容でも十分勝てるという結論を導き出した。そこで益次郎は、その論拠を海江田に説明し、具体的な作戦計画を示して同意を求めたが、それでもなお海江田は首を縦に振ろうとはしない。お互い喧嘩腰になってのこの口論に決着をつけたのは、軍議に列席した西郷隆盛の次の一言であった。

大村氏は勝てる成算があって主張されるのであろうから、ここは一番、大村氏におまかせしようではないか」


 その結果、彰義隊討伐作戦は、それからまもなく五月十五日の早朝、実施のはこびとなった。当日、益次郎は三条実美、東久世(みち)(とみ)ら大総督府首脳陣と江戸城西の丸の櫓に上がって戦況を見守っていたが、午後になっても勝報が届かない。一座に憂色がただよい、人々は不安そうな囁きをかわしはじめた。だが益次郎一人は泰然たるもので、懐中から取り出した時計を一瞥すると、

まあ、いましばらくお待ちなさい」


 また、上野山の方角に視線を向ける。やがて、その方向にパッと火焔が立ちのぼり、朝からの強風に吹きあおられて、見る間に燃え広がった。すると、益次郎は軽く手を打ち、

もうこれで始末がつきました」


 しごくあっさり言い切った。はたして、その直後、前線から相次いで勝報がもたらされたので、人々は益次郎の作戦の精妙さに、おぼえず感嘆の声をあげたということである。


 益次郎の軍事専門家としての名声は、この勝利によってさらに高騰し、長州一から日本一という折り紙がつけられることになった。新政府軍の実質的な総司令官といってよい西郷隆盛も、こう言って益次郎の能力を褒めたたえた。

大村氏さえおれば、軍事のことは心配するに及ばない」


 以後、新政府の軍政面において、西郷の影は急に薄くなり、益次郎がイニシアチブを握ることが多くなった。西郷はその年の末、鹿児島に引きこもって隠棲を決めこむが、その理由の一半は、軍事的能力が益次郎に及ばないことを知らされた落胆にあったといわれる。


現地を見ずに的確な戦況判断を下す


 さて、彰義隊の壊滅によって江戸の不穏分子は一掃されたものの、反政府勢力はなお各地に存して気勢をあげていた。そのなかで、新政府にとって最も脅威となったのは、東北地方と越後の諸藩合わせて三十二の藩の組織立った抵抗であった。これらの藩は、彰義隊が討伐される少し前、奥羽越列藩同盟という軍事同盟を結び、新政府に敵対する態度をはっきりと打ち出しており、その軍中には別項でふれる大鳥圭介もいた。


 益次郎は、北日本をおおった一大敵国ともいうべきこの奥羽越列藩同盟との戦闘でも、西郷を超えて総指揮をとった。ただし、前線には出ていない。終始江戸にいて、前線から寄せられる報告をもとに、適宜指令を発したのであるが、その戦況判断の確かさには、驚嘆すべきものがある。


 たとえば──同年八月、奥羽越列藩同盟の中心的存在会津藩を攻めた時のことだ。新政府軍は会津藩の防禦線を突破して城下に攻めこみ、若松城を包囲したが、若松城は名だたる名城だったので、一向に落城の気配をみせない。そこで、前線の幹部は、攻城砲つまり城攻め用の大砲が必要だと考え、

先だって徳川から分捕った攻城砲を差しまわしてほしい」


 と、東京(七月に改称)に請求した。ところが、益次郎はそんな必要はないと、一言のもとに前線からの請求を却下した。その理由はこうである。


 攻城砲は目方がひどく重いから、大勢の人夫を動員しても一日に運べる距離はせいぜい五、六里であろう。とすると、現地に届くまでに一カ月近くかかることになる。その頃にはもう若松城が落城しているはずだから、苦労して運ぶだけ無駄というものだ──。


 益次郎のこの予告は、ちゃんと適中するのである。会津藩が全面降伏を申し出たのは、若松城を包囲されてからほぼ一カ月後のことであった。現地も見ずにこれほど的確な判断を下せるとは、どこやら神がかり的であるとさえいえよう。


 会津藩が降伏して若松城を開け渡した日時を正確に記すと、慶応四年が明治元年と改められてから二週間後の九月二十二日朝十時。この日を境に、奥羽越列藩同盟も事実上瓦解し、それでもなお屈しない反政府勢力は、北海道函館の五稜郭に本拠を移して立てこもる。そして、五稜郭攻防戦が戊辰戦争最後の戦いとなるが、その作戦指揮にあたったのも、むろんのことに益次郎であった。


 この時、西郷隆盛がぜひとも五稜郭攻撃に参陣したいといって、鹿児島から兵を率い、上京してきた。それに対し、益次郎は、もうすぐ五稜郭は陥落する。今から出向いても無駄足だと、間に人をたてて西郷に伝えたが、西郷は聞き入れない。


 品川から船を仕立てて海路函館に押し渡るのだが、結果は益次郎の予測したとおりになり、西郷が着陣した時には、すでに函館戦争は終結していた。西郷はまた益次郎の能力に苦杯を嘗めさせられたわけで、そのため西郷の鬱屈はますます深まったようである。


徴兵制度創設を提唱


 それから二カ月後の明治二年七月、官制改革があって(ひよう)()省が創設されると、益次郎は初代兵部大輔に任じられた。大輔は次官であり、長官の兵部卿には小松宮(よし)(あき)親王が坐ったが、これはまあ名誉職というに近く、今や益次郎は軍事に関する限り、名実ともに新政府の最高実権者となったのである。長州の片田舎の村医者の伜としては、破天荒の大出世といわなくてはなるまい。適塾において西洋兵学に開眼して以来、およそ二十年後のことであった。


 しかし、断わるまでもないことだが、益次郎がここまで励んできたのは、決して出世欲のためばかりではない。この時代の志士に共通した心情として、益次郎には天下国家のためという一種の使命感があった。さらには、先進的な軍事専門家という自負のもとに、自分の研究成果を世に問うてみたいという熱い意欲もあり、益次郎をつき動かした最も大きな原動力は、おそらくそうした意欲の方ではなかったかと思われる。

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