『二十一世紀をいかに生き抜くか 近代国際政治の潮流と日本』
[著]岡崎久彦
[発行]PHP研究所
国際政治は、一六四八年のウエストファリア条約によって、中世に訣別して近代に入った。
そういって正しいのであろう。ウエストファリア条約とは、三十年戦争に疲れきった欧州諸国が、ドイツのウエストファーレンに集まって、もう宗教戦争はやめようということで調印した条約である。
その条約の最大の成果は、信仰の自由を認めたことにある。
信仰の自由といっても、現代のような個人の信仰の自由ではなく、各国、各諸侯の信仰の自由であった。同一領土、同一宗教の原則が採択され、各君主は臣民の信教を決定できるが、これに服従しない住民は移住の権利が認められた。つまりカソリックかプロテスタントかは、それぞれの国家が自由に決めればよいことであって、国家同士が宗教を理由にお互いに戦争するのはもうやめようということである。
また、ドイツ帝国議会のなかで旧教諸侯と新教諸侯は同等の力を有することとなり、これでそれまで国際社会を支配したローマ法王と神聖ローマ帝国皇帝の権威は失われ、主権平等の国家群が成立することとなった。
その後は、宗教の戦争はあとを絶ち、近代国家同士がお互いの国益の増進を図って相競い発展する近代が始まるのである。
徳川時代の日本が完全な鎖国に入った(一六三九年)十年後に、ヨーロッパは近代に入ったのである。
日本は、それから二世紀半、お互いに相競いながら近代化に驀進する欧州の情報から遮断され、近代化に立ち遅れてしまうという、絶妙なタイミングで鎖国したわけである。
明治開国で初めて欧米を旅行した日本人が、ほんの二百年ちょっと前に知っていた欧州とまったく違う欧州を目にしたのは、こういう歴史の偶然があったのである。日本が何にも知らないうちに、産業革命による技術、とくに軍事技術の進歩があった。それは鎖国前から世界最大の鉄砲生産国として技術水準の高かった日本にとっては、追いつきの対象となり得るものであり、追いつきは時間の問題であった。
それよりも、日本人が瞠目したのは、英国の名誉革命、アメリカの独立、フランス革命などの地殻変動的政治変化、そして英国のインド征服等による西欧帝国主義による世界支配の進展があって、日本の外の世界がまったく変貌していたことであった。
この中世から近代へのヨーロッパの変貌の端緒である三十年戦争の意義を最も劇的に描いたのが、キッシンジャーの『外交』の第二章である。
キッシンジャーはそれをフランスの名宰相、枢機卿のリシュリューの功績に帰している。
彼以上のインパクトを歴史に与えることの出来た政治家はほとんどいない。リシュリューは近代の国家制度の父であった。彼は国家理性の概念を普及させ、彼自身の国の利益のためにそれを冷酷なまでに実施した。
(キッシンジャー『外交〈上巻〉』六四ページ)
「国家理性」は、フランス語のレーゾン・デタの訳である。何か国際政治学の新しい概念を導入したかのごとき印象を与えるが、直訳すれば「国家という理由のため」、つまり「お国のため」であり、あるいは端的に「国益」である。
時の神聖ローマ帝国皇帝は、帝国内にカソリックの正統的信仰を回復しようとした。それが三十年戦争の原因である。しかし、フランスにおけるカソリックの最高位を占めた枢機卿リシュリューは、徹底的にフランスという国の国益を優先させた。
リシュリューはフランスの国益をどんな宗教上の目標よりも上位においたのである。
(キッシンジャー『外交〈上巻〉』六五ページ)
枢機卿が、スウェーデンのプロテスタントの王であるグスタフ・アドルフに援助の金を出し、神聖ローマ皇帝と戦わせるということは、一五〇年後のフランス革命による秩序の転覆と同じくらいに革命的な意味を持つものであった。
まだ宗教的熱情と観念的狂信に支配されていた時代において、道徳上の義務から解放された冷静な外交政策は、雪におおわれたアルプスが砂漠の中にそそり立っているようなものであった。リシュリューの目標は、彼がフランスの包囲網と考えているものを解かせること、ハプスブルクを疲弊させること、そしてフランスの国境──とくにドイツとの国境──に強大な国家が出現するのを妨げることであった。彼が同盟を結ぶ唯一の基準は、それがフランスの利益に役立つかどうかであった。そして彼は最初、プロテスタントの国と同盟し、その後、イスラム教のオットマン帝国とさえ同盟を結んだ。