『二十一世紀をいかに生き抜くか 近代国際政治の潮流と日本』
[著]岡崎久彦
[発行]PHP研究所
キッシンジャーは、ヨーロッパ協調が終わり、ビスマルクの外交も終わったあとの時代、つまり、十九世紀の終わりごろから二十世紀初頭にかけての時代の章を「レアルポリティークの独走」と呼んでいる。
それによれば、レアルポリティークとは、国益と力関係の計算に基づく外交のことである。それはリシュリューに始まる国家理性にのみ基づく外交であるが、その国際システムの主要プレーヤーが環境の変化に柔軟に対処して調整し合えるか(ビスマルクの場合)、それとも価値観を共有する体制によって制約を受けるか(ウィーン体制)でないかぎり、軍備の拡張か戦争は避けられないものとしている。
それはヨーロッパでは、ウィーン体制が終わり、ビスマルクが去って訪れた時代であるが、世界的に見れば、それはまさに列強の植民地獲得競争、つまり全世界的帝国主義時代の絶頂期に当たり、ちょうどその時代に開国した日本にとっては、そのなかで生き抜くことが死活的問題であった時期であった。
この論文の目的は、ウエストファリア条約以降の近代史の歴史を振り返りつつ、二十一世紀の国際社会の行く末を展望することにあるが、究極的には、そのなかで日本の安全と繁栄をいかに護っていくかを探求することにある。
したがって、欧米の文献ではほとんど論じられていない東アジアの帝国主義時代について、まずこの章の前半を割きたいと思う。それはたんにキッシンジャーがカバーしていない東アジアの情勢を補足するためだけではない。最近の東アジアの情勢が、十九世紀末ごろの帝国主義時代の再現の様相を呈しているからでもある。
日本の明治維新は、欧米における近代帝国主義時代の真っただ中で行われた。だから西郷隆盛や勝海舟などの志士たちが心配したのは、国内の政争が列強に利用されて日本が独立を失うことだったが、明治の先達たちはそれを見事に乗り切った。西郷と勝の真の意図も功績も、またその偉大さもそこにある。
維新の危機を乗り切ったのち、日本が初めて直面した国際政治のレアルポリティークは、朝鮮半島における清国との角逐であった。それは端的にいえば、日清両国の帝国主義競争の衝突であった。
清国というと、阿片戦争以来列国に蚕食されつづけた弱体国家のように思われている。いまでも欧米の学者に日清戦争の話などすると、「あのころの中国ならば、誰でも勝てる。日本は臆面もなく侵略しただけだ」という感想が常識的である。おそらく日本でも、戦後の左翼系の史家は同じ考え方のようである。
しかし、それは間違いである。一八四〇年の阿片戦争、一八五六年のアロー戦争によって、近代ヨーロッパの軍事的優位は中国の上層部に十分に認識された。また、一八五一年からの太平天国の乱でも、清朝の正規軍である八旗がその弱体さを露呈した一方で、近代化を志した曽国藩・李鴻章らが組織した郷勇や列強に組織された「常勝軍」が鎮圧の主力となったことは、近代化の必要性をさらに痛感させた。
そこで曽国藩・李鴻章らが中心となって、ちょうど日本の幕末維新に当たる一八六〇年代から、西洋技術、とくに軍事技術を導入した近代化が推進され、少なくとも軍艦などの近代軍事力については、日本はとうてい及ばない、端倪すべからざる力となっていた。それはすなわち、日本にとっては軍事的脅威となっていた。
その当時の中国は、欧米からも「眠れる獅子」と呼ばれ、地球上至るところで植民地獲得競争を繰り広げていた西欧列強も、中国本土に手をつけるのだけは遠慮している状況であった。列強があらためて中国分割に乗り出すのは、日清戦争で清国が惨敗して以降である。
日清戦争は、帝国主義に目覚めた日清両国が朝鮮半島で繰り広げた対決だった。そして一八八二年の壬午事変、一八八四年の甲申事変では、清国軍事力の圧倒的優勢の前に、日本はすごすごと引き下がるしかなかった。
壬午事変は、朝鮮王朝が日本の明治維新にならって軍隊の近代化を図ろうとして日本から指導教官を招いたが、それが旧式軍隊の反撥を招き、それに乗じた大院君のクーデターによって日本公使館が焼かれ、指導していた日本人将校が殺害された事件である。