読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

12/21に全サービスをRenta!に統合します

(2021/12/6 追記)

犬耳書店は2021年12月21日に、姉妹店「Renta!(レンタ)」へ、全サービスを統合いたします。
詳しくはこちらでご確認ください。

0
-2
kiji
0
0
1216553
0
古代の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける
2
0
0
0
0
0
0
歴史
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第五章 神武東征──国威発揚と国土荘園化

『古代の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける』
[著]長野正孝 [発行]PHP研究所


読了目安時間:28分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


 五・一 「神武東征」とは?

『日本書紀』の根幹をなすエピソードの一つが「神武東征」である。『日本書紀』第三巻に記載のある、(かむ)日本(やまと)(いわ)()(びこの)(みこと)・神武天皇の瀬戸内海の航海と戦いの物語である。


 四十五歳のとき、神武天皇は兄弟や子どもたちにこう言った。

「昔、(たか)()(むす)(びの)(みこと)と天照大神が、この豊葦原瑞穂国を祖先の()()(ぎの)(みこと)に授けたという。


 ()()(ぎの)(みこと)は天の戸を開いて、国を治めた。そして、先祖代々の神々は善政をしいてきた。だが、長い時間がたち最近遠い国では争い事が多くなった。(しお)(つちの)()()によれば、東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろう」。そして神武天皇は東征に出た。


 太歳の(きのえ)(とら)の年、諸皇子、舟軍を率いて出発、途中土着の神の(しい)()()(ひこ)の道案内で(はや)(すい)の瀬戸を渡り、宇佐に着く。そこで宇佐の国造の祖先で()()()(ひこ)・宇佐津姫と会う。そこで従者の(あめの)(たね)(この)(みこと)と宇佐津姫を(めあ)わせた。この天種子命は中臣氏の先祖とされることになる。


 それから筑紫の国(おかの)(みな)()、安芸(広島)()(みや)に着き、翌年吉備国に移り、高島宮に居を構え、三年の間、兵糧と船を揃え難波に向かい、河内の草香村の(しら)(かたの)()に着いた。その後、神の加護をうけ、多くの敵を撃ち破り進撃した。


 (なが)(すね)(ひこ)との戦いでは、その最中に兄の(いつ)(せの)(みこと)を失ってしまう。しかし、金色の(とび)(かむ)日本(やまと)(いわ)()(びこの)(すめら)(みこと)の弓の先にとまった。金鵄は光り輝き、長髄彦の軍は(げん)(わく)されて戦闘不能になった。


 (なが)(すね)(ひこ)(かむ)日本(やまと)(いわ)()(びこの)(すめら)(みこと)の元に使いを送り、自らが祀る(にぎ)(はや)(ひの)(みこと)は昔(あめの)(いわ)(ふね)に乗って天降った先祖のものであり、天津神が二人もいるのはおかしいと疑った。神日本磐余彦天皇と長髄彦はともに天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかった。


 (なが)(すね)(ひこ)はそれでも戦いを止めなかったので、(にぎ)(はや)(ひの)(みこと)(なが)(すね)(ひこ)を殺して(かむ)日本(やまと)(いわ)()(びこの)(すめら)(みこと)に帰順した。最後にヤマトの(いわ)()で建国をしたという。


 少し最後は省略したが、これが建国のあらましである。



 五・二 「神武東征」は国威発揚の物語 


 神武天皇が神武天皇という名前であったかどうかはわからない。だが藤原氏が歴史を構築するに際して、(かのと)(とり)の年に建国儀式が(いわ)()で行われたとする必要があった。辛酉の年は古来より大革命があるとし、推古天皇九年(六〇一年)がその年に当たり、この年の一二六〇年前である西暦紀元前六六〇年に神武天皇が即位したとされたとする説を立てた。


 藤原氏は考えた。日本海側はすでにまとまった三つの大きな(わた)(つみ)の国、九州、出雲、丹後が誕生しており、神々の世界での結びつきも固く、そこには既得権があり、フロンティアとしての魅力もなかった。


 日本史上最初の天皇を擁して、藤原氏の故郷の磐余に即位させるには「瀬戸内海」ルートしかない。そのために、瀬戸内海の凱旋計画に変更されたのである。


 神功皇后の条も同様であるが、白村江の戦いの後に駐留している外国勢力に対して大和王権の正統性を誇示する必要があった。当時、全国の主要な港に唐の役人、技術者が滞在し、内陸の資源探査も行っていた。司馬太郎も指摘しているが、彼らが、この時代に製鉄や銅山開発の技術を持ち込み、九州、中国地方で資源開発を進めたと考えられる。

『日本書紀』天武天皇二年(六七四年)には対馬における銀が発見され、またこの頃現在の山口県美祢市で長登銅山開発が始まっている。銅の輸送経路は瀬戸内海だけではない。当然、朝鮮半島を経由して広く大陸まで運ばれたと想像できる。


 紀元前一〇九年、漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など漢四郡を置き、住民を奴隷のように使い、鉄生産を始めたのと同じ状況が、対馬の銀や長門の銅において考えられた。ヤマト政権は各港の植民地化を避ける必要があった。想像するに、幕末の黒船来航で開港を迫られたのと同じような状態で、ヤマト王権としては九州や瀬戸内海の支配権を外国勢力に奪われることを恐れた。


 ゆえに、「昔から瀬戸内海はヤマトの支配下にあった」シナリオとして急きょ「神武東征」の「作り話」を仕組んだのである。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:11555文字/本文:13625文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次