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若き日の和辻哲郎
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ルポ・エッセイ
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序章 和辻と谷崎の出会い

『若き日の和辻哲郎』
[著]勝部真長 [発行]PHP研究所


読了目安時間:19分
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1 和辻の葬儀風景



 谷崎潤一郎と和辻哲郎とは、第二次『新思潮』(明治四十三年九月)いらい、生涯にわたっての友人で、よき競争相手であった。どちらも天成の文章家で、その文章を、死ぬまで磨きつづけた文人であった。谷崎は、初めから終りまで小説家として一貫したが、和辻は、初め劇作家・小説家を志しながら、途中で転向し、倫理学者・文化学者としての道を歩いた。


 明治・大正の頃には、「文章報国」という言葉があって、文章で、筆一本で、世のため人のために尽すといった考え方があった。昭和になっても、あの大戦の最中に「文学報国会」などというものが作られたのは、その名残りであったのであろう。


 もっとも、むかし斎藤緑雨が言ったように「案ずるに、筆は一本なり、箸は二本なり、衆寡敵せず」で、文筆にたよる文士の生活難は今もそう変りはないが、他方、筆一本で大をなし、成功し、世間的名声を博し、文化勲章をうけて終りを全うした人々も少なくないのである。なかでも谷崎潤一郎は、文士として最も華々しい生涯を送った一人と見られている。和辻哲郎は、おそらく大正九年(三十一歳)を境に、作家志望を断ち切って、学問の道を志したが、しかしたんなる学者、いわゆる専門の枠だけに閉じこもる学者でなく、大所高所から広く見渡して物の言える、一個の大ジャーナリストともいうべき学者で、その筆力は抜群であった。


 和辻哲郎の葬式が青山葬儀所で営まれたのは、昭和三十五年十二月三十日の午後一時からで、風の寒い日であったが、午後二時からの告別式に、葬列にまじって、武者小路実篤と谷崎潤一郎の姿が見えたのが、わたくしの印象に残っている。しかも、その頃谷崎は七十四歳で、その十月に狭心症の発作を起し、東大病院に入院し、十二月に退院したばかりであったのに、わざわざ熱海市伊豆山の邸から上京してきたということであった。これは谷崎という人の、義理固さ、誠実さによると同時に、谷崎と和辻との人間関係のただならぬものを示しているということができよう。


 学生の時分、わたくしは半ば文学青年でもあったので、大学の研究室の遠足でハイキングに和辻教授をひっぱり出して、ともに散策したりした折に、よく文壇の話に触れたものだ。

先生、志賀直哉に紹介状書いて下さいませんか。奈良に行って会ってきたいと思うんです」

そりゃ、いつでも書いてあげますよ」

志賀さんの、あの眼がきれいだから」

とわたくしが言った途端に、先生は呵々大笑された。

志賀なんかの目より、君たちの目のほうが、よっぽどきれいですよ」


 先生のこの一言で、興醒めになってしまって、とうとうわたくしたちは奈良への志賀詣でをとりやめにしてしまった。


 志賀直哉の眼がきれいだ、といったのは、当時はやりの小林秀雄の「志賀直哉」論にかぶれていたからにすぎない。



 私に恐しいのは決して見ようとはしないで見ている眼である。物を見るのに、如何なる角度から眺めるかという事を必要としない眼である。吾々がその眼の視点の自由度を定める事が出来ない態の眼である。志賀氏の全作の底に光る眼は正にかかる眼なのである。

(小林秀雄「志賀直哉」)



 ここで言われている眼のはたらきを、ただ「きれい」と言いかえてしまったのは、わたくしが単純だったのである。


 しかし昭和三十年六月号の『図書』に書いた和辻哲郎の「四十年前の志賀さんの印象」という文章では、明治四十四年頃、郡虎彦につれられて、初めて志賀直哉の麻布三河台の邸を訪ねた時の印象が述べられていて、強い「畏敬」の気持ちを感じたことを表明している。

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