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若き日の和辻哲郎
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ルポ・エッセイ
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第5章 鵠沼と三渓園

『若き日の和辻哲郎』
[著]勝部真長 [発行]PHP研究所


読了目安時間:36分
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1 結 婚



 和辻哲郎が高瀬照と京都の平安神宮で結婚の式を挙げたのは、明治四十五年六月二十七日であった。媒酌人は叔父の和辻春次夫妻であった。二人が挙式にこぎつけるまでには、いろいろと曲折があったことは、照未亡人が『新潮』に連載して、のち一冊の本にまとめた『和辻哲郎とともに』(新潮社、昭和四十一年)に詳しい。それによると、和辻の一高からの友人で同じ森川町の下宿にいた高瀬弥一が、高瀬家の長男で、その下の妹が長女の照であった。その下に次女千代子、三女の君子、四女の松子、五女の芳子と姉妹四人がいた。


 父は高瀬三郎(安政六年─大正五年)、母はキク(文久元年─昭和十一年)。三郎は鎌倉十二所村の庄屋山口家の次男で、年少の頃、東京へでて医学校に入ったが、医者にはならず、横浜へ行き、ドイツ人の商会で働いていたが、のち独立して貿易商となった。ドイツ語、英語、フランス語の日常会話には不自由しなかったという。横浜の本町通りに店を構え、照はここで生れた。その店から七、八軒の距離に弁天通りの「亀善」こと原富太郎(三渓)の店があって、そこの長女の春子と照とは生涯の親友となった。そしてこのことが、和辻の運命にもかかわりをもつようになる。


 高瀬商会は、何かの都合で横浜の店を引き払い、鵠沼海岸の松林のなかに四万坪の土地を手に入れて移り住んだ。離れがいくつもある大きな邸であったらしい。なにしろ専門のコックを傭って料理を作らせ、二十帖ほどの食堂に大きなテーブルを置いて、食事のときは家族も客も一せいにそのテーブルを囲むという風であった。和辻は卒業論文を書くのに適当な離れを借りるという名目で、高瀬家の客となり、その食堂に出入りし、姉妹たちと知りあって、ピンポンなどをして遊ぶうち、長女の照と心を通わす仲となったのである。


 照は横浜フェリス和英女学校の小学部から市立横浜小学校に転じ、明治三十五年四月、創立二年目の日本女子大付属高女に入学、さらに日本女子大英文科に進み、その予科を終了すると、四十一年四月津田英学塾に転じ、四十四年、二十二歳のとき英学塾本科を退学している。その期間、ある時期米国人ミス・バターの家庭にあずけられ、英会話と西洋料理とマナーとを身につけたというから、最も進んだ教育をうけた新しいタイプのお嬢さまであったのであろう。和辻との新婚生活で、「テツロウ、テツロウ」と夫を呼んでいたというのも、大正元年頃では傍目には珍しく映ったであろうが、ご当人にはその教養上ごく自然であったに違いない。とにかく稀なる才媛であった。


 姫路の田舎から上京して、東京の生活で江戸ッ児たちの間で劣等感に悩んできた和辻にとって、横浜は、東京よりも気のおけない明るい港町で、いわゆる「浜ッ子」はいっそつきあいやすかったであろう。しかも貿易商の裕福な家庭で、万事大らかな生活は、播州の田舎の村医者の家庭でつつましく育った和辻青年にとって、新しい未知の世界が開けたようにも感ぜられたであろう。


 もっとも都会風の家庭生活を、和辻はまだ中学四年の頃に、京都の叔父春次の家で経験している。京都帝国大学医学部の眼科の教授であった叔父が、ドイツ留学から帰ってきて、庭に新築した洋館に応接間や書斎を設け、そこにソファーや肘掛椅子や大きな書き物机などの西洋家具を並べ、ドイツから持ち帰った写真帖や器具類があるのを眺めたこと、それに家族団らんの楽しそうな雰囲気というものに、ひどく好奇心をゆさぶられたことはあった。


 明治四十四年十一月初めに出逢った二人は、翌年三月には、哲郎が離れの一室で、直接照に結婚の申込みをするほど急速に接近していった。十一月初めに出逢って、一たん帰京することになった哲郎は、照の琴の師匠越野栄松が、北原白秋の詩に作曲したいといっていると聞いて、白秋に話してみようということになって、箏歌の本を借りて帰った。その件についての返事が、十一月十六日付の絵ハガキで照のもとに送られてきた。



 先日はいろいろ御厄介をかけました。あの節拝借した箏歌の本は、いつ頃まで拝借して好いのでしょうか。相手がずぼらな白秋だけに、少し心配になりますから、念の為にお伺いして置きます。白秋からこんな歌をかいてよこしました。

博多帯しめ

筑前しぼり

筑前博多の帯しめて

あゆむ姿がやなぎごし

お父様お母様をはじめ皆々様によろしく

和辻哲郎    



 誰でも青年期の初恋には、羞恥心が先立ってなかなか思うことの半分も言い出せないものである。ほんとうに好きな人には、ついに言い出せないままに見送ってしまうことさえある。『葉隠』に、「忍ぶ恋」といっているのも、本心を明かさないまま一生過ぎてしまう、純情といえば純情、気が弱いといえば気の弱い話で、手紙は書いてもとうとう渡さずじまいに終るような、はかない、脆弱性がつきまとう恋をさしているのである。漱石にたいしては、一高生の頃から慕って、教室の窓の下で夏目先生の授業を洩れ聞いたりしていても、直接会いにも行かず、大学を出てから『ニイチェ研究』が本になったのを機会に、本を送って手紙を初めて書いたくらいに神経質で純情だった和辻が、今度の高瀬照嬢との恋愛では、わりに堂々と、悪くいえば相当心臓強く、ストレートにプロポーズに漕ぎつけている。そこにあるいは『新思潮』や自由劇場時代の文学青年、演劇青年としての経験の蓄積があって、女性の扱いに慣れている、少なくともウブではなくなっていた形跡がうかがわれるように感じられる。


 哲郎の結婚申込みは、高瀬家側では異存はなかったが、姫路の和辻家では父の瑞太郎が反対であった。第一、仲人も通さずに、哲郎本人一個の了見で、早々と申込みをするとは何事か、申込んでしまってから親に相談するとは、順序が違うではないか、それにその娘を娶らなければ哲郎が幸福になれぬとはどういうことか、嫁の家が富裕なのを当てにするような根性で、それでも日本男子か、といった調子の反論が父の瑞太郎からは届いた。



 桃杏花明之候無事勉学候哉 故国長幼無事 本日学資三十五円逓走致候


 却説縁談の義 汝より申越候趣に拠れば 己汝一了見を以て先方へ口開き致し候由 親に一応の相談不致候て直接申込候ては 汝の脳底には親無き様考えられ候 猶又該娘を娶らねば幸福を得難しとは如何な理由にや 古今を通じ家婦の内助も大に男子の素志を遂ぐるに預る事は勿論に候得共 該娘を娶らざれば不幸を享くるとは如何なる謂ぞや 野父に於ては甚だ解決に苦む 其学に就き勤勉なれば其徳に由り業成り名遂ぐるを得 春次の如きは即其一例なり 汝も勤勉を積み候て他日の大成を期すべし 荀も大和民族の男子たる者が他人に依頼候様の野心を抱懐候ては野父の首肯し能わざる処に候 依て該娘を於ては生涯不幸に陥ると云う理由を説明せよ 其上徐ろに熟考すべし

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