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若き日の和辻哲郎
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ルポ・エッセイ
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解説

『若き日の和辻哲郎』
[著]勝部真長 [発行]PHP研究所


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会田雄次 



 ドイツの著名な哲学者で東北大学などで教鞭をとったこともあるカール・レーヴィットは、日本の知識人について、うまい比喩を使ってこんな意味のことを語っている。「日本では、いわゆる知識人、とりわけ思想家とか学者たちは、洋服を着てプラトンからハイデッガーまでの書物が並んだ二階の窓から顔を出している。と思うと次の瞬間には、和服を着て緑茶を啜りながら、畳敷きの一階の部屋から顔を見せる。だが私たちヨーロッパ人には、その一階と二階をつなぐ梯子がどこにどのようにして存在しているのか、皆目見当がつかない」と。


 つまり、日本は明治以来、西欧の思想を懸命に学び、かなりの程度に理解はしてきたけれども、その知識は全く表面的な一種の飾り物に終わり、自分自身の思考や行動とは完全に遊離している。そういうかれらの論文は欧米人の研究の受け売りか、祖述にすぎず、当人の個性と無関係であり、したがって内面的発展性も独創性を持つものとならない。そのことを間接的にだが、まことにきびしく批判した比喩といってよい。


 確かに私たちは、今日でも尚、自分の表向きの意見と、自分の日常的な思考と行動、つまり私生活とは無関係の、いわば二重人格性の安易な世界にすがりつき、そういう無責任な安全地帯からの発言で体裁を飾り、安楽にこの世を泳いで行く生き方に固執する傾向がある。それは仕方がないとしても、和辻哲郎は自分の(なま)な生き方から独創的な自説を展開させて来た、日本では希有な人々に属する哲学者である。そういう一階も二階もない和辻を理解するのに、こういう日本人は自分と同じように二階にいる和辻だけを知ればよいという立場からの隔靴掻痒というより、見当ちがいに近いやり方を踏襲して来た、と私は考えている。


 だが本書は、その正反対の立場から、和辻の「生活と文芸と思想との関係」を解きほぐそうと試みたものである。和辻の最も愛した直弟子である勝部氏ならではと思わせる個所が随所にあり、私なども、あ、なるほどと至るところで教えられ感銘した。


 和辻は、その師井上哲次郎と不仲であった。井上は、明治草創期の学者として仕方がないことかも知れないが、それにしても余りにも二階と一階とが遊離した哲学者の典型であった。対して和辻には、生活と思想がはっきり分離していてこそ思想家であり哲学者であるとする日本の伝統的思考に対する反発があった。下世話な言い方をするならば、人間には顔や頭もあれば生殖器もあるのであり、それらは一つ身体の中で有機的に関連しあっているのだとする考えが、和辻の思考の根底にあったのである。


 和辻哲郎は、明治三十九年、兵庫の姫路近くの村から上京して一高に入学する。田舎から出てきたばかりの和辻にとって、一高はまさにきらめくばかりの世界であった。江戸の伝統が生きる遊び心と、フランスやドイツの文学、思想などが渾然一体となった都会の空気に接して、当時まだ訛が抜けず、それほど風采のあがらなかった和辻は、目が眩むような思いを味わうこととなる。そしてそれと同時に、自分自身に対して強烈な劣等感を覚えることにもなった。


 筆者は、当時の和辻の人間関係の中でも、とくに一年上級であった谷崎潤一郎との交流に多くの紙幅を割いていて、本書の最も興味ある一角を形作っている。田舎育ちの和辻にとって、いわゆる「江戸っ児」を地でいく谷崎は、親友であるとともにいわば憧れの人であった。谷崎の流儀を自分のものにしたいとひたすら願い、そのようになるべく行動した。谷崎と和辻は、共に『新思潮』という同人雑誌をつくった。そして和辻は、ここに多くの小説や戯曲を発表し、この時期文学にその情熱を傾けて行ったのである。同時に同人たちとの交流を通じ、遊びの世界にも耽溺するようになる。安倍能成いうところの「和辻君のストゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)時代」がこれである。


 この若き和辻は、文学の世界では遂に谷崎には適わないことを自覚させられ、文学を断念するに至るのだが、最終的にその決心をするに至ったエピソードが面白い。和辻がオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を原書で読み、面白かったと谷崎に話すと、谷崎は自分も読みたいから貸してくれという。読み終えて和辻にその本を返したときに、谷崎はこんな感想をいった。「たいへん面白く読んだが、僕は君がアウトラインを引いていないところのほうがいっそう面白かった」と。


 本文を読んでいただくとよく判るのだが、文学者の感性と哲学、思想などの学者との感性には基本的な差があることに、和辻はこのとき気づかされた。大いに影響も受け、また競争もし、論争もし、作家能力という点でコンプレックスも味わわされ続けて来た和辻は、自分と谷崎とは別の道にいるのだ、とはっきり悟るに至るのである。


 和辻の疾風怒濤時代は、この自覚と、明治四十五年の高瀬照との結婚によって終わりを告げる。もちろん結婚だけが原因ではないが、それまでの放蕩ぶりが、賢夫人照との結婚によってピタリと止んだという点は、谷崎が松子夫人と結婚してそれまでの女遊びが止んだこととよく似ている。谷崎とは違う道が自分にはあるのだと悟ったことに加え、この結婚によって、和辻は文学と決別し、哲学へと歩み始めることとなる。


 また、和辻哲郎を哲学の世界へと導いたことの大きな要素として、富の世界との接触を挙げることができる。照夫人は、いわゆる金持ちのお嬢さんであった。持参金としてもってきた土地は、現在とは比較にならない安い値でしかなかったとはいえ一万坪の広さであった。夫人の実家には決して頼ろうとしなかった和辻ではあったが、やはりここでいわば清富への憧れは持ったようである。


 さらに、もう一人、三渓園で有名な原富太郎との交流も和辻の進路に大きな影響を与えたといえるだろう。原は、生糸貿易によって、築き上げた富で内外の美術骨董品を多く集めるとともに、美術界のパトロンとして大きな功績を残した人物であった。和辻もまた、三渓園に出入りすることによって、芸術・文化に対する鑑識眼を養っていく。原との交流の中で和辻は、江戸っ児的な小さな遊びと文芸とはまったく異なった、広大な文化の世界が存在することを実感を以て感じたのであろう。下司野郎とは付き合いたくないという思いが和辻の中に出てきたのは、照夫人とこの原富太郎との触れ合いによってもたらされたのではないだろうか。


 加えてケーベル教授との出会いもまた、東大に学んだ和辻哲郎にとって大きいものであった。ケーベルは哲学の講義をしていたのだが、ギリシア古典、ローマ古典を大事にしたこの先生の講義を、和辻は熱心に聴いたようである。安倍能成、西田幾多郎ほか多数の有名学者がケーベルに学んで深い感銘を受けている。


 ケーベルは、生涯独身、規則正しい生活をし、世俗には超然として、自分をそこから一段高いところへ置く生き方をしていた。身につけるものはきわめて質素だったが、首につけるカラーはいつも真っ白、音楽を愛し、酒、タバコと食事を楽しんだエピキュリアン的側面もあり、コックをはじめ何人もの使用人を使って、いかにもドイツのエリート哲学者らしい生き方を貫いた人である。


 倫理学を一生の課題にしようと決心した背景には、このケーベルと、もう一人夏目漱石との出会いも大きい。漱石の和辻宛て書簡の中に、次のような言葉がある。「私は今道に入ろうと心掛けています。……道に入ろうと心掛けるものは冷淡ではありません。冷淡で道に入れるものではありません」。


 和辻は、この言葉に衝撃を受けて倫理学を専攻することになるのである。以上にみられる五つの要素が、和辻哲郎の世界を築くにあたっての決定的要素であり、このうちどれか一つでも欠けていたならば、今日、和辻学が存在することはなかったのではないだろうか。


 こういった生活の中から、若き和辻の詩の音韻をふくんだ名著『古寺巡礼』が成立し、やがて『風土』から『人間の学としての倫理学』に代表される和辻哲学が展開して行くのである。その間の事情を本書はこの上なく興味深く物語っている。広く深く読まれんことを心から期待したい。

(京都大学名誉教授)

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