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弟子・藤井聡太の学び方
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教育
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第三章 「学ぶ姿勢」は、世代を超えて受け継がれる

『弟子・藤井聡太の学び方』
[著]杉本昌隆 [発行]PHP研究所


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東海地区にタイトルを──大師匠の夢をかなえる



 藤井聡太の学び方を考えるうえで、私自身が師匠から何をどのように学んできたかを振り返ってみたいと思います。


 二〇一七年八月、大阪市の関西将棋会館。藤井四段は王位戦予選の対局で、故・板谷進九段一門の先輩に当たる小林健二九段と対局しました。翌年の七番勝負の挑戦者を決める予選の初戦でした。


 小林九段は私の兄弟子に当たり、藤井は同門のはるか後輩となります。小林九段にとっては特別の思いを抱いた勝負だったようです。当日は和服で対局に臨まれました。

「今度、藤井君と当たることになったんだけど、全力で指すよ」


 対局を前にして、私にはそうおっしゃっていました。


 二十九連勝の記録があるため、傍からは、どうしても藤井が有利の目で見られてしまいます。「だけど自分は最後まで全力でがんばる」と闘志を燃やしていました。


 小林九段からは「対局を見に来ないか」とは声をかけられていました。私はちょうど兵庫県加古川市で開かれていた棋士会主催のイベントに参加していたので、その終了後に駆けつけました。


 対局で藤井は序盤から巧みな指し回しをみせ、小林九段を制しました。


 小林九段と藤井、主催関係者らに私が合流し、五人で夕食の卓を囲みました。藤井からすれば、今しがた負かしたばかりの対戦相手と同席するのは気疲れするかなと思いましたが、小林九段の気さくな人柄もあって、楽しそうに箸を進めていました。


 自然に私の師匠である板谷進九段の話題となりました。藤井にとっては師匠の師匠、つまり大師匠です。もっぱら聞き役だった藤井は、静かに耳を傾けていました。


 名古屋で生まれ育った板谷九段は、一九八八年に四十七歳の若さで亡くなるまで、将棋と将棋ファンを愛し続けました。「将棋は体力」のモットー通り、将棋の中身も姿勢も体ごとぶつかり、将棋普及の活動も常に全力で当たるのが信条でした。


 名古屋に「東海将棋会館」を建てることが板谷九段の悲願でした。東京と大阪に負けない建物を建てて、公式戦も指せる将棋連盟と奨励会の東海本部をつくるというビジョンを胸に、亡くなるまで奔走されていました。

「棋士系統図」というものがあります。師弟関係を図で表したもので、私の一門である「板谷一門」は板谷四郎九段──板谷進九段──杉本昌隆七段──藤井聡太四段と続いています


 私の兄弟子には小林九段、一門の先輩には大村和久八段、石田和雄九段、北村文男七段、中田章道七段がいます。


 私が将棋を覚えたころには、全員、すでに活躍されていた棋士ばかりです。こうした先輩がいなければ、今の私はなかったでしょう。私がいなければ、「板谷一門」の藤井聡太もまた、いなかったかもしれません。血脈とは異なる、師弟という特別のつながりを思わざるを得ません。


 藤井はさまざまな場で、

「東海地区にタイトルを持ち帰るという板谷先生の悲願をかなえるのが自分の夢です」


 と語っています。


 藤井の活躍は、「板谷進」「板谷一門」の名を広く知らしめることになりました。一門に対する貢献度は計り知れません。そして、師匠の遺志が脈々と受け継がれていることに私は胸を熱くします。


将棋大会で師匠と出会う



 東海地区は将棋が盛んな地域とされています。中でも板谷四郎九段(以下、四郎九段)と、その次男の板谷進九段(以下、進九段)を中心とした将棋普及には、ファンもぐいぐい引っ張られていました。名古屋でこのお二人の名前を知らない将棋ファンは皆無でした。


 私が父親に教わって将棋を覚えたのは、七歳のときです。やがて町の将棋大会に出るようになり、私が出場した段級位認定大会の審判をしていたのが、後に師匠となる進九段でした。


 その日は地面がぬかるむ雨上がり。審判長の進九段は長靴を履き、タオルを首に巻きつけるという、およそ棋士らしくない出で立ちで、忙しそうに会場の運営に走り回っていました。これが師匠との初めての出会いです。


 まだ下級者だった私に対し、進九段は自分の教室ではなく、アマ高段者が運営する子ども教室を紹介してくれました。初めは子ども教室、そして小学四年から二年間は、大村和久八段の自宅教室に通うようになりました。


 アマ時代の私の師匠である大村八段はとても優しく、怒られた記憶はありません。私の将棋人生のはじめに、この先生の指導を受けられたのは、とても幸運だったと思います。


 初対面で私の親に大村八段が言いました。

「この子は将棋が好きじゃないね」


 たしかに当たっていました。それは、過去に習っていた教室での詰め込み式の指導が自分に合わなかったこと、強い大人相手ばかりで将棋の楽しさを忘れかかっていたことが原因でした。高い技術を学びながらも棋力が追いついていないため、頭がパンクしそうでした。そんな時期にすがる思いで訪ねたのが大村八段の教室でした。


 もちろん、それまでの指導者から学んだことはたくさんありました。ただ、時期が早すぎました。

「小学四年生なのに、大学生がするような勉強をしてきた将棋」


 という大村八段の指摘は的を射ていました。


 大村八段との初手合いは初級者が受けるような手合いの六枚(飛角桂香)落ち。原点に戻ってやり直しをしたことで私の将棋の情熱が戻ったのは、この先生のおかげでした。


 その教室には強い大人や弱い子どもなどいろいろな人がいました。私は一つ年下の少年と仲がよく、その子は教室にあった高価な盛り上げ駒で、挟み将棋をするようなやんちゃな子でしたが、大村八段が厳しく注意をしていたところは見たことがありません。強いライバルではなかったかもしれませんが、私もそんな友達がいたことで将棋を楽しみながら続けられた気がします。


 同じ時期、四郎九段がいつもいる将棋教室にも通うようになり、進九段とも頻繁に顔を合わせることになりました。


 将棋好きの子どもにとって、あこがれの棋士と将棋盤を挟んだ経験は一生忘れられないものです。


 将棋大会で、小林九段と六枚落ちで指導将棋を受けたこと、谷川九段にも一度だけ二枚落ちで教わったことがありました。


 小学六年のとき、名古屋市の栄駅近くのデパートで開かれる毎年恒例の将棋まつりで、少年代表として席上対局の経験をさせてもらったことがあります。

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