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自分を豊かにする心理学 ゆとりと生きがいをつくる知恵
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生き方・教養
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第1章 自己実現の心理学

『自分を豊かにする心理学 ゆとりと生きがいをつくる知恵』
[著]本明寛 [発行]PHP研究所


読了目安時間:42分
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 自己実現の本当の意味




“相対的”に考えよう


 人間は生まれつき自由な存在だという。この自由を求めて戦い続けた足跡が人間の歴史だといってもさしつかえない。自由を求めるというのだから、不自由があったはずである。不自由のなかから自由の世界を求めたはずである。その不自由をつくり出した条件というのは、人間の歴史と共に変化し、発展している。食物を探し求めた人間の歴史の始まりのころの不自由さは、各国にある人類学博物館に行けばよくわかるだろう。外敵も多かったろうし、住む場所も限定されたことだろう。

「食うことの不自由さ」は現代でもみられる。アフリカや東南アジアにみられる食糧不足は、いろいろの機関から報道されているし、餓えによって小さな命を失う子どもたちは、年間相当な数にのぼっている。しかし、その現象は局地的なもので、世界的ではない。日本は食糧不足だといっても、あり余る品が街に見られるではないか。多い国から少ない国へ食糧が渡らないのはなぜか。政治や経済上の条件があるからである。日本政府もアジアやアフリカに多額の経済援助をしているが、とてもそれによって充実した食生活ができるような状況ではない。同じ食うことの不自由さも、こうした社会的、歴史的条件によって異なっている。


 それにしても、自由を求める願望が人間の本性だとしても、無条件の自由などというものは現実にはあり得ない。また、個人的自由などというものは、自分の思う通りにならないことを不自由と称して、勝手な理屈をつけ、他人や社会を破壊するようなエゴイズムと混同していることが多いように思う。だからこそ自由を論じる時には、責任性が必ず問題になる。むしろ今日の哲学では、人間は責任性を本性とする存在だというように考え直している。フランクルが「人間の自由は社会的条件の中での自由だ」と述べ、人間性とは責任性というように考えているのは当然なことである。


 ここで自由の論争をしようなどといっているわけではない。問題は人間の生き方を考える時に常につき当る矛盾についての相対的な見方や、考え方を知っておく必要があるということである。自由というものも、不自由という両極の中での相対的な位置で考えるべきものである。より自由とか、より不自由とかである。哲学的なアプローチとは異なり、人間存在について考える時には、この相対的な位置に重要な意味がある。アフリカの子どもたちが完全に不自由で、日本の子どもたちは完全に自由かということになると、一概には決められない。それは個人的な条件があるからだ。



 自由を求め、自律的に生きる


 人間は自由を求め、自律的に生きるべきであろう。しかし、各個人にとってこの「自由」と「自律的」には、かなりの意味の差がある。特に「未熟な自律的と円熟した自律的」という差はすぐ考えつくことである。つまり子どもの時代と成人の時代において、その内容を異にするということだ。交流分析学のバーンはこう述べている。

「人間は、誰しも生まれつき自由である。しかし生まれてきて最初に学ぶいくつかのことの一つは、言われた通りに行動する、ということで、人間は生涯それをつづけて過ごす。したがって人間の最初の奴隷化は両親に対してである」


 きわめて明解な指摘である。人間の奴隷化は人生のごくごく最初の時点で起こる。そして両親の指図によって何らかの報酬を得た人たちは、この指図を人生の真理として死ぬまでもち続ける可能性がある。まことに不自由なことである。しかし、そうした人も、その指図の実行について、いくらかの自由選択の余地はある。


 たとえば日本における試験地獄はいよいよ日本の若者をスポイルしているように思うのであるが試験が悪いとはいえない。しかし幼稚園年齢から始まる受験勉強を正常なものとは考えられない。そしてママたちは、

「一流大学へ入れるためにはしかたがありません。みんなやっていることです」


 と答える。みんなやっていることならなんでもやろうという日本人の独特な価値判断がそこにある。ともかく、それが自信をもって行なうママの指図となる。かくて子どもは何がなんだかわからないが、塾に通い、○と×の幻影にとりつかれ、心理学者のバーンのいう「母親の奴隷」になるというわけだ。もっとも、数学を捨て歴史を選んで勉強するといった部分的自律性はもてる。そこで自分では結構自由な選択ができ、自律的人間だと錯覚するようだ。中には自己に目覚める中学生ごろに、ママに反抗し、学校でツッパリグループのリーダーに転向する子らもいる。ママの指図の不自由さから脱出しようという無意識な欲求が作用する。


 いかにも自由を求める心のようにみえるが、不自由さを脱してツッパってみても、これは逃避行動であって、自律的行動ではない。新しい人生目標を求める自由とは異なっている。逃避、攻撃行動は、防衛反応といわれている無意識的メカニズムに支配されている。したがって、いくら逃げても、攻めてもそのことによって人間は進歩しない。目的をつかみ、前進する自発的行動こそが、価値あるものといわざるを得ない。


 交流分析では、その終局的な目標として自律的人間をめざしている。人間が両親からうけた指図をふみこえて、自分自身で自分を支配し、自分の人生を自分で決定し、自分の行動に責任をもつという自律的人間をめざすことこそ、お互いの生きる意味ではないかというのである。



 本当の自己実現とは?


 自律的人間というと、自己実現という概念を思い出す。日本ではしばらく前からこの言葉がやたらに使われ出した。

「会社の指図にのみ従っている中高年者をみると、全く奴隷ですよ。僕らは自己実現します。まあ、みていてください」


 などと若手社員がいう。みていると、こうした人たちは課長や部長に食いつくことが自己実現だと思っているところがある。勝手なやり方で勝手に売ってくるセールスマンも同じである。一匹オオカミを自認して、やたらとお客とのトラブルを起こす。自己主張と自己実現を間違えているのである。


 自己実現という概念は、アメリカのゴールドシュタインという学者がかなり前に主張し、一般化したものである。彼は“有機体がその最高の成果を達成しようとする傾向”を自己実現と名づけた。日本人の多くの人は、むしろマスローの要求のヒェラルキー仮説からこの言葉を知っているようである。つまりマスローは「生理的要求、安全の要求、所属と愛情の要求、自尊の要求」に加えて「自己実現と超越」を最終のゴールとしてあげたことである。また自己実現している人の特徴についてかなり多くのものをあげて、その概念の意味を明確化している。その主要なものの中に「高度の自律性をもつこと」があがっている。しかし、自己実現という日本語に対して、自分がその能力を発揮して最高の成果を達成すること、即ち偉くなること、成功することと読み違いをする可能性がある。一流大学に合格した、一流企業の重役になった、というのが自己実現というように安易にとられているのがこの言葉である。


 フランクルは「意味への意志」という論文の中で、自己実現にふれてこう述べている。

「これは主に自己実現が、力とか快楽のように単に副次的効果として得られるのみで、直接志向の対象とすればするほど、手に入らないものだというような種類の現象に属する、という事実によるものである」


 として自己実現(している人)を目的とすることに批判を加えている。むしろ人生の意味を求める動機の副産物としてとらえるべきだという。人生の意味を求め、それを達成する過程の中で、自己自身を実現するものだというのである。


 フランクルは人生の意味を求めてゆく過程の中で、他の人とかかわりをもつことを強く主張している。

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