『腐敗の時代』
[著]渡部昇一
[発行]PHP研究所
偏見は言語から生み出されているのか
「クォ・ヴァディス」という映画を生徒と一緒に見に行ったことがある。当時、私は大学院生であると同時に、あるカトリック系女子校の英語の教師でもあった。ネロがローマを焼き(この史実については異論があるが小説や映画では彼がそうしたことになっているのでそれに従っておく)、それに対する非難が市民の中に起ると、彼はそれをクリスチャンのせいにしてしまう。それで映画はキリスト教の迫害のシーンになる。有名なネロによるキリスト教徒迫害であるが、こういうシーンはカトリック教徒としては、そう平静に見ておられない。特に修道女たちは、翌日、学校の朝の時間に、キリスト教徒としての心得を、この映画に言及して生徒たちに話していた。
よくアメリカ映画になったり、あるいは歴史の本に出てくるので、ローマにおけるキリスト教徒迫害のことは有名である。しかし教会史の専門家の話によると、キリスト教の迫害が最もはなはだしく、しかも長期にわたり、しかも犠牲者の数がもっとも大きかったのは日本であろうということである。
われわれは日本史の時間で、キリシタン迫害のことをそれほど教えられることはない。しかしキリシタンに対する拷問の種類の多いこと、苦しめ方の工夫がゆきとどいていることなど、日本は世界に冠たるものがある。日本の柔道や護身術が体系的にできていて、よくもこう工夫したものだと感心させられるが、キリシタンの拷問もそれに似ていて、日本人はこういうことに秀れているのではないかと思いたくなることもある。それにキリシタン迫害の期間の長さと徹底ぶりも世界に類がないそうである。キリシタンは鬼利支丹などとも書かれ、邪教中の邪教として、見つけ次第、あるいは疑われ次第、拷問され、殺されたのである。
そうした迫害は徳川幕府の続いた間中続き、しかも明治維新になっても廃止されない。あまり一般の人には知られていないことだが、明治政府になってからも「長崎のキリシタンの指導者たちを磔刑にし、その他の者約三千人は尾張以西の十万石以上の諸藩に分配し監禁せしめ、各藩主に生殺与奪の権を与える」という案が、木戸孝允らによって決定されたのである。この会議には井上聞多、大隈重信、三条実美らも加っていた。ただしこの決定は、いざ実行の段になって外国の干渉を招くという反対が出て、そのまま実行されることはなかった。とはいうものの磔刑が除かれただけで、多くのキリシタンは諸藩に分散・監禁されたのである。
明治になってからもこのようであったキリシタン迫害は、昭和になってもすっかりはなくならなかった。戦後最高裁判所長官になられた田中耕太郎博士も、戦前においてはキリシタン(カトリック)であるというだけの理由で、その学問的研究に対して与えられることになった学士院賞がひっこめられてしまったのである。カトリックの大学である上智大学は靖国神社問題などもあって、軍部の露骨な反感の対象となって、廃校寸前まで追いつめられたのであった。だから私が戦後、上智大学に入学するちょっと前の頃の卒業式は、学長室で行なわれたくらいである。全学の卒業生が学長室に集まることができるぐらい人数が少なかったのである。これは戦前・戦中のカトリック大学に対する弾圧の程度を示すものである。私が入学した頃ですら、上級生のクラスでは、在学生が英文科でたった一名といった調子であった。
日本にキリシタンを持ってきたのは、カトリックの中でもイエズス会という修道会である(上智大学はこの修道会創立)。そしてこのイエズス会とカトリック教徒ぐらい、十六世紀以来しばしば禁圧され、弾圧され、大量虐殺された日本人はいないと言ってよいことは上にあげた例からも明らかであろう。イエズス会やカトリック教徒が弾圧されたのは何も日本ばかりではない。イギリスにおいてはエリザベス朝以来、イエズス会士は見つけ次第、もっとも残虐な死刑に処され、カトリック教徒は十九世紀になるまで、オクスフォードやケンブリッジ大学に入学できなかったのである。
ところでこのイエズス会を意味するジェズイット(Jesuit)という言葉を、たまたま私の机の上にある『ニューワールド英和辞典』(講談社)でひいて見ると、「イエズス会の会員」という意味のほかに、「陰険な人、偽善者、陰謀家、策略家、詭弁者」などという、ひどい語意がずらりと並んでいる。