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(2021/11/26 追記)

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師匠 歌丸 背中を追い続けた三十二年
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ルポ・エッセイ
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第三幕 二ツ目

『師匠 歌丸 背中を追い続けた三十二年』
[著]桂歌助 [発行]イースト・プレス


読了目安時間:45分
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二ツ目前夜



 歌丸に弟子入りして四年。日本がバブル景気に沸く一九九〇年は、世界にとって激動の時代だった。


 ミハエル・ゴルバチョフがソ連初の大統領に就任。「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」を旗印に、ソ連は自由に向かって変革の道を歩み始めていた。それにともない東西冷戦も終結を迎えようとしていた。


 前年十一月二十五日には、わたしが歌丸と初対面した東陽町の寄席「若竹」が閉館した。九〇年から池袋演芸場が改築のため三年間休館していたから、落語家にとって上がる寄席が少なくなっていったころでもあった。


 わたしは立前座を一年ほどつとめ、すでに二ツ目を射程に入れている。それは同期のがた治、よー丸も同じだ。


 二ツ目になるとどうなるのか?


一、高座で羽織を着ることができる

二、寄席の雑用から解放される

三、師匠の家に毎日、行かなくてもいい

四、自由に仕事をとることができる



 二ツ目になってやっと落語家として一人前。「自由の翼」を得て、真打昇進に向けて、さらに研鑽を積み重ねることになる。


 会社員ならどうか。入社五年目。そろそろ責任のある仕事を任されるころだろう。


 夜席が終わって、新宿で一年ぶりに大学時代の唯一の友人・高村と飲んだ。


 高村はわたしと同じ新潟出身。将来は父親が経営している建設会社を継ぐために、現在は建設会社で修業中の身だ。


 割り勘にして焼き鳥屋で軽く飲んで食べて、高村に連れていかれたのが歌舞伎町の雑居ビルの五階にある「行きつけ」だというクラブ。入り口には「会員制」の看板が掲げられてあった。高級そうなスーツを着こなしている高村に対して、わたしは着たきり雀のジーパンとジャンパーだ。

「いらっしゃい。高村さん、きょうはおふたりね」

「うん。大学の同級生なんだ」

「どうぞ、あちらへ。すぐに由美ちゃんよこしますからね」


 入り口と客席とのあいだに、これでもかってぐらい特大の花瓶に飾られている生花をよけるようにして、肩出しのドレスをあでやかに着こなした責任者とおぼしき女性が席に案内してくれた。


 ステージではネクタイを外した中年の客が、赤いドレス姿の女性とカラオケで「ぴーひゃら、ぴーひゃら」と調子はずれの声で歌っている。アニメ「ちびまる子ちゃん」のテーマだ。ちまたでは大人も子どももバブル景気に浮かれるように、この歌を狂ったように歌っていた。


 ボックス席に座るが、居心地は当然よくない。


 店じゅうに香水の香りが漂っている。色香に惹かれて、あぶく銭をつかんだ男たちが一夜の享楽を求めて集まってくるのだろう。


 昔、吉原、いまは銀座、新宿。時代とかたちは違っても「遊びの世界」に変わりはない。

「高村さん、お待たせ」

「ああ、由美ちゃん、きょうは僕の親友を連れてきたよ」

「由美です。よろしくね」


 黒目がちの瞳が、石田ゆり子さんに似ているその子は、高村にぴったりと身を寄せて座った。こんなに洗練された女性のいる店の支払い、高村大丈夫かと心配になるくらいだ。わたしのとなりには久美子と名乗る地味な顔をした子が座り、ウイスキーの水割りをつくったり、トイレに立てば一緒についてきて出口でおしぼりを渡したり、かいがいしく面倒を見てくれた。


 四年間の前座修業中、そういった雑用はすべてこなしているからついつい身体が動きそうになる。

「ねえ、こいつの仕事、何か当ててごらん」


 酒が進んで、高村がふたりの女の子に言った。

「えーっ、なんだろ」と遠慮のない視線をわたしの頭のてっぺんからつま先まで注ぐ。

「工事関係?」

「なんで。僕が建設会社だから?」

「格好がラフだし……」と由美は言葉を濁す。

「わからないよな。当たり前だ。こいつは落語家」

「落語家!?」とふたりは素っ頓狂な声を上げた。

「じゃあ『笑点』に出ているの?」

「いや、わたしは。でも師匠が出ています」

「誰かしら?」

「桂歌丸……」

「ああ、真ん中へんに座って、いつも難しい話をするおじいさんね。髪の毛の薄い。あっごめんなさい。師匠のことを……」


 由美ちゃんは屈託がない。だがそのとおりだから何も言えない。

「落語家さんなら、何かおもしろい話をしてよ。お願い」


 落語家が普段からおもしろい話ばかりしているとはかぎらない。その逆が多い。


 一時間ほど飲んで、横浜へ帰る終電の時間が近づいてきた。

「高村、終電があるから帰るよ。ここの払いは……」

「払いは気にするな。会社の接待費でどうにでもなる。あと少し付き合えよ。タクシー券あるし。十二時で閉店だから、この子たち連れて寿司でも食いにいこう。馬の耳にも人参ってね」とバブル社員は、変な冗談を言った。


 日当千五百円の立前座と、地上げに狂奔する時代の花形、建設会社の社員とは金銭感覚が違う。いったいその夜、高村はいくら使ったのか。十万円はくだらないだろう。


 アフターで連れ出した女の子たちと一緒に寿司までおごってもらい、「今度、おまえの落語聴きにいくわ。がんばれよ」と激励の言葉とともに高村からもらったタクシー券を使い、歌丸の家から歩いて七分のところにあるボロアパートの一室にたどり着いたころには、夜が白み始めていた。


二ツ目昇進



 歌丸は当時、落語芸術協会の理事で、会長は桂米丸。きょうは協会幹部の師匠たちが出席する理事会が行われる。わたしの二ツ目昇進が決まるとすればその席で、だ。


 眠い目をこすりながら、朝、歌丸の家へ顔を出し新宿末廣亭へ向かった。わたしはその日、立前座として楽屋の仕事をしなければならない。その当時、落語芸術協会の事務所は新宿にあった。午後、ここで師匠連が十四、五人集まって理事会が開かれている。


 協会には派閥はないが、自分の弟子を「そろそろ二ツ目にしてください」と言う師匠はいない。

「歌丸さんのところの歌児は、もう入って四年たっているけど、年季もいいんじゃないかね」とほかの師匠に言わせるようにする。

「いやまだまだウチのは小僧っ子ですから」

「まあ、それでも……」って。


 まるで落語「()(しゅう)」の殿様だよ。


 古今亭今輔の一門は一番上に米丸がいて、二番目が三遊亭(えん)()、その下に歌丸。圓右は禿頭で、NHKのお笑い番組「お好み演芸会」で「太陽の使者です」などと言って人気があった師匠だ。


 圓右が前座若手の育成係のような役目を担っていて、わたしのことも気にかけてくれていたようだ。


 理事会が終わって、圓右は末廣亭で出番がないのに、楽屋にわざわざ顔を出してくれた。

「歌児くん、六月から二ツ目が決まったからね」って。

「えっ、本当ですか。ありがとうございます」


 天にも昇る気持ちとはこういうことだ。これで自由の身になれるって。まるで釈放が決まった懲役囚だ。それぐらい二ツ目に上がるというのは落語家にとってうれしいものだ。真打に上がるよりもはるかにね。これはほかの落語家に聞いてもそう言うだろう。


 圓右も二ツ目になったときのうれしさを経験しているから、吉報を少しでも早くわたしに知らせたいとわざわざ楽屋を訪ねてくれたんだ。


 まずは親に報告だ。


 わたしは学校の先生になるという親との約束も果たさず、落語家の道を目指した不肖の息子だ。感謝してもしきれない。


 楽屋のピンク電話に十円玉を入れるのももどかしい。


 実家が経営している土産物屋の番号をまわし、呼び出し音が鳴って、しばらくして電話口に出たのは母だった。

「あれ、どうしたの。こんな時間に……」

「あの、きょう二ツ目になるって言われたから」

「まあ、よかったじゃない。いつから?」

「六月から」

「なら今度は見に行かないとね。歌丸師匠にちゃんとお礼を言うのよ。そのときはお父さんと一緒に見に行くからね」


 喜ぶ母の声を聞いて、わたしはさらに舞い上がった。


まずはおかみさんに



 わたしの頭の中には、五年前の秋、入門のお願いをしに歌丸の家を訪ねた日の記憶がよみがえってきた。(うじ)()(じょう)もわからないわたしを歌丸につないでくれたのはおかみさんだ。わたしが二ツ目になったと知ったら、きっと喜んでくれるだろう。


 おかみさんの顔が浮かんだ。


 十日町の両親が生みの親だとすれば、歌丸夫妻は育ての親だ。


 口べたで、気の利いたことは何も言えず、細かい気配りもできず、大食いで、早食いのわたしをいままで温かく見守ってくれたのはおかみさんだ。

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