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天皇と皇室の謎99
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歴史
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3章 歴史上の天皇をもっと知る

『天皇と皇室の謎99』
[著]かみゆ歴史編集部 [発行]イースト・プレス


読了目安時間:1時間5分
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33 最初に「天皇号」が使われたのはいつ?



 歴史の教科書では、ごく普通に目にする「天皇」という呼称だが、そもそも「天皇」とは、なにを指す語なのだろうか。


 ()()(せん)の『史記』によれば、秦の(えい)(せい)(始皇帝)が中国を統一した際、伝説上中国を治めたとされる「天皇、地皇、(たい)(こう)(人皇ともいう)」の「三皇」より「皇」の一字を取り、はじめて「皇帝」を称したとする。これが秦の始皇帝であり、つまり、この頃の「天皇」とは、伝説上の神のような存在だったことがわかる。


 その後、王朝が変わっても、中国の統治者たちは、自身を「皇帝」、あるいは、伝統的に「天命を受けて世を統べる者」を意味する「天子」と称しており、「天皇」の号を正式に使用したのは、唐の3代皇帝・(こう)(そう)が最初である。


 では、日本で「天皇」の号を使用しはじめたのは、いったい、いつ頃のことなのだろうか。残念ながら、はっきりとしたことはわかっていない。ただ、主な説は二つあり、一つは、その使用のはじめを(すい)()朝とする。


 根拠となったのは、法隆寺金堂の薬師如来像の(こう)(はい)の銘文や、中宮寺の「(てん)寿(じゅ)(こく)(しゅう)(ちょう)」の銘文で、そこに「天皇」の文字が使われていたからである。しかし、近年の調査の結果、この二つは推古朝よりも後につくられた可能性が強いとして、推古朝説の根拠は揺らいでしまった。


 そこで登場したのが、(てん)()()(とう)朝を「天皇」の呼称使用のはじめとする説だ。この根拠は674年に高宗が「皇帝」の号を改めて「天皇」と称したことに由来する。この頃日本では、「壬申の乱」に勝利した天武が即位したばかりであり、彼は豪族の力をそぎ、天皇へ権力を集中させるべく、改革の意欲に燃えていた。その改革のお手本となったのは、当然ながら当時の先進国の唐であり、「天皇」の号もまた、律令などとともに、日本に導入されたとするのである。平成10年(1998)、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で発掘された、天武・持統朝期の出土品の中に、「天皇」と記された木簡があったことも、この説を裏付ける有力証拠とされている。


 だが、現状では、どちらの説にも、決定的な確証はない。ただ、「天皇」の号が使われはじめたのが、推古朝であれ、天武・持統朝であれ、日本が対外的に、独立した国家として成り立つための改革に燃えていた時期であったことは、非常に興味深い。


34 「上皇」と「法皇」では何が違う?



 国家の最高統治者は、「天子」、「天皇」、あるいは「皇帝」と呼ばれた。どれも「天命を受けて国を治める者」という意味では同じだが、唐の律令を模して制定された「(たい)(ほう)(りつ)(りょう)」の「儀制令・天子条」によれば、「天子」は「祭祀で称するもの」、「天皇」は「(しょう)(しょ)で称するもの」、「皇帝」は「()()(国内外)に対して称するもの」と規定されていた。もっとも、実際の使用では、それほど厳密な区別はなされていなかったようだ。


 特筆すべきは、「大宝律令」に、唐の律令にはない、「(だい)(じょう)天皇」についての規定があることだ。そこには「太上天皇」は「譲位の帝を称するもの」とあり、その地位は天皇に準ずるとされており、皇后、皇太子以下、すべての者は天皇に対するのと同じように臣下であると定められている。


 さらには奏上の際に使用される敬称も「天皇」と同じ「陛下」であり、その命も「詔」「勅」とするとある。つまり「太上天皇」とは、天皇と同格に近い存在として規定されているのだ。この「太上天皇」は、略して「上皇」、「太皇」とも呼ばれる。


 日本で最初に「太上天皇」と称されたのは、40代天武天皇の皇后で、その死後、女帝として即位した41代持統天皇である。697年、彼女は、孫の()()/軽皇子(42(もん)()天皇)に譲位して「太上天皇」となった。この時、文武天皇は、わずか15歳。「大宝律令」が制定されたのは701年だが、その前身である「飛鳥(あすか)(きよ)()(はら)(りょう)」は689年に頒布されており、年若い新天皇を「太上天皇」として後見することを見越した持統が、この条を日本の律令に加えたのかもしれない。

「大宝律令」によれば、「太上天皇」は、新しい天皇に譲位した「さきの天皇」を指しており、もともとは譲位とともに自動的に呼ばれる号であった。ところが(こう)(にん)14年(823)、52()()天皇は、異母弟の大伴親王(53(じゅん)()天皇)に譲位した際、「太上天皇」の号を辞退し、宮城外に移り住んだ。そこで淳和天皇は、改めて「太上天皇」の号を贈ったのである。このことから、以降は譲位した「さきの天皇」は宮城外へ居を移し、新天皇の方から「太上天皇」の号を贈ることが通例となった。


 また、「太上天皇」が出家すると、「太上法皇」と称した。略して「法皇」ともいわれる。在家か出家かの差だけで身分的な違いはないが、「太上法皇」の方は、法的に規定された号ではない。平安中期の宇多天皇が、最初に使用したとされる。


35 「元号」を変えるのはなぜなのか?



 元号(年号ともいう)とは、支配者の統治の年代を示す紀年法の一種で、中国の前漢の武帝が、紀元前115年に「(けん)(げん)」を定めたのが、最初の使用とされる。


 日本で最初に使用された元号は、645年に36(こう)(とく)天皇が立てた「大化」であり、その後、「(はく)()」と「(しゅ)(ちょう)」という二つの元号の後、しばらく断絶はあったものの、701年に立てられた「大宝」から現在の「平成」まで、途切れることなく続けて使用されている。その数は全部で247(南北朝期の双方の元号を含む)に及び、平成31年(2019)に今上天皇が皇太子に譲位されれば、248個となる。


 では、その中で一番長く使用された元号は、何だろうか。答えは「昭和」で、通算62年と14日使用されている。だがこれは、明治以降に「(いっ)(せい)(いち)(げん)の制(天皇の在位中に元号を変えない)」が定められたためで、明治より前の元号最長記録は、室町時代の北朝最後の天皇である100代()()(まつ)天皇が、天皇在位中から院政期にかけて使用した「(おう)(えい)」になる。この元号は、通算3310か月と8日も使用されている。


 じつは、その通算期間が20年を超える元号は、明治より前の243個の元号の中で、「(えん)(りゃく)」「(えん)()」「(しょう)(へい)」「応永」「(てん)(ぶん)」「(かん)(えい)」のわずか六つしかない。その中でも30年を超えたのは、「応永」のみである。元号の使用年数を平均すると、1元号あたり4、5年ほどでしかなく、最も短いものでは、鎌倉時代の87()(じょう)天皇の「(りゃく)(にん)」が、2か月と14日しか使用されていない。では、元号はなぜ、これほど頻繁に変更されたのだろうか。


 元号を変えることを「改元」というが、日本の為政者たちは、人心を一新し、時代の雰囲気を変えるため、たびたび改元を繰り返してきた。最もポピュラーなものが、新しい天皇が即位した際に行われる「(だい)(はじめ)改元」だろう。この他にも、めでたい兆しが現れた際の「(しょう)(ずい)改元」がある。「白雉」「()(どう)」「(よう)(ろう)」「(じん)()」「(てん)(ぴょう)」など、飛鳥・奈良時代から平安初期にかけての改元には、この「祥瑞改元」が多い。後に多くなるのが「(さい)()改元」で、大地震や大火、飢饉や疫病、戦乱などの際に、元号を変えることによって、こうした厄災を断ち切るという思いが込められている。さらには、(こう)()の年の「(かく)(れい)改元」、(しん)(ゆう)の年の「革命改元」も多い。これは、中国の『()(しょ)』にある「甲子の年には令が(あらた)まる(革令)」「辛酉の年に命が革まる(革命)」という思想からきたもので、これらの年に起きるとされる政治上の変革を予防する意味で、元号が改められたのである。


36 ヤマト政権で王族の内婚化が進んだ理由とは?



 4世紀末頃から近畿地方に成立していたとみられるヤマト政権だが、現在の私たちが思い描く「国家」とは、かなり趣を異にしていた。日本を統べる「(おお)(きみ)」の権力も、古代中国の「皇帝」が持っていたほど強力なものではなく、畿内周辺を基盤とする有力豪族の意向を無視できない、部族連合的な色彩が濃かった。そのため新しい「大王」の即位をめぐっては、王位継承権を持つ王子たち同士が争うにとどまらず、王子たちの母方に属する有力豪族たちとの権力闘争に発展することが多かった。5世紀末の(おお)(はつ)(せの)(おう)()21(ゆう)(りゃく)天皇)が、即位をめぐって有力豪族である(かつら)()氏と戦ったのも、その顕著な例といえるだろう。こうした争いをなくすには、「大王」の権力の強化と、王権譲渡のための確固たるシステム化が必須であった。王権強化のためには、まず有力豪族の影響下から逃れる必要があり、その方法の一つとして、王族の内婚化がすすめられたと考えられる。


 そのため7世紀に入ると、王族の男たちは、兄弟の娘や異母姉妹を妻にすることが多くなっていく。29(きん)(めい)天皇の跡を継いだ30()(たつ)天皇は、同じく欽明天皇を父に持つ異母妹の(ぬか)()(べの)()()33代推古天皇)を皇后に、敏達天皇の異母弟で、その後を継いだ31(よう)(めい)天皇も、異母妹の(あな)()(べの)(はし)(ひとの)(ひめ)(みこ)を皇后にしている。ちなみに用明天皇と額田部皇女の母は、()(がの)(いな)()の娘の(きた)()(ひめ)であり、穴穂部間人皇女の母は、堅塩媛の妹の()(あねの)(きみ)である。そのため、この時期、蘇我氏が絶大な権力を握ることになり、豪族の影響力を完全に排除したとは言い難いが、それでも王権の強化は、ゆっくりと進んでいった。


 推古天皇の次の舒明天皇は、敏達天皇の孫で、母親も敏達天皇の娘である。その皇后の(たからの)(おう)(じょ)35(こう)(ぎょく)天皇/37(さい)(めい)天皇)も、やはり敏達天皇の孫にあたる()(ぬの)(みこ)の娘であった。さらに、その宝女王が生んだ(おお)()(まの)()()(天武天皇)は、同母兄の(なかの)(おお)(えの)(おう)()38(てん)()天皇)の娘である(おお)(たの)(ひめ)(みこ)(うら)(のの)()(らら)(持統天皇)の姉妹を前後して妻にしており、これは兄弟姉妹間ではなく、叔父・姪の結婚ということになる。また、天智天皇と鸕野讚良の息子である(くさ)(かべの)()()は、中大兄皇子の娘の()(への)(ひめ)(みこ)43(げん)(めい)天皇)を妃にしている。つまり阿閇皇女(元明天皇)と鸕野讚良(持統天皇)は、嫁と姑の関係であると同時に、異母姉妹でもあったわけで、さらに草壁皇子と阿閇皇女(元明天皇)は、甥とオバの関係になる。このように当時の皇族間で、異母の兄弟姉妹間、オジ・姪やオバ・甥間の結婚は珍しいことではなかった。

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