読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-1
kiji
0
1
1223874
0
こまってしもうた 忘れてしもうた
2
0
0
0
0
0
0
ルポ・エッセイ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
プロローグ

『こまってしもうた 忘れてしもうた』
[著]安藤りつ [発行]PHP研究所


読了目安時間:4分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


 よく晴れた春の日の朝、求人の面接で老人ホームに向かった。


 のんきに生きてきた私が離婚を決めて、のんきにしている場合ではなくなった。不安になろうと思えばきりがなかった。


 面接に向かった老人ホームは、東京近郊の介護付き有料老人施設。このような施設が全国で四〇〇〇強、必要としている高齢者が二〇万人強といわれ、通常は終身で入居する施設だ。


 介護ヘルパーの資格を持ってはいたが、強い意志でとったものではなく、活かすことなく長いこと本棚の端に隠れていた。その資格証書だけがたよりの面接だったが、なんとか採用された。


 勤務に()いて初めて私に声をかけてきた利用者は、(けわ)しい目をした男性だった。

「十時です。十時は重要な意味を持ちます」


 そう言って、私を(いち)(べつ)して前のめりに歩いていった。


 値踏みするようにすまして(あい)(さつ)をしてくる人もいれば、()(げん)な目で私を追っている人もいた。研修で老人施設を訪問したことはあったが、実際に「助けて下さい」といきなりすがってくる人に、私は瞬間的に恐怖を覚えた。


 その恐怖が解けたのは、助けを求めてくる真剣な表情だった。


 記憶を手放した認知症の高齢者は、自分が壊れていく自覚のある人、それさえなく空想の中だけが現実と化している人など様々だ。それでもひとりひとりには、彼らの数十年の歴史に(つちか)われた記憶がしっかりと残っていて、健常の私たちと同じように、その世界をあたりまえに生きている。


 最近あちこちで建設されている大型の有料施設では、一般棟と認知棟とを分けていて、食事の時間や(だん)(らん)スペースが別になっているところもあるが、私が勤務しているホームは、健常な高齢者と認知症を発症した人が同じ時間帯のメニューで日常生活を送っている。


 利用者は、ついのすみかとして個々の居室を持っているが、共同生活をしているようなものだ。


 いじめに似たことも起こり中傷もあるが、人としてあるべき礼儀や、人を守ろうとするやさしさを見ることもある。老いた体に、かろうじてしがみついている肉のように、記憶も言葉の数も()せ細っていくが、それでも人は、人と会話することに救いを求めるということを教えられる。


 約三〇名の入居者に対し、在籍しているスタッフは常駐する看護師を含め一七名。


 夜勤だけの契約もあれば、日勤のみの契約もある。全職員のうち、半数近くが派遣を含めたパート職員だ。


 経営者は、本社として都内のビルに一室を構えていて、グループホームと呼ばれる認知症高齢者向けの施設もいくつか経営している。各施設からは、日報を毎日本社に送信するので、本社はその日報で現場の把握をする。


 施設長という立場の人が週に一度の本社会議に出席し、本社からの連絡は施設長を通してスタッフにおりる。日帰りの介護施設であるデイサービスの開設も進めていて、役員が現場に顔を出すことはほとんどない。


 施設長は、入退所に関する事務的な契約や、利用者の家族との連絡に従事することが多いため、主任と呼ばれる人が現場を統括している。


 勤務を始めた当時、私は離婚を決めた直後で、何に対しても臆病になっていた。子供との生活を支えていくには、まず臆病な心をしっかりと立ち上がらせることだった。


 次から次へと新しいおとぎばなしに出合うような認知症の世界に触れることは、弱くなっていた気持ちからの逃避だったのかもしれない。


 虚像の世界が彼らにとっての真実だとすれば、私もまた、その虚像の世界の中で少しずつ現実の力を取り戻すことができた。彼らの世界に立ち入らせてもらうことで、欲や嫉妬で言い争ったすべてが滑稽な()(ごと)であるように思えた。


 季節も家族も忘れてしまった認知症の高齢者は、真冬にひまわりの花が並ぶ花屋のように、アンバランスだが力強い。認知症の虚像の世界は、彼らにとっては(しん)()に生きる日常であって、私たちの役目は、その虚像の世界に徹底して寄り添うことしかないようだ。


 勤務して三年目の春。窓際に立った背の低い老女が、

「あんなところで白い鳥が腰をぬかしていますよ」


 うれしそうに庭を眺める。


 視線の先を探っても、鳥どころか白いものさえ見当たらない。紫色のモクレンはところどころが茶色く汚れ、桜の木には若く芽吹いた緑色の葉が見え隠れしている。

「あなたも鳥がお好きなのね」


 見上げる顔があどけなく笑う。

「ごらんなさい。おてんとさまが、あんなにたくさん降ってきましたよ」


 まぶしく眺める庭いっぱいに、桜の花が散っていく。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:0文字/本文:1884文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次