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こまってしもうた 忘れてしもうた
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ルポ・エッセイ
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元新聞記者、石塚さんの怒鳴り声

『こまってしもうた 忘れてしもうた』
[著]安藤りつ [発行]PHP研究所


読了目安時間:19分
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 山を切り崩した住宅地に入る手前に、コンビニエンスストアがある。古くから酒屋であった店が数年前に様変わりしても、近隣からは今も当時の呼び名のままに「八千代さん」と呼ばれている。


 広い駐車場には大きな桜の木があって、朝はたいていご主人が竹ボウキを抱えて桜のまわりを掃除している。

「いってらっしゃい」


 ご主人の威勢の良い声に送られて私は仕事に向かう。


 八千代さんと小さな公園を隔てて四階建てのサンガーデンがある。エントランスに生けられた花がオレンジ色のスポットライトを(ぜい)(たく)に浴びていて、(しよう)(しや)なマンションのようだ。


 一階には事務所と応接室、職員の更衣室があり、二階にはケアステーションと浴室。いくつかの居室と、長い廊下の奥には食堂。一日の大半を部屋に戻らずに過ごす人も多いので食堂は共有のリビングでもある。三、四階は居室だ。


 (はい)(かい)や放浪の事故を防ぐために、胸にぶら下げているICカードがなければエレベーターも階段に通じるドアも利用できない。



 上下のジャージに着替えてスタッフのミーティングに出る。


 毎朝、夜勤帯からの申し送りは十五分ほどで終わる。


 日勤のスタッフが集まっているケアステーションに、(いし)(づか)(かん)()さんが週に何度か決まって顔を出す。


 キュッキュッと規則的な音が近づいてくる。運動靴とコルクの床とが擦れる音。お出ましお出ましと、私たちには笑いがこぼれる。


 ノックの音も威勢が良い。

「会議中に失礼いたします」


 四六時中、暴言を吐いているのに、こんなときの石塚さんは行儀が良い。勢いよくドアを開けて、

「本日は入浴の日です」

「申し送り中なのでドアを閉めて下さい」


 介護主任がファイルに目を落としたまま言う。主任は三十代半ばの男性で、机上の仕事も多いが、現場の仕事にも追われる。

「三〇一号室の石塚です。血圧を測って下さい」

「九時になったら測ります」

「入浴の日なので早く測って下さい」

「九時まで待って下さい」


 主任がドアを閉める。


 新聞記者だった石塚さんは、決めたことが時間どおりに進まないと(げつ)(こう)する。


 昼食後にはりんご半分、三時にはヨーグルト、時間を決めてミネラルウォーターを一日に二リットル。これらは毎週決まった曜日に家族から届く。正月だろうと変わらない。


 十時のお茶、その後十時半から行う体操も、三度の食事も五分前からカウントダウンが始まる。すべてが時間割りだ。排便の時間まで決めていて、ワセリンまみれにした指で(こう)(もん)から便をかき出す。


 項目も時間も遅れることは許されない。


 再びのノック。

「会議中に失礼します。三〇一号室の石塚です」


 主任は申し送りを続け、私たちは必要な事項を書き留める。

「今日のぼくのお()()の介添人は誰でしょうか」

「石塚さん、九時まで待っていて下さい。介添人は()(さかい)さんです」

「キャンキャン女ですか。銀子さんを期待していたんですが」


 目を伏せて困ったように言う石塚さんに、私たちは吹き出した。


 石塚さんがキャンキャン女と呼ぶ小堺さんは、日勤のパートで勤務するヘルパーで、手際は良いのだが自分本位なところがある。かん高い声をしてお(しやべ)り好きな明るい主婦だ。


 一人息子を有名私立中学に進学させた小堺さんは、学費に追われてフル稼働だ。


 名指しで敬遠された小堺さんは、

「失礼しちゃうわね、こっちだって選べるものなら選びたいわよ」

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