『こまってしもうた 忘れてしもうた』
[著]安藤りつ
[発行]PHP研究所
「私の早合点ならいいんですけど」
九十三歳の村山スズさんが近寄ってきた。二日ぶりに会ったのに、ずっと前から私がそこに立っていたかのように言う。
「おはようございます」
腰を低くして言うが、挨拶は返らない。
小さな顔は、入れ歯がはずれているのでますます小さく縮まっている。
わきにはさんでいるのはお馴染みの紫色をしたちゃんちゃんこ。太い毛糸で編んだちゃんちゃんこを片時も手放さない。丸めたそれを守るように抱えて憂鬱そうだ。
「何か心配なことでもあるんですか?」
「心配もなにも、どうも恐ろしい悪だくみがあるようで」
「悪だくみ?」
「えぇえぇ。あそこにね、たくさんの人がいるでしょう。私が餅をつくように言われたんですよ。だけどお断りしたら皆さん怒ってしまって」
「きっと誰も怒ってなんかいませんよ」
「いいえ。誰もかれも怒っていて、私はどこに帰ればいいのか」
廊下の先に見える食堂のほうを探るように眺めている。
話題を変えるようにして、
「これ、何を持っているんですか?」
ちゃんちゃんこを指した。
スズさんはふっと笑って、
「これですか? これは大事なお餅を隠しているんですよ。娘に食べさせようと思って」
ほがらかにほほえむ。