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こまってしもうた 忘れてしもうた
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ルポ・エッセイ
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元重役、威張る菊じぃ

『こまってしもうた 忘れてしもうた』
[著]安藤りつ [発行]PHP研究所


読了目安時間:18分
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 マダムと呼ばれている(ふじ)()(のぶ)()さんは、書道の先生をしていて、富士見というところに住んでいた。古くからの立派な屋敷が並ぶ地域だ。


 いつもぶら下げている(あい)(いろ)(きん)(ちやく)(ぶくろ)の中には、丸めたティッシュペーパーと一緒に、小さなメモ帳が入っている。すべての文字を何度も何度もなぞった跡がある。


 ()() 水曜日 入った


 月水金 女 風呂


 朝食 七時半


 十時 お茶 体操


 整ったきれいな字が、鉛筆で何度も上書きされて、真っ黒く穴の開いたところもある。


 お風呂から上がったマダムを居室に誘導する廊下で、

「あなた、どこに住んでるの?」


 立ち止まって私に尋ねる。

「すぐ近くです」

「そう。私は富士見」

「すてきなところですね」


 私が言うと、整った口元が薄く開いて、

「まぁまぁね」


 満足そうに言って、

「お風呂は?」


 顔つきを変えずに聞いてくる。

「今、入りましたよ」


 マダムは一瞬で顔を(ゆが)ませ、

「入ってないわよ」

「髪を触ってみて下さい。ほら、しっとりしているでしょう。お肌もすべすべできれいですよ」

「いいかげんなこと言わないでよ」


 握っている()れタオルを、私もそっと握って言ってみる。

「このタオル、お風呂で使ったからお部屋で干しておきましょうね」

「お風呂にも入ってないのに、誰が濡らしちゃったの? 今日、何曜日?」

「金曜日ですよ」

「月水金は女でしょう? どうしてお風呂ないの?」


 私はしばらく黙ってから、思いついたように言った。

「金曜日だからお風呂に入りましょうか」

「いつ?」

「今。ちょうどタオルも持っているし、これから入りましょう」


 風呂上がりの汗ばんだ額を押さえながら、

「今なんて、おなかがすいて入れないわよ」

「入りましょうよ」

「朝ごはん食べてないのよ、呼びに来てくれないんだもの」

「召し上がったはずだと思うけど」

「食べてないわよ、どうして朝ごはん呼びに来ないの?」


 マダムは泣き出しそうに訴える。

「おなかがすいてるの?」

「あたりまえでしょ」

「じゃ、お昼にたくさん食べましょう」

「そんないっぺんに食べられるわけないでしょ。どうして朝ごはん食べさせてくれないのよ」


 エレベーターの中で、巾着から取り出したメモを眺めたマダムは、金と書かれた文字の上をつぶやきながら何度もなぞる。

「金曜日。金曜日。金曜日」


 四階の廊下を行く後ろ姿は、しゃんと伸ばした背中に丸い肩がのっている。

「ご自分のお部屋、わかりますか?」

「あたりまえでしょ、私をいくつだと思ってるの? あなたいくつ?」

「四十歳です」

「私は八十七歳。あなたどこに住んでるの? 私は富士見」


 そう言ってマダムは、メモに目を落として歩きだす。

「こまったなぁ、こまったなぁ。わからなくなっちゃったなぁ。こまったなぁ」


 居室に入っていくつぶやきを、静かに見送る。


テレビのリモコンをヘルパーに押させる



 ちょうど胸のコールが振動して、見ると四〇五の表示。菊じぃだ。


 私たちが菊じぃと呼んでいるのは(きく)(しま)(じゆう)(きち)さん。有名な企業の重役だった。


 菊じぃはいつも威張っている。記憶の行き違いがほとんどないので、石塚完治さんのように理不尽に声を荒らげることはないが、分厚い唇から出てくる低い声はいつでも威張って聞こえるのだ。

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