『こまってしもうた 忘れてしもうた』
[著]安藤りつ
[発行]PHP研究所
すいません、すいません、と奥まったトイレのあたりから細い声がする。帰宅願望の消えない野村シゲ子さんは、風呂敷の包みを抱えて一日中出口を探す。
「どのボタンを押せば下に行かれますか?」
便座の真横に立って、洗浄器のいくつかのボタンに戸惑っている。
「ここはトイレですよ」
「そうですか、私は帰ります」
さっさとトイレを背にして歩きだす。
「娘さんが迎えに来てから帰りましょうね」
「だめなんです。主人が待っていますから。ごはんの支度で叱られますの」
野村さんは背中を丸めて食堂へ出ると、
「お世話になりました。帰ります」
いつも頭にのせている茶色の小さなベレー帽を手にとって深いお辞儀をする。
野村さんは若いころから帽子が好きで、大きなつばのある帽子を好んでいたことから「シャッポさん」と呼ばれていたそうだ。「シャッポさん」という響きに安心するようなので、そう声をかけて欲しいという娘さんの話で、ここでの呼び名も「シャッポさん」だ。
シャッポさんは五年前にご主人を亡くしてからここに入居した。
「主人が待っているので帰ります」
私が勤めた三年近く前から、シャッポさんの毎日は同じことの繰り返しだ。変わるのは風呂敷の中身だけ。おむつであったり、朝食のトーストであったり。ときおりは、スタッフが探し回っている別の利用者のめがねが入っていたりもする。
「どこに行けば出られますか。主人が待っているんです」
シャッポさんはベレー帽を再び頭にのせて、すり足で歩きだす。
「また始まった、何が主人さ。何年も前に死んだんでしょ」
宇野房栄さんが笑う。
シャッポさんの耳は受け入れない。
「お世話になりました。家に帰ります」
ご主人が亡くなったことを忘れても、帰ろうとするのは忘れない。
わが娘と家を忘れたシャッポさん
朝からずっと、出口を探して歩き回っているシャッポさんに、
「もうすぐ明代さんがお迎えに来ますからね」
今日は堂々と返事ができる。娘さんの迎えで二泊の予定で自宅に帰る。いつでも枕元に置いてある小さな人形だけ持たせて欲しいという明代さんからの伝言で、人形を包んだ風呂敷をしっかりと抱えている。
迎えに来た娘の顔を見ると、それといった感情を見せることもなく、ベレー帽を手にとって、
「お世話になりました。私は家に帰ります」
「おかあさん、今日は大好きなうなぎでも食べましょうね」
シャッポさんはうなずくようにして頭を下げて廊下を進んでいった。
小さな後ろ姿を目で追う明代さんに、夜間は徘徊もなくよく眠っている様子を伝え、私たちは笑顔でシャッポさんを送り出した。
シャッポさんが二泊の予定で帰宅した翌朝、サンガーデンと公園を隔てたコンビニエンスストア八千代さんの駐車場には両翼を広げるように桜が咲いていた。
「いよいよソメイヨシノの番だね」
八千代さんのご主人が見上げた。
向かいの山には、山桜があちこちに白い絵を描き、ソメイヨシノが色を添えて広がる。
サンガーデンの前に一台の乗用車が停まった。助手席から出てきたのはシャッポさんの娘さんだ。小太りの体が重たそうに足を運び後部座席のドアを開ける。
私は走り寄った。明代さんは、あぁとすがるようなため息をついて、
「家に帰ります、家に帰りますって」
座ったままシャッポさんがちらと私を見上げた。
「シャッポさん、おかえりなさい」
私が笑うと、シャッポさんはベレー帽ののった頭を少しだけ下げた。
化粧っ気もなく疲れきった様子の明代さんは、
「おかあさんの家でしょうって何を見せてもだめなんですね。風呂敷でいろんなものを包みなおして、帰ります帰りますって。私が娘だってこともわからなくなるみたいで」
私は言葉を選んだ。
「ここにいたら、またきっとご家族を待つのだと思います」
「さぁ、おかあさん、いきましょう」
娘の手を借りたシャッポさんは風呂敷包みを抱えて車を降りた。
「自分の靴下を包んであるようです」
明代さんは人形の入った紙袋を腕にかけて、
「これにもまったく見向きもせずに」
「またこちらのベッドに置いておきますね」