『こまってしもうた 忘れてしもうた』
[著]安藤りつ
[発行]PHP研究所
「さて、少しピアノでも弾きますか」
女学生さんが岡本ちよこさんに話しかける。
「ちよこさんはピアノが好きなのよね。ピアノが始まると静かになるのよ」
昼食がすんでしばらくすると、女学生さんの独奏会が始まった。
普段は徒党を組んでいる宇野房栄さんも、聞いちゃいられないとさっさと居室に戻る。宇野さんは結局のところ、誰のことでも悪く言うのだ。
ピアノを聴かない宇野さんを、女学生さんは女学生さんで教養がないと陰口をたたく。この二人の会話は、ときおり食あたりに出くわすようだ。
「乙女の祈り」はオクターブの和音が桁外れにずれている。今日はまた、いつになく激しい演奏だ。
「気分が悪くなるからやめさせて下さい」
しばらくして小さな声で私の腕をつついたのは、黄色いジャージの上下で車椅子に座っている富田時男さんだ。色の白い小柄な富田さんは入居してまだ日が浅く、言葉少なで静かな老人だ。しっかりと会話ができるのだが、所かまわずに便をして、踏みつけては、あちこちになすりつけてしまうので、昼間はできるだけ食堂で過ごさせるようにしている。
部屋に帰りたいと強く訴えるときこそ便意のあるときで、嫌がるのをなだめてトイレに座らせると、決まって便が出る。これを踏みつけて便まみれになっていたかと思うと、便器に堂々と落ちた立派な便を見るたびに、いたずら好きなもぐらを罠に仕留めたような気分になる。
「あの音で頭が痛くなるんです」
静かな富田さんの口から不平が聞かれるのも不思議な気がしたが、富田さんの訴えはもっともで、同じように私たちも感じながら毎回拍手を繰り返していた。
「今日はずいぶんのってるわね」
そう言って笑ったスタッフの飯田さんは、
「山口くんにお任せしようか」
若いスタッフの山口くんに目配せをした。
山口くんは、美穂ちゃんと同じように専門学校を経てサンガーデンに就職した。
援護を必要とする人の、日常生活の指導や援助を行う介護福祉士でもあり、医療や福祉サービスを利用できるようなプランをたてるケアマネージャーでもある。
介護職の正社員は、新入社員で基本給が一八万円前後が多い。資格手当や残業手当を入れても多くの給料を手にすることはない。正社員となると、シフトに夜勤も入ってくるが、夜勤専門のパートで回数を入れるほうが、正社員の給料よりも手取りが多くなることがある。そんな愚痴が聞こえてくる中で、山口くんは頼もしい。
「この仕事を楽だって言うやつもいますよ。さぼろうと思えばさぼれますからね。何せ、お客様が認知症だったら、クレームついたって、そんなことありませんよ、ってごまかし通せることが多いからね。