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生き方・教養
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第三章 恵信尼の変わらざる信と愛

『わが親鸞』
[著]紀野一義 [発行]PHP研究所


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 こぶしの花のもとに

 あるご縁で越後の高田に行き、寺町二丁目にある浄興寺というお寺で講演をした。この寺はその昔、鎌倉時代に親鸞が住んでいた稲田の草庵の跡に建てられた寺が、あちこち転々と移って、最後にここに落ちついたのである。親鸞の没後、頂骨がこの寺に葬られたので、歴代の本願寺法主の頂骨はみなここに葬られたという。

 寺の広さは一万坪という宏壮さである。その広大な寺に四人しか住んでいないというのには呆れた。なんというもったいないことだろう。

 この高田の町の南十キロのところに新井という町がある。ここから北北東にまっすぐに伸びる道があって柿崎という町に至る。この道を新井の町から三キロ走ると、吉増という部落に入るが、ここから東に折れてしばらく行くと、板倉発電所の横に出る。さらに山麓の道を行くと、道が山手と下手と二本に分かれるから、下手の道を行くとすぐに恵信尼の墓所が見えてくる。すなわち親鸞の妻の墓である。



 このお墓が発見され、恵信尼の墓ではないかと考えられたのは昭和三十一年のことで、昭和三十八年七月に、西本願寺の手で美しく整地されたのである。今は石の玉垣で囲まれ、盛り上げた土の上に安置してあり、うしろには風よけの塀まで作られている。

 しかし、昔は田んぼの中にポツンと置かれ、かたわらにこぶしの木があった。強い風が吹くたびに、上部の空輪や風輪が転げ落ち、農夫たちの手によってまた上へのせられたのである。

 このまわりの田を「五輪田」という。三百年ほど前の天和(てんな)三年の「米増村検地水帳」にすでに「五りん田」と記されており、昔から大(あざ)の共有地であった。昭和四十二年四月に農道拡張した時、五輪田から土器、須恵(すえ)器の破片、鎌倉時代の小さな壺が出土し、また炉の跡も発見されたりしたのである。

 この「五輪田」の隣に「とよ田」「比丘屋敷」「大坪」の地名がある。「とよ」は樋で、水田に灌漑(かんがい)用の水を流しこむために樋を通したので「といた」といったのが訛って「とよた」になったのであろう。
「比丘屋敷」はおそらく恵信尼の屋敷のことである。この地方では比丘と比丘尼とを同一視するから、尼僧のいる屋敷でも比丘屋敷と呼ばれたのである。「大坪」は「五輪田」の東隣にあり、恵信尼の使っていた下人たちが住んでいたところであろうと思われる。

 この五輪塔は、現在の曲尺(かねじやく)で五尺八寸(約一七五センチ)ある。曲尺の一尺は、鎌倉時代の石工の用いた唐小尺の八寸に当たるから、この五輪塔の高さは当時の石工の尺では七尺になる。



 恵信尼の書いた手紙が西本願寺の宝庫から発見されたのが大正十年であるが、その第八通目にこんなことが書いてある。


  「さていきて候時と思候て、五ちうに候たう(塔)の七しゃく(尺)に候いしのたうを、あつらへて候へば、このほどはしいだ(仕出)すべきよし申候へば、いまは、ところども、はなれ候て、下人ども、みなにげうせ候ぬ。よろづたよりなく候へどん、いきて候時、たてゝもみばやと思候て、このほど、しいだして候なれば、これへ、もつほどになりて候ときゝ候へば、いかにしても、いきて候時、たてゝみばやと思候へども、いかやうにか候はんずらん」
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