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豪商列伝 なぜ彼らは一代で成り上がれたのか
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第四章 地方から成り上がった豪商たち

『豪商列伝 なぜ彼らは一代で成り上がれたのか』
[著]河合敦 [発行]PHP研究所


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長谷川次郎兵衛
(宗印居士)
中井源左衛門良祐
本間光丘
本間宗久
白石正一郎

固い結束を生む組織をいかにしてつくるか
1645〜1740
長谷川次郎兵衛
▼宗印居士
厳しい社員教育で発展させた「木綿問屋の豪商」

堅実経営で江戸を代表する木綿問屋を築いた。本名は政幸、法名宗印居士(そういんこじ)。幼くして父を失い、母の実家・長谷川市左衛門家に身を寄せ、長じて同家の江戸店番頭となる。延宝3(1675)年独立し、大伝馬町(おおでんまちよう)に丹波屋を開業。このときより次郎兵衛を名乗る。貞享(じようきよう)3(1686)年、同郷の商人と協力して勢州木綿買次問屋組合を設立し、松坂伊勢地方の木綿の買い付けを共同で行った。同年、江戸店を支配人に任せ、自身は郷里の松坂から経営を指揮した。

九十三歳まで生きた豪商──丹波屋の開業


 木綿は、室町時代に衣料として珍重され、朝鮮や明から輸入されてきたが、戦国時代後期になると、ようやく三河や河内(かわち)で綿花の栽培がはじまり、国産化に成功する。

 江戸時代には、庶民の衣料として急速に広まっていった。江戸でも大伝馬町(おおでんまちよう)に木綿を扱う店がずらりと並ぶようになったが、そんな大店(おおだな)の代表が、長谷川次郎兵衛(はせがわじろべえ)政幸(宗印居士(そういんこじ))の創建した丹波屋であった。

 次郎兵衛は、伊勢松坂の出身である。
「江戸名物 伊勢屋稲荷に犬の糞」という言葉が江戸で流行(はや)ったが、これは、江戸市中いたるところに稲荷社と犬の糞、そして伊勢屋と称する伊勢出身の商人の店が存在するという意味である。それほど多くの伊勢商人が、新興都市・江戸に流入してきたのであろう。

 伊勢商人は、天正十二年(一五八四)に伊勢に移封(いほう)された蒲生氏郷(がもううじさと)が松坂の地に居城をかまえ、商人を誘致して城下殷賑(いんしん)策をとったことから、大きな力を持つようになった。

 松坂には伊勢神宮へ向かう伊勢街道が走り、近くに伊勢湾がある。そうした交通利便の地であったことから、将軍のお膝元である江戸の大発展が見込めるとなると、商人たちは競って江戸に店をかまえ、地元伊勢や三河から木綿を仕入れ、海運や陸路で大量に江戸へ持ち込んでさばくようになったのである。

 長谷川次郎兵衛(宗印居士)は、正保二年(一六四五)に松坂で生まれたが、彼の先祖がいつから松坂で商人として活躍していたかは不明である。

 ただ、祖父の正善居士はすでに松坂の住人であり、父の喜安居士が松坂で木綿を商っていたのは確かだ。なお、「次郎兵衛」を名乗るのは、祖父と父に次いで、宗印居士が三代目であった。

 父の喜安は、次郎兵衛が幼いころに没してしまったため、次郎兵衛は母の実家である長谷川市左衛門の江戸店(木綿仲買店)で修業を積んだといわれる。

 二十五歳のときには店の番頭(支配人)までのぼり、六年後の延宝三年(一六七五)、ついに独立を果たし、丹波屋と称する木綿仲買店を大伝馬町に開業したのである。

 驚くべきことに次郎兵衛はそれから六十年以上を生き、なんと元文五年(一七四〇)に九十六歳で没しているのだ。なおかつ、死ぬときには江戸有数の豪商に成り上がっていたのである。

 いったいどのような経営手法によって次郎兵衛は事業を成功させたのか、今回はそのあたりにスポットをあてて見ていきたい。

五店体制と堅実経営──投機的な商品に手を出すな


 次郎兵衛は、開業から十一年目に丹波屋を木綿の仲買店から木綿問屋に切り換え、自分は松坂に帰って本店(本家)を置き、江戸店の経営は、支配人や手代(てだい)に一切任せることにしたのである。

 当初は、松坂の本店でも木綿を売買していたが、次第にそれからも手を引いていき、本店の資金(店元金)の多くを江戸店に投入し、そこから上がる利潤の三分の二を吸い上げるという仕組みをつくった。

 ちなみに利潤の三分の一は、「手代元金」といって、支配人や手代などの重役に与えられた。といっても、毎年直接給付されるわけではなく、手代元金は店の資本に組み入れられ、退職のさいに利子をつけて与えられた。

 こうしたシステムをつくることによって、少しでも店の利益をあげようと手代たちはがんばるだろうし、長く勤めればそれだけ支払われる手代元金も大きくなるので、有能な重役を店につなぎ止めておくのに有効な方法となった。

 ただし享保期になると、江戸店ではじき出した利潤もそのまま店元金へ組み入れ、いっぽうで手代元金の配分率を大幅に減らしていったのである。これによって江戸店の総資本額は急激に膨張し、経営は安定したのだった。

 さらに次郎兵衛は、元禄十五年(一七〇二)に新店(源右衛門店)、享保十年(一七二五)には亀屋、元文三年には戎屋(えびすや)という新たな木綿問屋を次々と設立、長谷川木綿グループと呼ぶべき形態を整えた。のちに向店が加わり、長谷川の木綿問屋は五店体制となる。各店は連携して商売をおこない、必要に応じて人事交流もあった。

 木綿問屋といっても、長谷川家では元禄期までは絹や麻も扱っていたし、干鰯(ほしか)油粕(あぶらかす)などの金肥(きんぴ)、米や煙草なども商っていた。

 けれども享保期になると、次郎兵衛は薄利ながら堅実な利益をはじき出す木綿のみに取引きをしぼるようになった。

 次郎兵衛は、長谷川の家法「掟法帳(おきてほうき)」を制定するが、その一文にも「綿繰綿(くりわた)の外、余の商売思入買取之儀者、堅停止(かたくちようじ)可申候事」と木綿以外の商品を扱うことを厳しく禁じ、支配人に指名するさい、「米や油などの投機的な商品に手を出さない」という起請文(きしようもん)を提出させた。堅実な経営、それを次郎兵衛は最重要視したのである。

 なお、次郎兵衛が制定した「掟法帳」は時代とともに改変が加えられていったが、公儀の法度(はつと)を厳守することと記された第一条、そして第四条は、ついに明治まで変わることはなかった。

 ちなみに第四条には「忠孝之二字常々心ニ不絶(たやさず)、倹約ヲ為シ、家業ヲ(よく)シ、身之(おごり)ヲ慎ミ、上下之礼ヲ(ただ)シ、人之悪事ヲ不語(かたらず)、高慢ヲ慎ミ、堪忍第一ニ傍輩(ほうばい)(うち)水魚之(ごと)ク、昼夜之勤借初(かりそめ)ニモ無怠(おこたりなく)出精(しゆつせい)専一之事」と記されている。

 まさに商人の王道だといえる文言であろう。

徹底管理の社員教育──一括採用で基礎を叩き込む


 次郎兵衛は、店員の中途採用は一切おこなわず、十二、三歳の少年を丁稚(でつち)として大量に雇用して育成する方式をとった。なまじ社会経験がある大人を採用するよりも、白紙の少年を一から長谷川家の色に染め上げるほうがよいと考えたのだ。

 ただしこれは、当時の商家における一般的な傾向であった。

 長谷川家ではまた、次郎兵衛の出身地・伊勢の松坂周辺に住む自作農の子弟(次男以下)を丁稚に採用したが、それも伊勢商人の常道になっていた。地元なら身元もはっきりわかっており、自作農というある程度豊かな家に育った子供なら、店の金を使い込んだり、商品を盗んで逃亡する危険が少ないと判断したのだ。

 採用は、松坂の本店が一切を取り仕切った。

 主人の次郎兵衛や人事担当者が入店希望者と面談し、見込みのある者だけを厳選して親に採用通知を出したのだ。なお、採用が決まった者は一斉に本店へ集められ、江戸店の支配人や重役に連れられて十数人でまとまって江戸へ向かうのである。

 江戸に着くと越前屋という定宿に入り、各店の手代が迎えに来て、子供たちはそれぞれの店へと振り分けられた。ここから長い商家勤めが始まるわけだ。

 約四年間、子供たちは丁稚としてこき使われることになる。長谷川家では、丁稚のことを「子供衆」と呼び、雑務と使い走りのほか、一年目は掃除、二年目は下駄と番傘の管理、三年目は店で使う諸道具の手入れとその管理をさせた。用事のないときは、店先で行儀良く座っていなくてはならなかった。

 四年目になると子供(がしら)と呼ばれ、神仏の守りをするとともに丁稚を統括する立場にたった。

 子供衆の間は、衣服と食事は支給されるが、給金などは一切出ない。食事といっても、朝は冷や飯と味汁のみ。昼食と夜食はそれに一菜つくだけで、副食が少ない白米一辺倒の食事のせいで脚気(かつけ)になる子も多かった。入浴に銭湯に行く以外、外出も原則として認められなかった。

 こうした厳しい勤務と慣れない集団生活のために、すでに二年目には半分以上の子供が奉公の(つら)さに耐えかねて店をやめてしまう。病気でやめる子も多かった。

 また、店のほうで役に立たない子を親元に送り返すことも多かった。ただ、解雇を申し渡すとショックを受けて自殺する子がいるので、「用事があるので帰ってくるように」という手紙が両親から来たと(いつわ)り、帰郷させたといわれる。

 子供頭を一、二年つとめると、一月の恵比寿講の日に元服式を執り行った。支配人から子供衆までが集まって、元服した者を祝い、鯛の尾頭付きのご馳走と酒が与えられたのである。酒は飲み放題とされた。

 こうして手代となるわけだが、一、二年間は見習いとして「二才衆」と称され、まだ雑用にも使役された。同時に在庫の管理を担当させられたので蔵役とも呼ばれたが、商品出入帳との齟齬(そご)があると、完全に帳尻があうまで寝ずに照合させられた。かなり大変な仕事で、蔵役時代に退職する者も多かった。

八年働いた後の三カ月休暇──継続雇用への険しい道


 長谷川家の江戸店は、丁稚や手代のみならず、男衆と呼ばれた炊事や荷造り担当従事者も男で、店にまったく女っ気はなかった。また、五節句以外に遊びに行くことは認められず、仕事の外出でも門限は厳守である。五回門限を破ると、理由の有無にかかわらず解雇された。

 これでは若い店員は欲求不満でおかしくなってしまう。そこで、ガス抜きが用意された。客の接待で吉原へ上がることを認めたのだ。ただ、使用できる引手茶屋(ひきてぢやや)は「近半(近江屋半四郎)」に限定した。

 近半は事情を心得ていて、店員に無駄な遊びはさせず、泥酔していても門限までには送り返した。ただ幕末の嘉永年間になると、大金を使う者や門限を破る者が続出、ついに長谷川家では近半への出入りを禁止した。

 収入が激減した近半は驚き「今後は店員に不相応の遊興費を使わせず、門限を守らせる」と誓紙を入れ、どうにか禁止を解除してもらったという。

 いずれにせよ、丁稚や手代は就職して八年が過ぎると、「初登り」が許可される。
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