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足利尊氏
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歴史
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第十章 日本化の時代

『足利尊氏』
[著]百瀬明治 [発行]PHP研究所


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一 “日本”イメージの誕生



 中小企業の時代

 南北朝時代はどうもわかりにくい、とはよくいわれることである。たしかに南北朝時代にはそのような傾きがあり、前章まで述べてきた治乱興亡ただならぬ現象面での錯綜性が、その一番の原因をなしている。

 同じ乱世でも、戦国時代はいわば“大企業の時代”であった。主人公は一国一城の主であり、彼らの目的も「天下を取る」というひとつの方向に収斂していた。比較的、単純明快である。

 それに対し、南北朝時代は“中小企業の時代”ないしは“個人企業の時代”ということができる。しかもこの時代は、南朝・北朝・幕府というふうに権力が分立したから、そこに生きる人々のめざす方向も、おのずから多極化することになった。

 そのため、そう大きくはない渦があちこちに生起し、人々の離合集散はまことにめまぐるしい観を呈したのである。

 しかし、そのような錯綜性は表層に浮かびあがった現象面でのことであり、あくまでこの時代の一特徴でしかない、ということを注意しなくてはなるまい。

 表層をおおううす闇をすかしてその内部を透視すれば、いつの時代にも共通することながら、そこには豊饒な人間の営みがある。いや、人々の営みは、乱世であるがゆえに他のどの時代にもまして豊饒であり、いわば時代そのものが比類ない活性にあふれていた、といったほうが正確であろう。

 日本のルネサンスというとき、ふつうあげられるのは安土・桃山時代である。だが、私は言葉の概念を広くとらえれば、南北朝時代もまたひとつのルネサンス的時代だったといってよいと思う。

 そこからさらにもう一歩つき進み、現代日本人の原像がいつごろから形成されたのかという問題を考えるとき、南北朝時代はきわめて重要な結節点をなしてもいる。私はここまで、尊氏の覇業に即して南北朝の乱世を語ってきたが、南北朝時代をとりあげる以上、その総括として、最後にこうしたいわば“日本化の時代”という視点から見直してみることも、おおいに現代的な意義があるのではないだろうか。

 かつてこの問題に論及した東洋史学の泰斗内藤湖南は、日本史の転回点として、南北朝時代ではなく応仁の乱を重視した。応仁の乱は、周知のように戦国時代への道を開いた大乱であり、南北朝の乱世からおよそ百五十年後に生じている。内藤湖南は、その応仁の乱より以前の時代は外国の歴史のようなものであり、現在を理解するには応仁の乱以後の歴史を学べば十分足りる、と唱えたのである。実に大胆な見解といってよい。

 しかし、近年は、応仁の乱からもうひとつ遡って、南北朝、室町時代こそ現代日本人の形成にかかわる直接の母胎とみなすべきではないかという考えがあらわれはじめており、私もその考えに賛成である。それも、私の場合は、南北朝時代により比重をかけるほうが妥当ではないか、という立場に強い魅力をおぼえる。


 日本のアイデンティティ発生の時代

 現代の私たちは、日本といえば、即座に北は北海道から南は沖縄まで、はっきりと弧状列島の形を思い浮かべることができる。情報の伝達手段の発達により、茶の間にいながらにして全国各地のありさまを知ることも可能である。あるいは、四通八達した交通網を利用して全国各地を旅し、実際にそれぞれの土地の状況を見聞することも困難ではない。要するに、現代の私たちにとって、日本という対象は完全に既知のものとなっている。

 だが、古い時代においては、そうでなかった。弧状列島は今に変わらず存在していたが、人々の意識のなかで日本という概念はきわめて未成熟であった。おそらく、日本全土の広がりを認識し、その視野のもとに思考することができたのは、国政にたずさわるほんのひとにぎりの人々でしかなかったことであろう。

 それ以外の、つまり当時の絶対多数が、実感的な広がりのある世界として共有していたイメージは、日々の生活に関わりのある集落といった程度であり、その範囲はせいぜい広目にみても国郡の境界を越えるものではなかった。彼らマジョリティにとって、かりに日本という概念はあったとしても、その概念はあたかも仏教の説く地獄・極楽とほとんど変わりのない抽象性をおびていたのである。

 文化の均一性という点でも、そのころの日本では地域による違いがきわめて大きかった。近年の研究によれば、東国と西国の言語・民俗、社会構造を比較すると、ことごとく対照的であり、さながら二つの民族が国内に棲みわかれていたといっても過言ではないありさまだった、との指摘さえなされている。

 要するに、古代の日本は朝廷という中央政権があり、国家機能としては国土の大半をカバーしていたにせよ、人々の生活レベルではまだまだ一国の(てい)をなしていなかったわけだ。

 そのような状況は、東国に鎌倉幕府という武士政権が成立し、京都朝廷と交渉をもったことによって、いくぶんかは改善された。東国と西国は、内に対立をはらみながらも、親和への歩みよりをみせた。

 これについで、人々に“日本”への関心を呼びさます役割を果たしたのは、元寇騒動であろう。外圧、それも武力によって侵略されそうだという危機感は、何にもまして自国というものを人々に強く印象づけるものだ。

 しかし、元寇への危機感は上部階層が抱いただけであり、その裾野はあまり広がらなかった。日が元寇をもって「他国侵逼難(たこくしんぴつなん)」の予言適中とみなし、「日本国」の危機を声高く唱えたにもかかわらず、ほとんどかえりみられなかったということが、そのような実情を傍証している。

 だが、東国政権の成立や元寇の試練は、重要なステップとはなった。こうしたステップを踏みつつ、地域的にも意識的にも日本全土が有機的なつながりをもつ、いわば“日本”の具体的なイメージが広く形成されてくる。そして、そのイメージが国民的広がりのうちに実感をもって受け入れられ、定着していったのが、ほかならぬ南北朝時代ではなかったであろうか。

 その裏づけとなる主要な判断材料として、たとえばわが国において中央と地方の文化・文物がはじめて本格的に交流し、混淆し、たがいに影響しあったのはいつの時期か、という設問をあげることができる。すると、それにふさわしい時期は、明らかに南北朝時代をおいて他にないのである。
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