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20世紀とは何だったのか
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第2章 価値転換を迫られるヨーロッパ ニーチェの真意

『20世紀とは何だったのか』
[著]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


読了目安時間:33分
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人間が賢くなりすぎた時代──キェルケゴールの批判
「現代文明」はヨーロッパの「近代」が生み出したものであるとともに、その大きな変形である、といいました。さらにいえば、ヨーロッパの「近代」は、その「近代」の必然的な結果として、母体であるヨーロッパを衰退させてゆくのです。この衰退は、政治、経済、文化といった、おおよそあらゆる局面で見られますが、特に重要なのは、ヨーロッパ近代が生み出した理念や理想である「歴史の進歩」という意識を、ヨーロッパ自体が保持できなくなる点です。

 そのひとつの現象は、前章で述べたように、ヨーロッパの生み出した理念が普遍性を主張するがゆえに、それらが非ヨーロッパ世界を動かし、ヨーロッパへの逆襲が始まるということです。

 しかし、もうひとつ重要な現象があります。ヨーロッパの近代主義そのもののなかに、ある矛盾が含まれており、それが当のヨーロッパ内部で噴出してくる。この矛盾が内在的に批判され、ヨーロッパ自体が価値喪失に陥るのです。その批判をきわめて徹底して遂行したのが十九世紀後半を生きた哲学者のニーチェでした。

 もちろん、ニーチェ以前にヨーロッパの近代社会を批判した人はずいぶんいます。たとえば、キェルケゴールなんかもその代表的な一人ですね。

 キェルケゴールに『現代の批判』と題された刺激的な評論があります。書かれたのが一八四六年、十九世紀のちょうど半ば、イギリスではマルクスが『資本論』に取りかかろうとしていた時期にあたります。

 キェルケゴールは、現代は「反省の時代」だといいます。反省の時代というのは、人間が極度に理性に頼り、理性でもって物事を判断しようとする、そういうあまり賢くなりすぎた時代で、新規なものへの冒険や超越的なものへの構想力などを失ってしまった。

 同時に、現代は「水平化の時代」であるとも彼はいいます。みなが相互に同じだという意識をもっている。あらゆるものの序列や価値の高低がなくなってしまった時代だ、と。この「水平化の時代」において、神という超越的な権威を見失った人間は、神のほうを向くのではなく、お互いに相手のことを気にし、相手に合わせようとする。

 この「反省の時代」と「水平化の時代」では、人間は情念を解放することができないし、新しいことを創意工夫することもできない。高度な価値を奉じていきいきと生きることはできず、ただ退屈し、おとなしく衰退していくだけだ──こういったことをいう。神というようなものを信じられれば、信仰をバネにして、人間はもっと偉大なものに接近することができるのですが、もはやそういうことができなくなった時代です。そして、こうした神なき時代の生の衰弱について徹底的に批判したのがニーチェなのですね。

ニーチェの議論が与えた衝撃──近代はルサンチマンの社会

 ニーチェの議論は前著(『西欧近代を問い直す』)でも述べましたが、その中心的な主張をひとつのポイントに絞って説明しておきましょう。

 単純化していえば、西欧近代社会が唱える個人の自由や人間の平等、人間の権利といったもの、また、さまざまな道徳規律などは、決して確かな根拠をもったものでもなければ、優れた価値というものでもない。西欧の近代が奉じている理念は、いってみれば欺瞞(ぎまん)であり、その本質はといえば、弱者が強者を支配するための口実である、ということです。もともと人間の歴史は強者が弱者を支配するはずなのが、弱者のルサンチマンが彼らを支配者の座につけているだけだ。だから、近代社会の理念や道徳とは(ニーチェはさらに、キリスト教社会そのものへと議論を拡大しますが)、弱者のルサンチマンと隠された権力欲の現れだということになります。

 これは、弱者による一種の「奴隷革命」です。しかし、弱者は本来、支配する根拠をもたないですから、それに代わる口実を必要とした。個人の自由や平等、民主主義、人間の権利、そして、秩序の愛好、品行方正、誠実、正直、従順などの道徳的価値は、すべて弱者が支配者となるための口実だというのです。

 強者とはいったい何なのか、弱者とは何なのか──これは、実際には大きな問題です。そんなことは簡単に定義できません。したがって、ニーチェのいっていることはすべてデタラメだともいえるし、ニーチェの議論そのものが、ニーチェの個人的ルサンチマンから出ていると片づけることもできます。けれども、無視しえない何かをニーチェが探り当てたとの印象も否定できません。だからこそ、忌み嫌われながらも、ニーチェの主張は現代にいたるまで生きつづけ、影響を与えつづけているのでしょう。

 いずれにせよ、弱者が自分たちのルサンチマンをバネにして、自分たちの権力欲を満たすために生み出した宗教や道徳律がキリスト教であり、近代社会もその変形にすぎない。その意味で、ヨーロッパの近代社会はキリスト教共同体の焼きなおしなのですね。二番(せん)じの第二幕ということです。

 しかし、ニーチェはそのような社会を間違っているとはいいません。彼はどういう社会が正しいか、どういう社会が間違っているかという議論はしない。道徳律を否定するニーチェからすれば、そういう議論はできないのです。あるものが正しい、あるものが間違っているとの価値判断は、一種の道徳破壊者であるニーチェにはいえない。だから彼は、これは不健康である、キリスト教社会は病気である、近代人は病人である、というのです。

 近代社会の模範的市民とは、じつは病人である。彼からすると、現代のヨーロッパ人はすべて病人だということになる。彼の唯一の道徳的判断は、病人であるより健康なほうがよいだろうということなのです。弱者のルサンチマンが生み出す道徳より強者が切り開く価値のほうがより健康的だろうというのです。

 ニーチェの議論の破壊力、影響力は二十世紀のヨーロッパではたいへんなものでした。ウェーバーやハイデガーへの影響、ポスト・モダンにいたる現代のさまざまな思想、さらにファシズム運動、それからアメリカの知識人たちのニーチェ嫌い、あるいはイギリス人たちのニーチェに対する徹底した拒絶──こういったものがすべて、ニーチェの与えた衝撃の大きさを示していますね。
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