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20世紀とは何だったのか
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人文・科学
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第4章 なぜファシズムが生まれたのか 根無し草の帰る場所

『20世紀とは何だったのか』
[著]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


読了目安時間:36分
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現代社会に潜む「ファシズム的なもの」

 二十世紀を語るうえで、ファシズムを無視するわけにはいきません。

 ファシズムといった場合、通常、第二次大戦におけるドイツ、イタリア、日本の枢軸国を思い浮かべ、あの大戦をファシズムと民主主義の戦いと見るのが一般的ですが、しかし、ここでは詳しくは述べませんが、この見方はいささか問題があると私は思っています。

 ファシズムとは、もともと「束ねる」という意味のイタリア語で、狭義では、イタリアのファシスト党の運動を指すわけですね。ドイツの場合はナチズムで、それもたしかにファシズムといえるでしょう。しかし、日本の天皇制にせよ軍国主義にせよ、ヨーロッパのナチズムやファシズムとはかなり違ったものだと私は考えています。しかし、そのことは本講義の趣旨ではないので、ここで論じるのはやめましょう。

 さらに、ここでの関心は、イタリアのファシズムやドイツのナチズムが、いかにして成立したかという歴史的経緯の分析や解説にはありません。具体的なプロセスを議論しようというわけではない。ただ現代文明を理解するうえで、不可欠な論点を提示するものとしてのファシズムを問題としたいのです。なぜなら、あるきわめて重要な一点において、ファシズムはまさに現代文明の本質とかかわっているからであり、それゆえにまた、それは決して過ぎ去った問題だとは思えないからです。そしてその一点は、本書における現代文明を捉える視点と重なってくる。そのかぎりでファシズムを問題としたいのです。

 ですから、ここではファシズムの語を、イタリア・ファシスト党やドイツのナチスの具体的様相に囚われずに、もう少し広い意味で、全体主義的な傾向をもった集団的運動と捉えておきましょう。そうすると、いくぶんソフトなものまで含めれば、「ファシズム的なもの」はさまざまなかたちでありうるはずです。

 たとえば、現代社会においても、われわれはある画一的なものの考え方、思想に囚われ、そこからの逸脱をいっさい許さなくなってしまうことがあります。人権や民主主義、環境、衛生などの観念が絶対化されてしまい、そこから逸脱することがまったく許されなくなってしまうと、そのかぎりで「ファシズム的なもの」になってしまいかねない。その意味で、われわれも多かれ少なかれ全体主義的なシステムのなかに、いつの間にか取り込まれているともいえるわけです。

 たしかに現代社会では、かつてのように民族主義や人種主義、国家主義よりも、人権主義や生命至上主義、環境主義などのほうが、いっさいの批判を許さないという意味で「ファシズム的」といえます。ですからファシズムの問題とは、二十世紀の前半に終わってしまった過去の遺物では決してないのです。

 ここで参考にしたいのは、この種のテーマについての古典ともいうべきハンナ・アレントの『全体主義の起源』で、これは一九五一年に書かれたものです。

 一九五一年という時代背景からも推測できるように、全体主義といったときにアレントが意味しているのは、主としてナチズムと、その後に成立したソ連の社会主義体制、すなわちスターリンの独裁体制の二つを指しています。これは、ある意味で象徴的な問題の立て方です。なぜなら、通常、ファシズムと社会主義は対極にあって、両者は対立しつづけたと考えられているのですから。

 しかし、この両者には基本的な同質性がある。一見したところ、まったく対立するかに見えるファシズムと社会主義(共産主義)は、同じ穴のむじなだというのですね。ともに全体主義だという。両者がこのように括れるとするならば、二十世紀の重要な経験とは、たしかに全体主義にあったといってもよいでしょう。

ファシズムに対する思い込み──ほんとうに「野蛮」な異常行為だったのか

 ファシズムといったときに、われわれにはいくつかの思い込みがありますね。誤解とまでいうといいすぎかもしれませんが、ファシズムという言葉を、われわれはいくつかのことを前提にして考えてしまいます。まず、それを四つほど指摘しておきましょう。

 第一に、ファシズムは文明に対する野蛮の挑戦である。残虐な大量虐殺のイメージがあって、ファシズムは、ヒューマニズムのかけらもない原始的な攻撃本能や非合理的な情念の爆発であり、人間の野蛮性に基づいたものだとみなしてしまいます。しかし、これは厳密な意味では正しくありませんし、話はそれほど単純ではありません。

 というのも、ファシズムは少なくともその成立期においては、人間の健康や福祉をきわめて重視したからです。衛生観念をも非常に重視しますね。また、スポーツを奨励します。ナチズムとワンダーフォーゲルとの結びつきはよくいわれることですし、ベルリン・オリンピックに代表されるスポーツの祭典を催している。仕事やスポーツを通じて身体を健康に保つこと──これはナチスなどが強調したことです。

 そのなかから、たとえば現在でいうところの一種の健康食品ブームが生まれ、肉の代わりにできるだけ豆類を食べることが奨励されたりします。食品管理によって健康を保持することがナチズムの国民運動のひとつで、それと関連して保健衛生観念を高めてゆく。だから、ナチスの反ユダヤ・キャンペーンは、ユダヤ人は不衛生で汚いというのが根拠だったのです。

 たしかに、大量虐殺など野蛮な行為にほかならないのですが、少なくともその成立期においては、決して野蛮なかたちで生じてきたのではありません。

 また、これもしばしばいわれることですが、ナチスの幹部は決して野蛮で攻撃的な人格の持ち主ではなかった。ゲーリングなども家庭を大事にする穏やかな人だったと伝えられていますし、また、アレントが「アイヒマンの裁判」について書いていることですが、ナチスの幹部はまったく非合理的でも異常人格者でもなく、きわめて平凡なふつうの官僚だった。それをアレントは「悪の凡庸さ」と表現しました。異常性格の極悪人がユダヤ人虐殺を行ったのではなく、平凡な官僚が淡々とユダヤ人虐殺を遂行していったところに、ナチズムの怖さがあるのです。

民主主義から派生し、資本主義とは対立していた

 二番目に、これもよくある考えですが、ファシズムは民主主義と対立するというものです。

 たしかにファシズムが成立してみると、それは民主主義を壊し、民主主義と対立するのですが、本来、ファシズムは必ずしも民主主義の対立概念とはいえないのです。それどころか、ナチズムは、ワイマール体制というヨーロッパでもっとも進んだ民主主義体制のなかから出てくる。大衆の支持を得て、合法的に政権を乗っ取っていくわけです。
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