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20世紀とは何だったのか
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人文・科学
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第6章 経済を変えた大衆社会 貨幣の新しい意味

『20世紀とは何だったのか』
[著]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


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資本家と経営者が分離する

 現代文明の大きな特徴は大衆化現象にある、というのが本書の立場です。とすれば、それは当然、経済生活にも大きな影響を与えているでしょう。実際、大衆社会の形成は、経済に対する考え方を大きく変えてゆきます。そのことを論じてみましょう。

 大衆社会とは、人々が、自己の存在の確かな帰属場所をもたずに、バラバラで、しかし相互に依存し合いながら、お互いに相手をほんとうに信頼することもできずにいる、そうした社会です。伝統的な共同体や教会を中心としたコミュニティは半ば崩壊し、確かなものをもはやもちえない。そういう大衆社会化状況というものが、現代の経済を考えるうえでいかなる意味をもっているのでしょうか。

 現代の経済を特徴づける現象をひとつ取り上げれば、バーリーとミーンズの述べた「所有と経営の分離」といってよいでしょう。これは、現代経済学ではほとんど当然のことになっているわけですが、所有と経営の分離とは、生産主体としての企業の所有者と経営者が分離することです。企業の所有者とは資本家で、企業を実際に動かす人が経営者。だから資本家と経営者が分離するといってもよい。

 十九世紀の後半になりますと、株式市場が急速に展開してきますが、そうすると、資本家は工場の経営者ではなく、単なる株主になります。株主は事業に対して金を出すだけです。実際に投資を行い、生産計画を立て、組織を運営するのは経営者の仕事ですが、経営者も被雇用者にすぎません。この両者が分離することが、二十世紀の経済を考えるうえで象徴的に重要な事項だといってよいでしょう。もちろん、株式会社そのものは十四、五世紀からありますが、それが経済の中心的な存在となるのは十九世紀の後半以降で、特にアメリカやドイツでは大きな影響力をもつようになるのです。

「余計なもの」が取引される金融市場の拡大

 この現象は、二つのことを意味しています。ひとつは、金融市場の役割がきわめて重要となったことです。企業は株式市場で資金を調達し、また、その場合には、株式市場における自社株の評価が大きな意味をもってきます。加えて、株の取引によって利益が発生しますから、株式市場にお金が流入してきます。

 さらに、企業が社債を発行したり、国が国債を発行したりする。そうすると株式、債券、国債などが自由に取引される金融市場が生まれます。そのうえ、現在では、先物取引や株の空売り、金融工学を応用した株取引などという多様な金融商品が提供されています。まさに、金融はそれ自体が「商品」になってしまったのです。

 このことの意味はまたのちほどお話ししますが、考えてみれば、じつに奇妙なことです。というのも、ふつうの市場は、たとえばわれわれが日常必要としている衣服、机、日用品、食物、農作物、そういうモノを取引する。あるいは、これらを生産するうえで必要なモノを取引する。

 しかし、株式市場や証券市場がいったい何を取引しているのかというと、決して明確ではないのですね。株を取引しているとはいうものの、株をいったい何のために取引しているのか。株を取引するとはどういうことなのか。

 このことが奇妙なのは、通常、われわれは、取引とは、生活にとって必要であり、それゆえ価値をもつものが交換されると考えているからです。しかし、株を取引するのはどういうことかといえば、株を買って、ただ売ることによって利益を得るわけです。むろん、ある企業を資金的に支えることが目的だということもできますが、それでは株式市場という特有の「市場」の意味が明らかになりません。

 実際、多くの投資家はただ金銭的利益を得るためだけに、この市場に参入するわけです。日常生活で必要なモノを買うわけではない。それどころか、金融市場はむしろ、われわれが日常では必要としない金銭を取引する場所なのです。日常の必要品にせよ多少の贅沢品にせよ、いずれにせよモノの購入へとはまわらないお金を取引する市場です。商品といっても、株も社債も定期預金(これも金融商品です)も日常品ではない。証券へ()ぎ込まれる貨幣は、現状の日常生活では必要とされないものなのですね。一種の余剰であり、「余計なもの」なのです。その「余計なもの」の取引によって金融市場は成立しています。

企業内の二つの人格──短期的評価にふりまわされる「シンボル経済」

 金融市場の拡大によって、金融部門と実物部門が分離していきます。金融部門では、モノではなく、お金と証券が交換されている。これはモノの生産や生活に必要なサーヴィスの提供ではなく、いわば実体をもたない価値表象どうしの交換です。いわば、それ自体は実体をもたないシンボルが相互に交換される。ドラッカーはそれを「シンボル経済」と呼んでいますが、ここに実物経済とは違ったシンボル経済が形成されます。

 そして、企業の評価もこのシンボル経済において決まってきます。企業の真の実力、あるいは真の技術力や市場支配力といったことは実際にはよくわかりません。それを表象するのが株式市場などのシンボル経済です。松下電器の株価はいまいくらだとか、ソニーの株はいまいくらだなどといいますが、これは企業業績の金融的評価です。いわばシンボル的な評価ですが、それが実体の代理となる。

 企業の実物的側面は急には変動しません。機械を多少止めたり、労働時間を短縮したりはしても、工場を閉鎖したり経営方針を大転換することは難しい。だから、実物部門はそれほど急には変動しない。

 しかし、金融部門は毎日変化するわけです。その結果、企業の実体的側面と金融的側面に乖離(かいり)が生じる。この乖離が大きくなったり小さくなったりすることで、経済は不安定化するのです。企業の金融的側面と、実際に生産活動を行う資本ストックや機械設備、技術などの実体的側面が分離しつつ、相互に関連している。ここに近代経済の不安定性の一因が生じてくる。

 企業からすれば、長期的によい技術を開発し、安定した経営を行うだけでは済みません。株式市場での投資家の評価を無視しえないのです。株価が下がれば企業の将来性が危うくなり、投資資金を調達することも困難になります。ところが投資家は、概して、短期の即席の利益を求めますし、何か目立ったことをして評判になれば投資家の評価は一気に高まります。

 こうして企業経営は、どうしても短期的視野で、市場での評判を得るようなことを行うようになります。実際に、ある企業が長期的にどれくらいの生産能力をもっているか、安定した経営を行うか、というより、たとえば他企業を買収して即席の利益を上げ、広告によって評判を得るほうが投資家の受けはよいでしょう。実際、八〇年代、九〇年代のアメリカでは、企業経営者は、投資家の評判を得るために、次々と合併(M&A)を繰り返したものです。

 優れた技術を高いコストを払って導入し、それを回収するためには長期にわたる展望がなければならないというのでは、はたして株式市場の投資家がそれを評価してくれるかわかりません。
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