読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-2
kiji
0
0
1226123
0
20世紀とは何だったのか
2
0
0
0
0
0
0
人文・科学
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
附論 「近代の超克」という試み

『20世紀とは何だったのか』
[著]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


読了目安時間:53分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ

京都大学最終講義 


一 近代のパラドクス

「真」と「善」が引き裂かれた近代

 あらためて「近代」とは何なのか。この問題を考える手がかりとして、ここでは、政治哲学者レオ・シュトラウス(一八八九〜一九七三)が一九六三年に行った「近代性の危機」という講演を取り上げてみることにします。

 この人はドイツ生まれのユダヤ人で、ハイデガーの影響を受けつつ、アメリカに亡命し、戦後アメリカで活躍した政治哲学者なのですが、きわめて特異な哲学者のため、二十一世紀に入るまでは、名前のわりには具体的にどんなことをしたのか、あまり知られてきませんでした。しかし、アメリカの対テロ戦争を主導したネオコン(新保守主義者)の理論的指導者と目されたことで、一躍脚光を浴びるようになったわけです。ただし、本当にネオコンの主張がシュトラウスの思想を反映しているかどうかについては、疑問が残ります。

 さて、その講演のなかで、シュトラウスが言いたかったことを端的にまとめると、こうなるでしょう。

 近代の最大の危機は哲学と科学とが分離したことにある。

 古代ギリシャに誕生した哲学は、もともと、よりよい人間の生き方やよい行為、すなわち「善」を探究する知的営為でした。それゆえ、「善」を実現できる社会とは何か。よき国家とは何か。そういう実践的な課題と深く関わってきたわけです。一方、科学(自然学)は、人間の力を超えたところにあって、宇宙や自然、人間や社会を突き動かす基本的な原理、つまり「真」を解明する知的営為として誕生します。

 古代ギリシャにあっては、この二つは密接不可分、一体のものでした。プラトンの「イデア」がまさにそうで、プラトンはそれを「真」「善」「美」一体のものとして追究した。「イデア」論というのは、人間の経験や力を超えたところに、宇宙や自然、人間や社会のいわば「原型」とでもいうべき抽象的で普遍的な理念があるはずだ、とする考え方ですね。この、人間の経験のような事実存在を超えたところにこそ最高の価値がある、そして、それは直接経験することはできないけれど、何らかの形で窺い知ることができる、とする考え方は、その後、西洋思想の核をなしていくわけですが、それはさておき、だから、その「イデア」という非常に高い価値を探究していくことは、人間にとって一番重要な仕事であり、必ずや人間によりよき生をもたらす、と考えたわけです。つまり、「真」を追究することは「善」を追究することと一体のものとしてあった。

 プラトンの弟子で、古来プラトンと対比されることも多かったアリストテレスなども、人間にとって最高の「善」なる生活は、物事を観照して「真」なるものを知る「観照的生活」にあるとしています。つまり、「善」と「真」は一体のものであり、「善」と乖離した「真」などはありえなかったのです。

 ところが、近代になって、その「善」と「真」が分裂してしまった、とシュトラウスは語る。科学が哲学から分離したばかりか、時代が下るにしたがって、どんどん哲学の地位を低め科学の地位を高めるようになってしまい、いまでは科学は哲学から分離して自立してしまった、と。どうしてそうなったかといえば、二十世紀の科学は、自然科学のみならず社会科学においても実証主義を旨として発展してきたわけですが、その実証主義が対象への価値判断を禁忌したからです。そのため、価値と事実認識、すなわち「善」と「真」が引き裂かれてしまった。真理の探究が、人間のよりよき生とどう関わっていくのか、そこを探究する回路が断たれてしまったのですね。人間を導くような価値の探究は蚊帳の外に置かれてしまった。

 科学ばかりではない。近代では、同じようなことが、政治思想でも起きます。古代ギリシャにあっては、政治思想においても、根幹にすえられていたのは、よき国家の実現、「善」なるものの追究でした。ただし、「善」なるものは、われわれ人間の日常的な生活や感覚を超えたところにある。それを理解できるのは哲学者だけである。プラトンの考えがそうですね。それゆえ、プラトンは民主主義を批判したわけです。民主主義というのは、すべて、われわれの日常の利害関係から出発している。ところが、人間の利害関係は人それぞれで異なる。そういうバラバラな利益やら関心を糾合して、持久力のある、長期的に残っていくような優れた国家をつくることなどできない。これが、プラトンによる民主主義批判の一番の基本です。プラトンが目指した国家、政治とは、そのポリスにいることによって、市民が人間として成長し、より高度な文化や社会を創造してゆくものだった。だからこそ、民主国家ではよき政治は不可能だ、と考えたのです。

 ところが、近代の政治思想にいたると、ホッブズあたりが嚆矢(こうし)といえるのでしょうが、「善」の追究などは完全に放棄される。国家契約説、すなわち、人間は生まれながらにして自由平等であり、その対等な個人相互の契約によって国家は成り立っている、とする説に依拠して政治思想が展開されるようになるのですから、当然です。つまり、「イデア」あるいは「善」に代わって、万人の有した権利である「生存」と「自由平等」こそが近代を貫く政治理念となる。その国家が「善」であるかどうかは問わない。ただただ人々の「生命」と「自由平等」を保障することが近代国家の役割とされるようになるのです。

 哲学と科学の分裂、あるいは哲学から科学への移行という先ほどの話にそっくりだと思いませんか。政治も、もう「善」や価値にはかかわらない。ひとつの共同体、ひとつの国家が特定の価値や理想を追究するという議論はもうしない、ということです。なぜなら、万人は自由で平等だから追究すべき価値も人それぞれ。そこに政治はタッチしない、というわけです。これは、価値の相対主義ですね。自由平等という政治思想は価値の相対主義を前提としている。価値は相対的であって、すべての人が共通して「これはよい」と思えるような絶対的な価値など存在しない。すなわち、超越的な「善」など存在しない。われわれの生きている現代は、完全に、こういった価値相対主義に覆われていますね。こう考えるのが当然だと思っている。

 しかし昔は、古代ギリシャの都市国家が現実問題としてどれほど理想的な国家を実現しようとしたかはわかりませんが、ギリシャのポリスに生きるということは、市民にとって明らかに誇らしいことだった。ポリスに生きることは文明化された社会に生きているという特権的な意識をもたらした。それゆえ、ポリス外の人間を「バルバロイ」と呼んだわけです。バルバロイというのはわけのわからない言葉をしゃべる人という意味です。これは野蛮人である、と。そこから、現代のbarbarian という英語が派生してきます。対して、ポリス市民は civitas (キビタス)。こちらはラテン語ですが、文明化された優れた人を指します。つまり、アテネやスパルタなど都市のありようは違っても、都市国家に生きる人びとは皆、周辺の部族共同体とは違っている。ポリスは優れた共同体であるという意識を共有していたということです。

 この伝統は、中世ヨーロッパの自治都市にもつながっていたでしょうし、ルネサンスのイタリア都市にもあった。自治都市に生きる人たちは都市に生きてることを誇りにした。その名残はいまでも感じられます。ヨーロッパを旅行すると、古代ローマがつくった都市がいっぱいありますね。「……ブルグ」などというところは、だいたいそうです。そういう街に行って、その街で生まれ育った人と話すと、街に対する誇りの持ち方が「お国自慢」どころではない。「自分の住んでいる街は特別だ」と言い切ります。

 以前、ベルリンからハンブルグに向かって電車に乗ったときのことです。前に座っているおじさんがハンブルグの人だというので、「ハンブルグというのはいい街か」と訊ねたら、即座に、こうまくしたてられたものです。
「それはもう、ハンブルグほどいいところはない。ハンブルグは世界で一番素晴らしい都市だ。ハンブルグに来たら二週間は滞在しないとダメだ。二週間滞在しないとハンブルグは見て回れない」

 たしかに着いてみると、きれいないい街ではある。しかし、一日見て回ったら特に行くところもない。内心「京都のほうがいいや」と思ったものですが(笑)、とにかく、キビタスの末裔たちが、いまでも「わが街は世界一」と言い切るほど街に誇りを持っていることがよくわかりました。そういう意識がヨーロッパにはまだ残存している。

 とはいえ、現代社会にあっては、そういう意識も、そのおじさんの個人的な感想にすぎない、ということになります。たとえ、ハンブルグに昔から住んでいる人がほとんどそういう意識だったとしても、それはそれぞれの主観なのです。なんせ「人それぞれ」「人生色々」なのです。なぜなら、価値は相対的だからです。ハンブルグについて住民一人ひとりがどう思おうと、それはその人の自由というだけのことです。それが現代の政治思想の根幹をなしている。

 だから、「ハンブルグをよりよき都市にする」といっても、そのイメージは共有されないというのが前提。みんなが自由平等にバラバラの価値を追究するというのが、近代政治思想における人間の定義だからです。そうすると、たとえばハンブルグの市長がやるべきことは、市民の要求をできるだけ聞いて、市民の多様な要求に答えることになる。それに尽きる。つまり、行政です。下水道を完備してくれという要求が出てくれば、下水道を完備する。バスをちゃんと走らせてくれと言われれば、バスを走らせる。
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:22215文字/本文:26157文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次