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20世紀とは何だったのか
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人文・科学
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解説

『20世紀とは何だったのか』
[著]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


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松原隆一郎 

 本書は前作『西欧近代を問い直す』に続き、タイトル通り「20世紀とは何だったのか」という壮大な課題を扱っている。「壮大な」というのは、20世紀が記録や直接の証言がふんだんに残されている「近・過去」であるだけに対象とする学術的な著作は分野にしても歴史学から社会学、経済学、哲学、政治学と多岐にわたり、通覧することがほとんど不可能であることを指す。そうした課題に対してよくある取り組み方は、多くの専門家が合議しながら分担執筆するというものであろう。「社会思想史」や「総合社会科学」といった分野にしても、多くの有名著作を紹介する総花的な教科書になりがちである。

 しかし著者である佐伯氏は、単独でこの課題に挑んだ。そこで著者が選んだ方法は、予想外であり平凡でもあるやり方だった。つまり文献として、岩波文庫の古典と中央公論社の「世界の名著」、それに20世紀の古典を加えれば十分とみなす、というものであった。それならば文献の量は減り、一個人が通読しうる範囲に収まる。

 そうした立場に対しては、当然、批判の声が上がるだろう。それらの「文献」はいわゆる一般教養であり、大学では基本常識とされるものであって、その先にこそ専門の学術研究が待ち構えている。「20世紀とは何だったのか」といった難しい課題に挑むには、専門の学術を総動員しなければならないのだ、と。

 それにもかかわらず著者がこうした叙述を用いたのには、おおよそ二つの理由があったと思われる。ひとつは佐伯氏自身が冒頭に述べていることで、「現代文明や現代社会を見る『見方』を提示する」ことが本書の目的だからである。それには「山ほどの文献を読み、該博な知識を身につけるよりも、『現代』という時代の本質を理解することのほうがはるかに大事」である。「自分なりの見方、考え方がなければ、いかに多くの文献を読み、知識を仕入れても、そこから自分の問題を発見することはできない」。

 実はこれは、相当に深刻な問題である。というのも「学術」においては、専門分野の範囲をあらかじめ制限し、そうすることで細部について正確な分析を進めることができるとされている。なるほど自然科学のように細部に焦点を絞ることで本質の一端に触れることができる分野では、その方針はおおいに威力を発揮する。「青色LED」を発明するには金属材料や半導体やレーザーなどの専門知識を掘り下げる必要があり、それらが交差するところで現実に成果がもたらされた。

 けれども「20世紀」についてはどうか。歴史学や社会学、経済学、哲学、政治学、法学といった専門分野に切り分け、詳細かつ厳密に論じた後に総合したり通覧したりすることで、その本質に到達しうるだろうか。というのもそれぞれの学問分野の切り分け方には偏向ないし癖があり、そこで用いられる用語はその偏向を前提としていて、いったん切り分けてしまうと、分野を交差させたり専門家が対話したりすることそのものが不可能になる。ある専門家が用いる専門語はその分野の他の専門語と定義が異なり、日常の言葉に翻訳されることも他の専門分野に転写されることも拒んでしまう。

 それでも専門家同士が対話を続けようとすれば、そもそもなぜそれぞれの専門分野が特定の「偏向」を選び取ったのかを説明しなければならない。しかし「偏向」を受け入れ特定の専門に進んだ人は、多かれ少なかれその「癖」が気性に合っていたにすぎない。どの「癖」が妥当かというのは価値判断や趣味の問題にすぎないから、ここで対話は途絶えてしまう。

 だから「偏向」にのっとって細部を精査した後に総合して「20世紀」の全体像を再構成できるというのは、発想が楽観的過ぎる。これは、文脈(コンテクスト)を無視して部分的にのみ意味ありげな文章を集めても、文脈は構成されないということでもある。文章の一部を書く際には、あらかじめ文脈への配慮が仕込まれていなければ、総体として有意味な文章にはならないのである。そして歴史や思想の文脈は、古典が決定している。全体像を再構成するには、古典に立ち戻るしかないのである。

 とはいえ専門家たちが互いに対話できないというだけならば、社会にとってさしたる問題ではない。けれども専門家は、それぞれが真理と信じるところに従って、社会を作り替えようとする。これは恐ろしいことではないだろうか。バラバラな方針に沿って、社会を変更しようというのだから。そのことはこの叙述が採用された二つ目の理由に絡んでくるが、それについては後述しよう。

 さて本書は平易な文章で書かれているので要約する必要もないが、さらに簡略化してみよう。出発点は、『西欧近代を問い直す』で描かれたように、ヨーロッパ近代の啓蒙主義である。それは歴史を進歩しうるものとみなし、いまだ近代に目覚めない外部の地域に光を当て導こうとする。近代以前のように神や信仰のために生きることを否定し、人々が生命を脅かされず個々の財産を築くことを理念とする。

 これを論理的な言葉で語ったのがホッブスの「自己保存」であり、デカルトの「疑い得ないものとしての自分」であった。そこからは、自由な経済活動や民主主義を通じた政治的決定が個人に認められるべき権利だという考え方が生まれてくる。さらに国家は国民の個々人が契約によって形成するものとされ、国家間で合意ができず紛争に至るとしても、ヨーロッパ内では多国間で勢力が均衡するとみなされた(勢力均衡論)。

 19世紀末になると、啓蒙主義は未開の人々に光をもたらすという善意と、うらはらに軍事的抑圧によって利益を搾取しようとする帝国主義とをもって、アジア・アフリカをも含む世界へと広がっていった。しかし伝搬の過程で啓蒙主義の理念は侵出先の地域文化から影響を受け、変質を余儀なくされた。帰結として、アメリカにおける自由民主主義とソビエトにおける社会主義が誕生した。そして世界はこの二極によって分割された(冷戦)。

 それはそれで世界に安定をもたらしたとも言える。一方、社会主義圏が崩壊するとアメリカが唯一の大国として世界を平定したかといえば、そうも言い切れない。経済については金融危機が頻発しているし、政治については民族主義が国際的に噴出して、アメリカ国内ですらアングロ・サクソンの伝統は、移民文化の意義を求める多文化主義によって脅かされている。

 こうした不安定化は、ヨーロッパ以外の文化が不純であったせいで起きたのではない。むしろそれは啓蒙主義に内在していた矛盾が顕在化したものである。それを鋭く指摘したのがニーチェとハイデガーだった。

 ニーチェは個人の自由や人間の平等には、思われるほどしっかりした根拠はないのだと言う。それらは権利であり道徳であるとされるが、ニーチェにとっては実のところ弱者が強者を支配するために仕立て上げた欺瞞にすぎず、普遍の規範などではない。民主主義や平等、自由といった価値観が絶対的なものとされる現状を疑い、より高いもの・偉大なものをめざすべきなのである。しかし現実にはそうした向上心は消え去り、自由民主主義が最良の価値と思い込まれている。それは、現状以上の価値観を追求しないという意味では頽廃にすぎない。ニーチェはそうした無気力に支配された状況をニヒリズムと呼ぶ。

 本書の慧眼は、ニヒリズムを大衆社会化および経済の金融化と結びつけた点に示されている。タルドの言う「公衆」とは、街路に集まって群れている者たちではない。公衆とは、互いに顔見知りでなく切り離されてバラバラなのに、なぜか同じ意見を持ち、同じように考える人々のことである。なぜ彼らは互いに似ているのか。それは独自の意見を持つわけでもないのに意見を求められ、意見を持たない者同士が互いに模倣するうちに、「平均的な意見」なるものが形成されるからである。世論とは、そのように模倣ののちに収斂した「平均的な意見」のことである。

 模倣による意見形成は、金融市場にも現れる。株式投資とは、もともとはある事業ないし企業がものづくりなどで新たな価値観を打ち出すことに対し、株主が支持を表明することであった。投資には、事業という形で提起された積極的な価値形成に対する共感が表明されているはずなのである。ところが株式投資は、いつしかたんなる投機と化してしまう。投機においては、安い時に買い高い時に売って利益を出すことだけが注目される。株価は事業に対する評価を半面の根拠とする。しかし理由はなくとも大勢の株主が買えば株価は上昇するのだから、事業への評価よりも株主の「平均的な意見」の動向に関心が持たれるようになる。それをケインズは「美人投票」と呼んだ。「美人(という価値)に対する投票」ではなく、「美人投票の結果を言い当てる投票」みたいなものだ、というのである。

 金融市場で「美人投票」が支配的になると、事業主は自分の信念にもとづいて新たな価値を創出するよりも、投資家の好みそうな経営を余儀なくされる。長期的に生産能力を上げるより、他企業を買収して手っ取り早く利益を上げるほうが投資家の受けが良くなる。こうして価値創出のために着実にカネを投じようとする投資の勢いが失せると、総需要が減退する。不況の到来である。逆にカネ余りで根拠もなく金融資産が買われると、バブルが膨らむ。事業を通じた価値の創造は共感にもとづかない株主たちの集団心理に左右され、必要以上に持ち上げられたり冷遇されたりするのである。

 ケインズはそこで、投機に回されて長期投資に向かわなくなったカネを政府が管理し、都会の景観改善や美術館などの美的なもの、田園の環境整備に投じるべきだと主張する。自分の利害を超えたところで公共のことがらに配慮しうるエリートが先導して、公共事業を行うべきだというのである。

 事業が創造的であれば、企業に勤める従業員も仲間たちとともにものづくりに励むことができるだろう。ことにヨーロッパのものづくりは職人的な手仕事であり、技術は技芸として身体と一体化している。職人は独自の技を持つ身体として、自己を確認できる。

 ところがアメリカにおいては、移民が労働者となった。それゆえ技術は身体によって個別性があってはならず、どの国から来た移民でも等しく遂行できねばならない。そのために労働者教育はプログラム化され、技術はマニュアルとして共有されることとなった。

 労働者はマニュアルと異なる動作をすることを禁じられ、出来上がった商品もマクドナルドのように世界中で均質化が図られた。地域性・個別性を持つはずの技術や味覚までが、身体や文化から切り離されて、「方法化」されたのである。佐伯氏はこうした技術主義をアメリカニズムと呼び、それこそが20世紀におけるニヒリズムの究極形態だと見る。

 一方、社会主義においても中央計画当局が労働者たちを一律に動かそうとするのであるから、マニュアル化が必要になる。社会主義とアメリカニズムは、覇権とともにニヒリズムの主導権をも競ったのだ。

 問題は、20世紀を経たいま、人間が文化や身体から遊離したマニュアルに埋め込まれたままで、安んじていられるかだろう。身体や文化を取り戻すひとつのやり方は、民族主義である。イスラム過激派がアメリカ文明を厳しく攻撃するのは、アメリカニズムに従属したならば、労働や消費といった人間の暮らしからイスラム文化が消去されかねないと察知したからに違いない。攻撃の方法については、とても承服できるものではないのだが。

 では民族主義を選ぶこともできない我々には、ニヒリズムから脱する道はありうるのだろうか。ハイデガーは『存在と時間』において、モノや世界の意味が生き生きして見えないニヒリズムは、「ここに机がある」ことへの驚きを忘れること(頽落)に発するとみる。デカルトが述べたように確実な自己が外部にあるモノや他人を眺めるだけでは、人は世界に「驚き」を感じない。教室に机があり、学生がいて、そこに包まれるようにして自分は存在している。自分は世界の外部に立っているのではなく、世界に投げ込まれているのだ。

 そのことを「驚き」と感じるならば、この世界は人間にとって気ままに改造できるようなものではなく、むしろ先人が過去の営為によって生み出したものとして受け止めるしかない。過去は観照しうる対象でしかなく、未来はいまだ存在しないものとして引き受けねばならない。

 ケインズはそのことを自覚する人物として、金融市場に巣食いニヒリズムに微睡(まどろ)む大衆ではなく、政策に携わるエリートに期待をかけた。では我々もまたケインズの指摘のまま、エリートに期待しうるだろうか。

 この問いには、否と答えるしかない。というのも現在においては学術に通じた専門家こそがエリートだからだ。学術とは、世界を一定の方法で切り取り、その方法の言葉で表するものであった。たとえば経済学者にとって都心のビルの容積を増やすように規制緩和することは、それによって利潤や効率が高まるかどうかで判断されるべき事柄とされる。それによって過去から引き継がれてきた街並みが一変し、歴史ある景観が失われたとしても、さしたる関心は払われない。専門家にとっての真理追究は、社会を破壊しかねないのだ。オルテガが指摘したように、専門家こそが大衆人の典型なのであり、ニヒリズムに埋没しているのである。

 ここで、同じく古典に始まるにせよ、そこから議論の範囲をできるかぎり、細分化し精緻化していくという「専門主義」を取らず、古典に込められた「見方」「考え方」を(すく)いだし、相互に関連づけていくという本書の企図が見えてくる。本書の叙述が持つ第二の意義である。現代文明に対し相互に関連づけられた構え方を持つことそのものが、世界を切り刻む専門主義というニヒリズムに抗することになるのである。

 私はそうした構え方をより具体的な時事問題に即して持とうとする嫌いがあるが、佐伯氏はさらに日本思想の古典へと渉猟の範囲を広げておられる。20世紀とは世界が専門主義によって切り刻まれ全体像が見えなくなった時代であったが、それはヨーロッパ近代の帰結でもあった。では日本思想はどのような「見方」や「考え方」を提示したのか。佐伯氏の読解に期待したい。
(東京大学大学院教授・社会経済学) 
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