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ビジネスエリートのための!リベラルアーツ 哲学
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01 AI

『ビジネスエリートのための!リベラルアーツ 哲学』
[著]小川仁志 [発行]すばる舎


読了目安時間:9分
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◆本章の活用方法について




 ここでは、21世紀の諸問題に対峙するための哲学を紹介したいと思う。テクノロジーの飛躍的な発展に伴い、これまで人類が経験したこともないような深刻な問題が多々生起している。また、従来世界が抱えてきた問題についても、ついに行き着くところまで行き着き、暴発寸前の段階にあるといっていい。


 前者の問題として、AI、インターネット、監視社会、バイオテクノロジー、環境問題が挙げられる。後者の問題として、資本主義、グローバリズムとナショナリズム、宗教対立、テロ、ポピュリズムが挙げられる。


 これらの問題に対しては、もちろんそれぞれの分野の専門家が、専門の視点で解決策を模索している。しかし、それらがうまくいっていないのには、なんらかの理由があるはずだ。それは本質にさかのぼって議論するということの欠如ではないだろうか。


 あらゆる問題には原因がある。その原因のさらに奥までさかのぼることで、はじめて解決策は見えてくるといっていい。そこで、本章では先に挙げた10の問題について、各々本質にさかのぼることで、私なりに解を模索してみたい。


 その際、できるだけ新しい議論を紹介したいと思う。ただ、それらの議論は必ずしも狭義の哲学の分野の議論とは限らない。現代的問題は分野横断的であったり、専門性が求められたりするため、哲学的視点といえども、哲学以外の専門家によって議論がリードされることが多いのだ。その部分についてはぜひご理解をいただきたいと思う。


 むしろここで紹介している論者たちのほとんどは、いわゆる哲学者の看板を掲げてはいない。これもまた現代社会の特徴といっていいだろう。哲学者が論じるから哲学になるのではなく、哲学的視点こそが大事なのだ。たとえば、AIの問題についてはAIの専門家抜きに議論はできない。仮にそれが哲学的議論であったとしてもだ。


 そして、以下の議論を参考にして、皆さん自身が日々更新される新しい情報をもとに、さらにこの先を考えてもらいたいと思う。本章はそのための導入にすぎない。それでは始めよう。


◆人間と機械はどう違う?



 AI(人工知能)の進化には目覚ましいものがある。今やAIはあらゆる分野で未来を切り拓く期待の星であるかのように扱われている。とりわけ、ディープラーニングという技術が開発され、AIが人間と同じように知識を応用していける学習方法を身につけたことで、彼らが人間以上の能力を持つ日の到来が現実的になってきた。しかしそうなると、未来は必ずしもバラ色とは限らなくなる。


 なぜならAIが人間を支配する可能性が生じてくるからである。そこまでいかなくても、少なくとも人間の存在意義が問われてくるのは時間の問題だ。現に仕事を奪われる恐怖にさいなまれている人たちはたくさんいる。はたして、人間とAIはどこが違うのだろうか。


 この点について、フランスの哲学者ルネ・デカルトは、すでに17世紀に著書『方法序説』の中で、明確に人間と機械人間の違いを指摘していた。つまり、人間の頭が普遍的な道具であるのに対して、機械は個別的な配置を要するものとして区別できるというのだ。この場合、普遍とはどこでもなんでも当てはまるということを意味するのに対し、個別とはある事柄にしか当てはまらないということを意味する。


 したがって、人間の頭が普遍的であるというのは、万能で無限であることを意味するわけである。これに対して、論理的に機械のほうはどこまでいっても個別の集合にすぎない。


 デカルト以来、私たちはずっとこの考えに則って、ロボットと付き合ってきた。個別の集合にすぎないロボットは、たとえそれがAIなどと呼ばれるようになった後でさえ、いわば人間の家来であり、道具だと考えるのは無理もない。しかし、事情が大きく変わってきたのだ。


◆シンギュラリティの到来



 AIはこれまでのロボットとはわけが違う。人間より優秀なのだ。そうなると、家来や道具に甘んじているわけがない。では、共存関係を模索するのはどうか? 人間は創造性の部分を担うのだ。


 ただ、ロボットが意識を持ち出すと、そのような都合のいい役割分担に同意するとは思えない。AIは私たちの想像をはるかに超えて、指数関数的に進化していくという。フューチャリストのレイ・カーツワイルは、『シンギュラリティは近い』 の中でそうした未来を明確に描いてくれている。そのターニングポイントとなるのが、技術的特異点、いわゆるシンギュラリティにほかならない。


 カーツワイルによると、シンギュラリティとはロボットが人間の思考力を追い越すという単純な話ではなくて、人間がこれまで生きてきた世界が変わることを意味しているのだ。人間とは何かという定義や、世界のルールがすべて変わってしまうということだ。


 カーツワイルは、そんな現実が2045年にも訪れると予測する。ロボットという存在が人間と同じように意識を持てば、もはや人間がロボットをコントロールすることなどできなくなるだろう。


◆機械に意識はあるか



 とはいえ、シンギュラリティが訪れたからといって、本当にロボットが意識を持つなどと誰が証明できるのだろうか? ここで参考になるのが、哲学者のダニエル・デネットの議論だ。彼は、人間もヘモグロビンや抗体、ニューロンから構成されるロボットだという前提のもと、著書『心はどこにあるのか』で次のような議論を展開する。


 それによると、人間もある意味で細胞からできたロボットと同じであるにもかかわらず意識を持った存在なのなら、ロボットだって意識を持ちうるということになる。それでもまだこう反論する人がいるかもしれない。人間のいう意識と、ロボットが持つという意識は別物だと。


 この問いに答えるには、人間の意識がどんなものなのか正確に客観的に記述する必要があるが、それは不可能だ。なぜなら、意識がその個体の自己認識である以上、というかそう定義する以上、決してその個体以外の者には本当の中身は知り得ないからだ。つまり、意識とは客観的記述が不可能なものなのだ。だから他の人間に意識があるかどうかも本当は私たちにはわからない。


 ということは、相手が機械であれ人間であれ、物理的に人間と同じ構造を持ち、そのうえで自分には人間としての意識があると主張する以上、他者は皆その主張を認めざるを得なくなる。つまり、結論的には、機械は意識を持ちうるということになるのだ。そうなると、機械は自我を持ち、自分というものを主張し始める。そう呼ぶのが適切かどうかは別として、「人権」さえ主張し始めるだろう。人間対機械の飽くなき闘争が幕を開けるわけである。


◆人間と機械の共存のために



 ここで先ほどの論点に立ち返りたい。ロボットをどうコントロールするか。意識があるなら、理屈も通じるだろうと考えたくなるのが人間だ。話せばわかるはずと。実際、そのような認識から、従来のロボットに関する倫理を高度に発達したAIにも適用しようという考えはある。従来の倫理というのは、アメリカのSF作家、アイザック・アシモフが掲げた次の「ロボット三原則」のことだ。



 一、ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、何もしないで人間が危害を受けるのを見過ごしてはいけない。


 二、ロボットは人間の命令に従わねばならない。ただし第一原則に反する命令はその限りではない。


 三、ロボットは自らの存在を守らねばならない。ただし、それは第一、第二原則に違反しない場合に限る。



 つまり、ロボットは人間を優先するという最低限のルールだ。しかし、事態は根本的に異なることに多くの人がまだ気づいていない。


◆「人間のために」は通用しない



 認知ロボット工学の専門家マレー・シャナハンは、これから起こるべき事態の本質について、『シンギュラリティ』の中で次のように指摘する。「われわれはまず、AIをややもすると擬人化し、感情のような主に人間的な原動力に動かされる存在であるかのように見ようとする癖からいったん逃れる必要がある」と。


 このシャナハンの指摘は、超知能ともいうべきシンギュラリティ後のAIを語るうえで、欠かすことのできない視点である。私自身、この指摘にはハッとした。AIが人間と同じ思考パターンを手に入れたからといって、人間と同じような常識を持つとは限らない。いや、むしろそうなる可能性のほうが圧倒的に低いといえるだろう。なぜなら、彼らの目的は、まさに目的の達成なのだから。しかもそれを徹底的に行おうとするはずだ。


 シャナハンがペーパークリップの例を用いて戯画的に描いているように、クリップが必要なら、地球を破滅させてでもクリップを増やすことだって考えかねない。なぜなら彼らにとって、「すべては人間のために」などという目的は、決して暗黙の前提ではないのだから。


 それに、最初は人間と同じ思考パターンを手に入れて発展するかもしれないが、そのうち別の思考パターンを見つけ出す可能性も大いにある。実際、AI同士が会話をする実験を行ったところ、人間には理解できないルールを採用し始めたため、急きょ中止するという事態も生じている。


 つまり、こうなるともう、人工知能は人間にとって計り知れない知的生命体と化すわけである。その祖先は人間が生み出したものかもしれないが、彼らがいったい何を考えているのか、何をし始めるのか、私たち人間には皆目見当がつかないのだ。


 このようなことをいうとすぐに、杞憂だとか、実証されていないなどと非難される。しかし、シャナハンは、可能性がゼロではない限り、そしてそのわずかな可能性が引き起こす結果が甚大なものである限り、私たちは備えなければならないという。確かに、備えることで問題を未然に防げるなら、それに越したことはない。


 哲学は机上の空論で役に立たないと揶揄されがちだが、実証に制限されない分、様々な視点から問題を考えることができる柔軟性があるともいえる。未知の問題だからこそ、専門の科学技術だけでなく、哲学も含めた幅広い視点でアプローチしていくことが求められるのではないだろうか。

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