『池上彰の「天皇とは何ですか?」』
[著]池上彰
[発行]PHP研究所
二〇一六年八月八日、天皇陛下はビデオメッセージを通じて、私たちに向けて「おことば」を表明されました。その言葉を聞いたとき、みなさんはどんな感想を持ったでしょうか。
当時の世論調査を見てみると、およそ八~九割の国民が天皇の生前退位を認める結果となっています。では、政府は陛下の「おことば」をどのように受け止めていたでしょうか。「おことば」が表明された当日、安倍晋三首相は次のようにコメントしました。
「本日、天皇陛下よりお言葉がありました。私としては天皇陛下が国民に向けてご発言されたということを重く受け止めております。天皇陛下のご公務のあり方などについては、天皇陛下のご年齢やご公務の負担の現状に鑑みるとき、天皇陛下のご心労に思いを致し、どのようなことができるのか、しっかりと考えていかなければいけないと思っています」
安倍首相は、生前退位を認めるとも認めないとも言っていません。どのようなことができるかをしっかりと考えなければいけない、と言っています。
なぜかというと、生前退位は、現在の皇室典範で決められているルールに触れるものだからです。皇室典範第四条には、こうあります。
第四条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。
ここでいう「皇嗣」とは、皇位継承の順番が一位の方のことです。ですから、平成の間は皇太子さまが皇嗣です。
この条文では、皇位の継承は、天皇が崩御したときに行われると定められています。逆にいうと、天皇は、ご存命の間は退位することができません。つまり、生前退位というケースを皇室典範は想定していません。だから政府としても、すぐに生前退位を認めることはできないわけです。
陛下ご自身も、そのことはよくわかっておられます。だから、「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います」と、非常に慎重な言い方をなさっています。
第一章でも説明したように、天皇は国の政治にかかわる力を持っていません。憲法第四条にも、天皇は「国政に関する権能を有しない」と定められています。
このことを陛下もよくわかっていらっしゃるからこそ、「現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」と語られている。つまり、「法改正をしてほしい」といった、直接政治にかかわるようなことはおっしゃらないわけです。
安倍首相は、そういったことも忖度しなければなりません。仮に「おことば」を受けて、政府がすぐに法律を変えて生前退位を認めてしまうと、天皇陛下の「おことば」に政治的な力を持たせることになってしまう。それでは、憲法に触れることはしたくないという陛下のご本意を裏切ることになります。「どのようなことができるのか、しっかりと考えていかなければいけない」という安倍首相のコメントには、そのような背景もあるのです。
それではなぜ、陛下は退位のご意向を表明されたのでしょうか。「おことば」を読みながら考えていきましょう。ビデオメッセージでは、このようにおっしゃっています。
「何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八〇を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」
陛下は、二〇一二年二月に心臓の冠動脈バイパス手術を、二〇〇三年一月には前立腺ガンの手術を受けられています。こうした手術と高齢が重なって、身体の衰えが感じられるようになった。