「朝食にはモーツアルト、夕食にはバッハ」
昇一
三十歳で結婚する頃には、いっぱしのクラシック愛好者になっていた私が、将来の夢ふくらむ婚約時代に、家内と交わした約束は、
「朝はモーツアルトを聴きながら、夕食はバッハを聴きながら、食事をしよう」
ということだった。しかし、実際、結婚生活に入ると、そのささやかな約束を実行することは、いかに難しかったか。
当時、大学の新米講師であった私は、朝、一時間目の授業を持たされることが多かった。それに加えて、上智大学は遅刻を大変に嫌う校風であり、授業開始とともに教室のドアに鍵をかけて、遅刻者の侵入を防いでいたぐらいなのだ。ましてや教師が遅れるなんて、到底、許されない行為である。だから、朝早い授業のときは、モーツアルトを聴きながらの食事どころか、ろくに朝食も摂らずに家を跳び出すことのほうが多かったのである。
その頃家内は、家で個人レッスンをしていた。当時は戦後の第一次ピアノブームでもあったろうか。若い母親たちは自分が娘時代に憧れたピアノの音が聴こえてくる生活というものを実現するために、自分の娘にピアノを習わせることが流行った。家内のところにも個人レッスンの依頼が多く、断るのに一苦労していたようだ。当時のレッスン料は他の物価と比べると相当高かったにもかかわらず、である。ちなみに、昭和三十年代の前半頃までの住み込みのお手伝いさんの給料が、たしか一カ月五百円くらいだった頃、家内のクラスのピアノ教師の一カ月のレッスン料も五百円だった。別格に偉い人は一回のレッスン料が三千円だったそうだ。池田内閣の所得倍増計画の頃から住み込みのお手伝いさんの月給は三千円、七千円、九千円という具合に上がっていって、昭和五十年頃になると、住み込みのお手伝いさん自体がなくなってしまう。
そのうちに子供が生まれて、男の子二人、女の子一人、家内は三十歳前に三児の母になった。子供を育てた者なら誰でも実感することであるが、子供とは絶えず病気をし、怪我をする小動物である。学校に上がれば上がったで不断に問題が生じる。そうなると、モーツアルトやバッハを家でゆっくり聴く機会は稀になっていった。しかし外国から有名な演奏家が来ると、家内は勤勉にその音楽会を聴きに行った。これは私の分野なら、学会か学術講演会に行くことに匹敵しよう。三人の子供を育てながらも――まだ住み込みのお手伝いさんもいたが――音楽に対する向上心を失わないでいる家内に私は感心していた。
残念ながら、「朝食にはモーツアルト、夕食にはバッハ」という約束が実行されなかったが、家内はクラシック音楽についての一つの真理を教えてくれた。「音楽は場所と機会を選ぶ」ということである。
家内は、台所で料理をしているときにベートーヴェンの曲が流れてくるとイライラするという。モーツアルトやバッハなどのバロック系なら、いい気持ちで仕事がはかどるそうだ。ベートーヴェンは、もちろん曲にもよると思うが、自己主張が強すぎるというのである。「おれの音楽を聴け! 聴かないとぶん殴るぞ!」といった攻撃的な感じがあるのかもしれない。
家内の話から思い出したことがある。ドイツ留学時代に、留学生の集まりで、パリ旅行に連れていってもらったことがある。団長はドクター・ルッシュというおばさんで、あるとき音楽の話になった。どんな音楽を聴こうかという話題のとき、私はいい気になって、ベートーヴェンと言ったのである。すかさず、ドクター・ルッシュがこう言った、「ここではベートーヴェンは合わない。バッハならいい」と。音楽にもTPOというものがあると、あらためて気づかされたのであった。
ちなみに、わが家ならではの音楽の組み合わせを紹介しよう。緋毛氈の雛飾りに合うクラシック音楽というと、実は、バッハの『ブランデンブルグ協奏曲』なのだ。お雛さまを飾った静かな部屋で『ブランデンブルグ協奏曲』を流すと、典雅な雰囲気になる。この典雅という芸術形態はそう簡単にできるものではない。歴史的、文化的要素が噛み合って初めて成立するのである。どうして、このように一見奇妙な組み合わせになったのか。『ブランデンブルグ協奏曲』のできた頃と、雛祭りが一般に流行した江戸期とは、時代背景が実は似ているのではあるまいか。
その頃のドイツは、三十年戦争が終わり、宗教的情熱も沈静化して、戦争ですら礼儀正しくやるような時代になっていた。その中でバロックやロココといった建築様式も生み出され、文化は一挙に高まっていったのだ。その時代と、天下泰平を謳歌した江戸時代とは何か共通点があって、同じような背景で生まれたもの同士、引き付けられていったのではないか。
一番わかりやすい音楽は何かというと、モーツアルトであるということを『タイム』で読んだ記憶がある。アメリカでの実験によると、モーツアルトの音楽的感動は、猿にもある程度わかるらしい。
東京から私の田舎の山形へ帰る国道沿いに養鶏場があり、そこの鶏舎では、モーツアルトを流していた。なんでも、そうすると卵をよく生むからだそうだ。そこで生みたての卵をたくさん買ったけれども、気のせいか、味が濃厚だったように思えた。
また、赤ちゃんは、モーツアルトをかけると、すやすやよく眠るという実験結果がある。面白いことに、謠曲をうなると泣き出すという。これは一体どういうことなのだろうか。
昔、ある雑誌で、東京医科歯科大学の角田忠信教授と対談したことがある。角田教授は、日本人独特の脳のメカニズムを解き明かした先駆的な学者であるが、そのとき日本人の音楽観について面白いことを言われた。
日本人は、葉ずれや風の音、虫や蝉の鳴く声などを左脳でも聴くけれど、西欧人は左脳には関係なくそれを単なる雑音として認識するというのである。だから西欧で日本映画を上映する場合、画面いっぱいに蝉時雨の音が響いているようなシーンは、蝉時雨の音をカットして、何か別の音をバックに流すそうだ。
また角田先生は大脳生理学上、音楽の効用を考えたとき、上質のクラシックは脳の疲れをとるのに一番だとおっしゃった。
そういえば、思い当たることがある。ドイツ留学から帰った後、よく名曲喫茶へ行っては外国語の雑誌を読んだり専門書を開いたりしていたのだ。店内に流れるクラシック音楽を、聴くともなしに聴いていると、心がとてもリラックスしてくる。これはどういうわけかと、いろいろな本を読んで勉強した結果、一つの結論を得た。
クラシックの中でも、絶対音楽の時代のバッハやモーツアルトなどの作品は、意味を考えずに聴いて、そのまま受け流すから、論理的思考を司る左脳の働きを休止させる。左脳の働きが休止するということは、とりもなおさず、読書などで過労気味の左脳によい安らぎとか休息を与えてくれるのではなかろうか。
虫の声や風の音などの心地よい騒音や、気にならない雑音は、「ホワイト・ノイズ」といって、人間の心をリラックスさせる効果があるらしい。電車の中や喫茶店で勉強がはかどるのは、このホワイト・ノイズのおかげだろう。クラシックの絶対音楽には、一種のホワイト・ノイズ効果というものがあるのではないか。浪曲や歌謡曲など、詞がついていて、その意味を考えてしまうようなものは逆効果である。言葉の意味を考え始めると左脳がどんどん動き出してしまう。
左脳による理解は、自分で論理を組み立てたり作り変えたり、ああでもないこうでもないと考えていくから、疲れを感じやすいし、集中力の持続時間も短い。それに、演歌などを聴いていて、別れた彼女や彼氏を思い出したりしたら、リラックスどころではなく、かえってストレスになるというものである。
クラシック音楽を生活の中に採り入れて、日常を生き生きとさせるために、一つおすすめしたいことがある。それは、コンサート会場に足を運ぶことである。コンサート会場というのは、いわば日常から切り離された異質な空間だ。