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愛国者がテロリストになった日
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歴史
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第一章 ハルビン駅

『愛国者がテロリストになった日』
[著]早坂隆 [発行]PHP研究所


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二つの十字架を隠し持つ男


 明治四十二年(一九〇九年)十月二十六日、黒い洋服の上に厚い外套を羽織り、鳥打帽(とりうちぼう)目深(まぶか)に被った一人の東洋人が、東清(とうしん)鉄道のハルビン駅へと向かって街路を足早に歩いていた。

 時刻は午前七時前である。

 十月末のハルビンの街は厳しい寒さに覆われていたが、朝方は特に冷え込む。大陸特有の乾いた空気の中、吐く息が白い。

 大韓帝国からロシアへの亡命者である彼は、「安応七(アンウンチル)」という姓名を名乗っている。しかし、これは彼の幼名であり、本名は「安重根(アンジユングン)」という。(よわい)は満年齢で三十。

 身長は一メートル六十三センチで、全体的にがっしりとした体格である。顔は面長で、八字髭(はちじひげ)を生やしていた。

 帽子の下の頭髪は、綺麗に整えられている。これは三日前に床屋に行って散髪したためだ。朝鮮の伝統的な(まげ)は結っていない。

 カトリック教徒である彼は、肌身離さず十字架を持っている。洗礼名は「トーマス」。

 カトリックの教義において、殺人が「大罪」とされていることは、彼も充分に認知している。しかし、彼の精神の内側では、殺意が宗教心を遥かに乗り越えていた。カトリック教会における十戒の第五戒「殺してはならない」は、十字架を愛し持つ者の手によって容易(たやす)く犯されようとしている。

 殺意が都合良く信仰を蹴破るのは、人間の(さが)か。

 そんな安重根だが、彼が蔵匿(ぞうとく)していたのは聖なる十字架だけではない。実はもう一つの「灰色の十字架」を彼は(ひそ)かに忍ばせていた。

 彼の左胸の内ポケットには、一梃の拳銃が隠されている。銃の名前を「ブローニング自動式拳銃」という。
「ブローニング」とは、アメリカの銃器設計者であるジョン・モーゼス・ブローニングの名に由来する。

 安重根が所有していたのは「FNブローニングM1900」という拳銃である。一九〇〇年代に欧州市場などで人気を集めた自動式拳銃であった。

 口径は三十二口径(七・六五ミリ)で、装弾数は七発である。

 安重根が持っていた「FNブローニングM1900」の製造番号は「262336」。彼は以前に、知人からこの銃を手に入れたのだという。

 この拳銃には、当時の最先端の技術が凝縮されていた。一九一一年の製造終了まで、百万梃ほどが販売されたと言われている。

 安重根はこのブローニング自動式拳銃を布や紙で包むこともなく、()き出しのまま内ポケットの中に秘匿していた。

 装填されている弾丸の先端には、十字に切れ目が入れられていた。この切れ目があることによって、殺傷能力は飛躍的に高められる。人体の固い場所に触れた弾丸は、鉛とニッケル包皮(ほうひ)の部分が乖離(かいり)して拡散し、より体内の組織を残忍に破壊するのである。

 (ただ)し、この十字は、安重根自身が刻み入れたものではない。十字の彫られていた弾丸を入手したのだという。

 いずれにせよ、安重根は暗殺の標的を確実に仕留めるつもりでいる。

 確乎(かつこ)たる殺意に充ちた、もう一つの「十字架」である。

公爵・伊藤博文に迫る危機


 ハルビン駅は一八九九年に開業した。当時の駅名は「松花江(しようかこう)駅」であるが、その後の一九〇三年七月に「ハルビン駅」へと名称を改めた。
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