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愛国者がテロリストになった日
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歴史
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第三章 成長

『愛国者がテロリストになった日』
[著]早坂隆 [発行]PHP研究所


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伊藤博文内閣の発足


 朝鮮半島における親日勢力の中枢であった開化派は、甲申(こうしん)政変を経て政治的な敗北を喫した。

 その中には、安重根(アンジユングン)の父親である安泰勲(アンテフン)も含まれていた。

 親日的な開化派の落日と、朝鮮人による日本人への暴虐が相次いだ事態を受けて、日本はそれまでに保持してきた外交姿勢の再検討に着手した。政府は明治十八年(一八八五年)六月に「朝鮮弁法八カ条」を清国に提出。これは端的に言えば「日本と清国による朝鮮の共同管理」を提案する内容であった。つまり、従来の「朝鮮を清国の服属国から独立させる」という方針が揺らぎ始めたのである。

 当時の朝鮮に対しては、イギリスやロシアが領土的野心を剥き出しにしていた。朝鮮の国運にとって、そのような爪牙(そうが)から自国を護るには、国家の近代化が最優先事項の筈である。にも(かかわ)らず、朝鮮の政府内ではあくなき政争が延々と繰り返されており、いつまでたっても改革への階梯(かいてい)を踏むことができない。日本は以上のような状況に(かんが)み、朝鮮における清国の一定の実効支配を認める「共同管理案」を提示したのであった。

 だが、清国は日本からのこの提案を(しりぞ)けた。清国は華夷秩序の中で、あくまでも「朝鮮は自らの支配下にある国」と看做(みな)していた。清国は共同管理どころか、朝鮮への支配体制を更に強化しようとさえ目論んでいたのである。

 このような、あまりに前時代的な清国と朝鮮の対応に、日本は苛立ちと危機感を募らせた。
(このままでは、東アジアは欧米列強に蹂躙(じゆうりん)される)

 明治維新と富国強兵によって、国家の枠組みを大きく発展させていた日本は、外交政策において難しい判断を迫られていた。


 天津条約の定めるところにより、日清両軍が朝鮮半島から撤兵したのは明治十八年(一八八五年)七月のことである。翌八月には、それまで清国に幽閉されていた興宣大院君(フンソンデウオングン)の帰国が許された。

 十月、清国の「朝鮮総理交渉通商事宜」の職に袁世凱が就任。清国は朝鮮への干渉をより強化する構えを呈した。

 そんな中、日本でも大きな変化があった。

 十二月二十二日、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したのである。

 天保十二年(一八四一年)九月二日、周防国熊毛郡(すおうのくにくまげぐん)束荷村(つかりむら)に伊藤は生まれた。幼名は「利助(りすけ)」である。

 伊藤と言えば「足軽の子」とよく称されるが、父親の林十蔵(じゆうぞう)は元々は百姓の身分であった。一家の生活には艱苦(かんく)が多く、伊藤は十二歳の頃に奉公に出された。

 この辺りの出自は、朝鮮の特権階級の息子として生まれた安重根とは、皮肉なほど対を成す。

 その後、父・十蔵が下級武士である伊藤家の養子に入ったことにより、利助は足軽の身分を得た。以後、長州藩の私塾である松下村塾で吉田松陰に学んだ伊藤が、明治維新の成立後に長州閥の有力者として新政権内で活躍したことは周知の通りである。

 貧農出身の伊藤が内閣総理大臣として政界の頂点に立ったという事実は、日本が身分制にとらわれない社会を構築するに到ったことの象徴とも言える。

 一方の朝鮮では、強固な身分制度が鉄鎖の如く自国を縛っている。

転居


 安重根の身辺にも、転機が訪れた。

 開化派への厳しい取り締まりの手から逃れるため、一家揃って転居することとなったのである。安重根の父・安泰勲は、海州に有していた土地や家屋を引き払い、同じ黄海道の北方に位置する信川郡に居を移すことを決めた。但し、この移住の背景には、彼らが海州でこれまでに取り仕切ってきたニシン漁の漁獲高が、急激に減少したことも関係したと言われている。
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